2009年11月20日金曜日
ラベル: 例会
2009年11月1日日曜日
0系車両が鉄道博物館に
長さ25・15㍍、幅3・38㍍、高さ3・975㍍。重さ57・6㌧。車内はもとより、床下機器、台車なども見られるように展示されている。
ラベル: 第99号
再現 新幹線出発式
0系新幹線先頭車の展示に伴って、1964(昭和39)年10月1日午前6時発の一番列車を前に、東京駅で行われた出発式の情景が再現された。45年前のこの出発式に列席していた交通ペンクラブ会員がいた。
モノクロ写真を見てください。テープカットしている石田礼助国鉄総裁の左後ろの髪黒々の若者は岩崎雄一氏(1955年国鉄入社)。31歳。石田総裁の秘書をしていた。
「石田さんは十河さんがテープカットをすべきだと言っていました」と岩崎氏は証言するが、その十河信二前総裁も島秀雄前技師長も出発式に招待されなかった。
岩崎氏の左は藤井松太郎技師長で、その後に顔が見えるのが建設局長・仁杉巖氏(1938年運輸省入省)、当時49歳。「名古屋と東京の幹線工事局長で東海道新幹線を建設した。よく出来たな。間に合ってよかったという気持ちだった」と仁杉氏。
もう一人、写真には写っていないが、三坂健康氏(1953年国鉄入社)、当時35歳。
「旅客課の総括補佐で、前日から徹夜作業でした」。三坂氏は十河総裁の秘書をしており、翌日代々木のマンションを訪ねると、十河は「テレビで見たよ。(東海道新幹線が)出来ればいいんですよ」と話した。しかし、さすがに寂しそうだったという。
このモノクロ写真は、岩崎氏が会長をしている(社)全国鉄道広告振興協会に飾ってあったのをコピー機でスキャニングしてもらった。「一列目で存命は私ひとりではないですか」と岩崎氏は感慨深げだった。
ラベル: 第99号
新幹線・リニアを売り込もう
在日大使館員らを招きシンポジウム JR東海が11月16日
アメリカをはじめブラジル、ベトナムなど世界中で高速鉄道の建設計画が持ち上がっている。1964年に開業以来、死亡事故ゼロを続ける東海道新幹線の運営会社・JR東海は、在日大使館員らを招いて高速鉄道シンポジウムを開く。新幹線N700系の性能や、開発中のマグレブ(超電導リニア)を知ってもらい、海外に売り込もうという作戦だ。
ラベル: 第99号
「特急“燕”とその時代」展
「燕」のスピードアップ秘話 鉄道記者が焚き付けた
ラベル: 第99号
2010年 有楽町駅 開業100年
有楽町駅が来年開業100年を迎える。「交通ペン」25周年記念号(2007年7月発行)に、元毎日新聞・諸岡達一会員の「有楽町界隈 新聞街のバラード」を掲載したが、改めて開業時を振り返ってみたい。
ラベル: 第99号
十河信二さんの思い出 故高橋久雄氏の寄稿から
9月23日に亡くなった高橋久雄氏(元東京新聞社会部長)は、交通ペンクラブ創設からの会員で、東海道新幹線をつくった十河信二国鉄総裁の最後の記者会見に出ている。その模様を「交通ペン」創刊号(82年1月22日)と『十河信二(別冊)』(88年6月刊、十河信二傳刊行会)に書き残している。東海道新幹線0系車両が鉄道博物館で公開されたこともあり、一部を再録した。
ラベル: 第99号
親子会員
交通ペンクラブで初の親子会員が誕生した。齋籐雅男(1946年運輸省入省、90歳)・雅之(68年国鉄入社、63歳)父子=写真。ジェーアールバス関東(株)会長となった雅之氏が個人会員として入会して誕生した。ともに運転屋さんで、父親は東海道新幹線直後の65年に新幹線支社運転車両部長となり、初期故障の続発に連日のように「ときわクラブ」でレクチャーするとともに、「常習的に起きている故障を一覧表にして番号をつけ、わかりやすい説明も付け加えた」マニュアルをつくって配布したという(同氏の『驀進』から)。
ラベル: 第99号
2009年10月1日木曜日
2009年8月1日土曜日
交通協会に「ふるさとの駅」寄贈
2009年度交通ペンクラブの総会が七夕の7月7日午後5時から日本交通協会大会議室で開かれた。席上、曽我健代表幹事が長年、お世話になったお礼として、日本交通協会の三坂健康会長に詩人、鈴木比呂志さんの「ふるさとの駅」の扁額を贈った。
ふるさとの駅
ふるさとの駅には
やさしい 母の匂いがする
旅から 帰ってくると
その ふところに 抱かれたくなる
この詩の作者で、書家でもある鈴木比呂志さんが、NHKニュースキャスター時代の曽我健さんに贈った作品。群馬県富岡市の上信電鉄上州一ノ宮駅が最寄り駅の鈴木さんは1959(昭和34)年から、待合室に駅長がつくった「詩の壁」という展示空間に、模造紙に毛筆で詩を書いて貼り出し、乗客の心を慰めた。
朝日新聞の「天声人語」や曽我さんの番組でも紹介された。その詩碑が上州一ノ宮駅のホームに建っている。 鈴木さんは1921(大正10)年生まれ。NHKラジオ歌謡のレギュラー詩人として活躍。作曲家の山田耕筰氏らとともに「松井田高校」をはじめ500を超える校歌や抒情詩を数多く作詞した。古典にも造詣が深く、源氏物語の現代詩訳『源氏その愛と憂愁』『光源氏と王朝の女人たち』(いずれも講談社刊)を出版している。
交通ペンクラブの「ふるさとの駅」は、かつては旧国鉄本社のときわクラブ、今は日本交通協会。額は「交通ペンサロン」が開かれるラウンジの壁に飾られることになっている。
ラベル: 98号
七夕総会にぎやかに
七夕総会の参加者は47人。最長老は元読売新聞の魚住明氏で7月30日に91歳の誕生日を迎えた。昨年度に著作を出された会員が4人。「やっとペンクラブらしくなりましたね」とある会員からいわれた。ロバートソン黎子夫妻がワシントンに戻られる歓送会も兼ね、JTBの女性広報室長も初参加して、にぎやかな一足早い暑気払いとなった。
ラベル: 98号
30年前の戦いの意味を問う
ラベル: 98号
”日本一”だった新聞を紹介
ラベル: 98号
戦火のサイゴンで航空交渉 ~柳井 乃武夫~
牧久さんが『サイゴンの火焔樹―もうひとつのべトナム戦争』(ウェッジ社刊)を出版された。さすがに社会部出身のプロだけあり、外報部、政治部をも通して紙面をにぎわせた筆致は見事だ。30年前の南ベトナム崩壊事情を正確に裏表から記述している。サイゴン陥落の最後の日にも現地にとどまって、命がけで取材に送稿に奮闘した記者魂は読者の胸を打つ。これは史実そのもので、後世に残すべき好著といえる。 興奮して読み終わった私は、現地で航空交渉を行っていた当時のことを回想した。それはテト攻勢のさなかのことだった。昭和43年(1968)1月30日のテト(旧正月)を期してベトコン(越共)武装勢力がグエン・バンチュー(阮文紹)大統領統治下の南ベトナム各地で攻撃を開始したのだった。北ベトナムとの境界線の北緯17度線に近い古都ユエも不意打ちされて観光客が立ち往生したり、サイゴンでも米大使館が一時占拠されたりもした。 その直前の12月に岸信介元総理が外遊の途次サイゴンに立ち寄られ、ルオン・テシユウ運輸大臣兼ベトナム航空会長と会談された。その席上、ベトナム航空を東京に乗り入れさせるよう要請を受けた。これは3年来の要求だが一向に実現しないと言われた。先方は日本航空と商務協定を結べばよいと思ったようだが、航空協定は政府マターなのだ。 2月18日、第二次ベトコン攻勢が始まった。翌3月15日には突如「日航のベトナム上空通過を認めない」とわが運輸省航空局に入電があった。澤雄次航空局長は中曽根康弘運輸大臣に報告し、外務省は駐日ベ卜ナム大使を招致して通過許可を要請した。日航機はそれまでのダナンでのベトナム横断ができず、沖合を南下してマレーのコタバルで北上してバンコクに迂回せざるを得なくなった。 昭和14年にも日泰航空協定による大日本航空のバンコク便に対して当時の仏印当局が上空通過を禁止したことがあったが、翌年には日本軍の仏印進駐があって自然解決した。しかし、これは前例にはならない。今度は命により航空局国際課長の私が運輸事務官兼外務事務官として、戦火のベトナムに乗り込むことになった。砲声や銃声を耳にするのは、レイテ戦以来23年ぶりのことだったが、私は1968年3月28日にサイゴンの新山一(タンソンニュット)国際空港に降り立った。 牧さんの著書にも登場するマジェスティック・ホテルの404号室に落ち着くと、白服の年配のボーイさんがあいさつに来た。フランス語で「この部屋は寺内将軍の部屋でした」という。南方総軍の寺内寿一元帥がマニラからサイゴンに移ったのが1944年11月17日で、米軍のレイテ上陸直後のことだった。当時一兵士に過ぎなかった私が、わが最高司令官の居室に滞在するとは光栄なこと。往時を偲び、目を窓外に転じると、そこはサイゴン川の埠頭の広場で、輸送艦が物資の荷揚げ中。私の所属した陸軍船舶兵暁部隊の作業と重なって見えた。 テト攻勢下のサイゴン市では1、2、3区だけが政府治下にあるといわれていた。夜間は外出禁止令(カーフュー)が発令されており、窓外の対岸では信号弾、ロケット弾、曳光弾が飛び交うのが花火のようだ。銃声や砲声も聞こえ、着弾にともなって停電も頻繁にあった。ホテルでは室内はもとより、最上階のレストランや廊下にも蝋燭を並べており、停電になるとすぐ誰かが飛んできて、火をつけてくれる。そのサービスは良いのだが、蝋燭ではエレベーターもクーラーも動かない。暑さには閉口した。 ホテル前のグエン・フエ通りを行くと、すぐレ・ロイ大路に出る。繁華街の中心だ。休業中の中央停車場の前には運輸省もあるし、正面奥には大統領官邸、右にはエア・フランス、エア・ベトナム、キャラベル・ホテル、コンティネンタル・パレスなどがあって地の利を得ている。しかし便利だから安全とは限らない。この数か月後に、私のホテルのそばのグエン・フエ・ビルにロケット砲弾が打ち込まれて、日経支局長の酒井辰男氏が殉職されたことを私は牧さんの著書で初めて知った。遅まきながら、深く哀悼の意を表してペンの戦士のご冥福を祈る次第だ。 昼間の市内は、右を見ても左を見てもホンダのバイクで溢れていた。ホンダの発電機はべトコンも愛用しており、目下せっせとサイゴン包囲網の地下道掘りに使っていると消息通はいう。情報は北も南もツーツーで、噂として耳に入るが、誰がどちらを向いているかはわからない。どちらの側も、上層部は不思議とフランス語に親近感を示すが、華僑に対する不信と反感には根強いものがあり、一般には英語が浸透していた。 さて航空交渉の件は、紆余曲折を経たが、一定の成果を上げることができた。上空通過禁止は撤回され、エア・ベトナム機も羽田に乗り入れる可能性を得た。合意文書にはルオン運輸大臣と私が署名した。一段と弾着音の大きくなった4月22日、空港閉鎖前最後の便と言われて、私はベトナム航空のプロペラ機でバンコクに向かった。この間の経緯は日本航空の元法務部長で、関東学院大教授、坂本昭雄氏の著書『甦れ、日本の翼』(有信堂刊)の第2章「心に残る航空交渉」に詳しい。私なりに苦労した末、戦火のサイゴンから帰国した私を待っていたのは、5月1日付で国鉄に転勤異動の内命だった。(交通ペンクラブ会員・前日本交通協会会長)
【編集部注】『甦れ、日本の翼』でこの航空交渉の日本側代表だった柳井さんについて、筆者の坂本昭雄さんは「これまで一緒に働いた数多い役人の中で、柳井氏は最も教えられることの多い人だった。運輸省のエリート官僚でありながら、外国生まれの外国育ちだけあって、練達な外国語と気配りとユーモアに富んだ人物で、一方、戦争中の厳しい経験から胆力が据わっていて、国際交渉に相応しい判断力と剛胆さとを備えた人でもあった」と絶賛している。
ラベル: 98号
遺骨収集の野口さんと対談
柳井乃武夫さんとアルピニスト野口健さんの対談が、7月下旬に発売された月刊誌「問題小説」8月号(徳間書店発行)に掲載された。 野口さんは、ヒマラヤ登山の「マイナス30度の強風の吹きすさぶテントの中で」生きて帰れたら、遺骨収集にあたろうと決心する。生死の間で、祖父から聞いた太平洋戦争末期の南洋の島で戦死していった兵士の話を思い出したのだ。 昨年3月、フィリピン・セブ島に渡って、遺骨収集作業を行った。そして柳井さんの著書『万死に一生~第一期学徒出陣兵の隊手記』(徳間文庫)に出合った。ことし3月、3回目のフィリピンへ。柳井さんたちの戦闘現場、セブ島、レイテ島、ポロ島で1406体の遺骨を収集し、遺骨とともに帰国した。 つい最近まで民間団体による「遺骨収集」は許可されていなかった。「灼熱地獄のジャングルをさ迷い、必死の思いでご遺骨を発見してもどうにもすることができなかった」と野口さんは口惜しい思いをブログに書いている。これを読んだNPO法人「空援隊」(本部・京都、倉田宇山代表)が協力を申し出た。この団体は「何が何でも遺骨を祖国に還す」とセブ島に現地事務所まで作って遺骨収集をしているのだ。今では厚生労働省もこの空援隊の情報をもとに政府の収集団を派遣しているという。 対談の内容は、雑誌が発売前なので不明である。野口さんから拝借した写真を掲載したい。
ラベル: 98号
高橋浩二さんと新幹線
高橋浩二さんは中国の青島に生まれ、旧制第五高等学校を経て昭和20年9月、東京帝国大学第二工学部土木工学科を卒業した。東大第二工学部は戦時体制下の技術者逼迫を見越して、西千葉駅近くの広大な敷地に設立されたもので、学生の多くは寮生活を余儀なくされ、戦争末期の甚だしい食糧不足に悩まされていた。高橋さんは若くして牢名主のような存在で、近くの畑から芋を失敬する切込隊の指揮官であったと聞く。
ラベル: 98号