2009年11月20日金曜日


第209回=11月20日(金)
「週刊誌から見た政権交代」  


サンデー毎日編集長(毎日新聞元政治部記者)

山田道子氏

2009年11月1日日曜日

0系車両が鉄道博物館に

開業当初を懐かしむ
 

 だんご鼻の0系車両が10月21日、さいたま市の鉄道博物館で展示・公開された。1964(昭和39)年10月1日開業に合わせて作られた東海道新幹線の新大阪方の先頭車。JR西日本から譲り受けた。
長さ25・15㍍、幅3・38㍍、高さ3・975㍍。重さ57・6㌧。車内はもとより、床下機器、台車なども見られるように展示されている。 
 
 オープニングセレモニーで、東日本鉄道文化財団理事長の大塚陸毅JR東日本会長が「東海道新幹線が開業した昭和39年10月1日は世界の鉄道を変えた歴史的な日だった。0系は鉄道の高速時代を切り開いた。斜陽だった鉄道を世界中で復権させた」とあいさつ。覆っていた白布を清野智JR東日本社長、清水勇人さいたま市長、関根徹館長が引き、大塚理事長がくす玉を割って、ピカピカに磨き上げられたアイボリーホワイトの先頭車両を披露した。 午後4時15分から一般公開。鉄道マニアが列をつくり、開業当初の東京―新大阪4時間運転時代を懐かしんだ。










★次号は100号記念号 会報「交通ペン」が来年2月1日発行の次号で100号を迎えます。創刊号は1982年1月22日ですから、28年で到達したことになります。 2010年の新年会で盛大なお祝いをして、楽しい100号記念号にしたいと思います。ご支援・ご協力をお願いします。

再現 新幹線出発式

 0系新幹線先頭車の展示に伴って、1964(昭和39)年10月1日午前6時発の一番列車を前に、東京駅で行われた出発式の情景が再現された。45年前のこの出発式に列席していた交通ペンクラブ会員がいた。 
 モノクロ写真を見てください。テープカットしている石田礼助国鉄総裁の左後ろの髪黒々の若者は岩崎雄一氏(1955年国鉄入社)。31歳。石田総裁の秘書をしていた。
 「石田さんは十河さんがテープカットをすべきだと言っていました」と岩崎氏は証言するが、その十河信二前総裁も島秀雄前技師長も出発式に招待されなかった。 
 岩崎氏の左は藤井松太郎技師長で、その後に顔が見えるのが建設局長・仁杉巖氏(1938年運輸省入省)、当時49歳。「名古屋と東京の幹線工事局長で東海道新幹線を建設した。よく出来たな。間に合ってよかったという気持ちだった」と仁杉氏。 
 もう一人、写真には写っていないが、三坂健康氏(1953年国鉄入社)、当時35歳。 
 「旅客課の総括補佐で、前日から徹夜作業でした」。三坂氏は十河総裁の秘書をしており、翌日代々木のマンションを訪ねると、十河は「テレビで見たよ。(東海道新幹線が)出来ればいいんですよ」と話した。しかし、さすがに寂しそうだったという。 
 このモノクロ写真は、岩崎氏が会長をしている(社)全国鉄道広告振興協会に飾ってあったのをコピー機でスキャニングしてもらった。「一列目で存命は私ひとりではないですか」と岩崎氏は感慨深げだった。

新幹線・リニアを売り込もう

在日大使館員らを招きシンポジウム  JR東海が11月16日

アメリカをはじめブラジル、ベトナムなど世界中で高速鉄道の建設計画が持ち上がっている。1964年に開業以来、死亡事故ゼロを続ける東海道新幹線の運営会社・JR東海は、在日大使館員らを招いて高速鉄道シンポジウムを開く。新幹線N700系の性能や、開発中のマグレブ(超電導リニア)を知ってもらい、海外に売り込もうという作戦だ。 

 シンポジウムは11月16日、名古屋マリオットアソシアホテルで開く。葛西敬之会長もレクチャラーとして、国際仕様「N700―I Bullet」を紹介するなど、東海道新幹線システムの高速性、安全性と正確性、エネルギー効率性などをアピールする。終了後の深夜に米原―京都間を通常走行の速度を上回る時速330㌔で走らせ、参加者に体験乗車してもらうことにしている。 


 ちなみに東海道新幹線の営業車両による従来の最高速度は、91年に300系車両が同区間で記録した時速325・7㌔。営業車両による国内最高速度は、03年にJR東日本のE2系1000番台が上越新幹線の浦佐―新潟間下り線で記録した362㌔。 


 超電導リニアによる中央新幹線について、JR東海は南アルプスをトンネルで抜ける最短距離の南アルプスルートの場合、東京―大阪間438㌔、所要時間67分、工事費8兆4400億円で、2045年開業を想定。 


 このデータはJR東海が10月13日に発表したもので、木曽谷ルート(486㌔、所要73分)、伊那谷ルート(496㌔、所要74分)と比較して南アルプスルートの優位性を強調している。 


 リニア中央新幹線は、2025年に東京―名古屋間290㌔で開業、所要時間は40分を予定している。投資額は5兆1千億円。

「特急“燕”とその時代」展

「燕」のスピードアップ秘話  鉄道記者が焚き付けた

 1930年10月1日午前9時、東京駅を発車した特急「燕」は大阪駅に午後5時20分に到着した。所要時間8時間20分。それまでの特急「富士」が10時間52分かかっていたのを一挙に2時間半も短縮した。 
 旧新橋停車場鉄道歴史展示室で11月23日まで 「特急“燕”とその時代」展が開催されている。「燕」の発案者は、当時鉄道省運転課長の結城弘毅(1878―1956年)だったが、結城課長にスピードアップを焚きつけたのは鉄道記者の先輩・青木槐三さん(写真・1897―1977年)だ、と「誕生のエピソード」にあった。 
 青木の書著『国鉄』(64年刊、新潮社)によるとその経緯はつぎのようだ。1929(昭和4)年夏、結城が大阪から運転課長に転任してきた。「外国に比較して日本列車のスピードがノロイことを挙げて、スピードアップを提唱した」 
 これに対し結城は、現在の蒸気機関車C51を使い、東京―大阪間をノンストップで飛ばせば8時間に短縮できる、と答えた。 
 「新聞に書いてもいいか」「差し支えない」 
 東京日日新聞(現毎日新聞)の特ダネとなった。 
 SLは1㌔走るのに100㍑の水を使うといわれ、一番の問題は給水だったが、30㌧積みの水槽車を新造して連結、箱根の山を越すときは補助機関車をつけた。乗務員の交代も炭水車(テンダー)と水槽車に渡り板と手すりをつけて、走りながらだった。 
 最高時速95㌔、表定速度68・2㌔。試運転のときは、EF50形電気機関車の牽引で最高時速102㌔を出した。評定速度は、それまで最速の特急「富士」より16・6㌔もアップした。 
 同展の図録には、鉄道記者・青木の功績として、鉄道博物館に保存されている重要文化財「1号機関車」が九州の島原鉄道に払い下げられているのを知って、これを国鉄に里帰りさせるために動いたことが記されている。「彼はその後も交通ジャーナリストとして活動し、鉄道界に理解と協力を惜しまなかった人物である」と書かれているが、東海道新幹線実現のために、十河信二総裁と島秀雄技師長の「応援団」として大活躍したことも付記したい。




2010年 有楽町駅 開業100年

 有楽町駅が来年開業100年を迎える。「交通ペン」25周年記念号(2007年7月発行)に、元毎日新聞・諸岡達一会員の「有楽町界隈 新聞街のバラード」を掲載したが、改めて開業時を振り返ってみたい。

 有楽町停車場の開業は、1910(明治43)年6月25日だった。 
 「日本帝國鐵道史は今六月廿五日高架線鳥森有楽町(報知社裏)間の開通によって新に價値ある頁を加へた、新線路は短い、然し其長蛇の様な煉瓦壁上を轟ッと走る汽車の響は正に現代新文明が擧げた雄々しい勝鬨である」 
 これは「報知新聞」6月25日付1面の記事である。 
 1面の真ん中に山ノ手線々路図(上図)を載せ、東海道線新橋(現在の汐留貨物駅)―浜松町駅間から枝分かれして、烏森(現新橋駅)―有楽町まで延びたかを示している。 
 社会面には煉瓦アーチづくりの有楽町駅のイラストが載っている(左ページ)。通行人の服装を除けば、現在と全く変わっていないように思う。 
 新橋―上野間を高架鉄道で繋げて山手線を環状線として完成させること、その間に中央停車場(現東京駅)を建設することになり、ベルリンの高架鉄道にならって1900(明治33)年に着工した。日露戦争(04年開戦)のため工事は一時中断した。煉瓦を積み上げたアーチづくり。終点有楽町駅は、駅長室や事務室はアーチの下にあって面積約40坪(132平方㍍)。ホームは「梯子段を上った高い所にあって、濱松町のと同じ長さ三百尺である」。 
 実は、開業時のホームの原形が今も残っているのである。有楽町駅の1・2番線ホーム。京浜東北線の北行と、山手線の内回りホームだが、その5号車から9号車にあたる5両分、長さはちょうど100㍍。ここに12本の鉄桁がホームをまたいで渡してあるが、これが使い古しのレールなのである。現在のレールと比べるとかなり細い。明治5年の鉄道開業時に使われていたものではないか、と専門家は言っている。 
 有楽町駅も空襲で被害を受けた。1945(昭和20)年1月27日、疎開をするための乗車券を求める列に爆弾が落ち、客87人と駅員9人が死亡した。駅舎も燃えたはずである。しかし、ホームの鉄骨は残ったのだ。 
 報知新聞の社屋は、現在「ビックカメラ有楽町店」(読売会館)になっている。その通りを隔てて西側に、銀座から引っ越してきたのが「東京日日新聞」(現在の「毎日新聞」)。有楽町駅開業の前年、1909(明治42)年だった。1927(昭和2)年に朝日新聞が現在の「マリオン」のところにやってきて、「有楽町新聞街」が形成されたのである。 
 当時、報知新聞は首都3大紙の一つに数えられていた。あとの2紙は福沢諭吉の「時事新報」と徳富蘇峰の「国民新聞」である 。「読売新聞」に吸収された報知の題字は「スポーツ報知」 として残るが、残り2紙の題字は消えている。栄枯盛衰である。 
 さて、開業のにぎわいをもう少し追いたい。報知新聞の記事には〈千燭光の大アーク灯と数千の紅い提灯に火が入り「晝を欺く電飾」、「明煌々の本社裏」〉とある。    
 一番列車の模様は「東京日日新聞」が詳しい。「午前五時四十分有楽町発九十人乗りボーギー車を以て第一とし同車は運転手土棚倉蔵、車掌久保野久四郎にて十八哩八分なる線路を走りて上野停車場に向かひ以下十五分毎に発車して予定の如く終日七十三回運転したるが、是より先午前四時頃より第一号の乗車券を獲(え)んとして停車場前に詰懸けたる物好きも見受けたり」 
 いつの時代にも鉄ちゃんはいたのだ。上野まで18?余りは約30㌔の計算だが、大崎から渋谷・新宿・池袋・田端・上野だから間違いない。「烏森まで三銭、品川まで九銭で乗り試ししたり、二銭で入場券を買ってホームにあがるものあり」「八時から九時までの一時間に乗客三千二百人、降客三千人で、一車の定員九十人に百四十~五十人も押し込み、泣くやら怒鳴るやら、車中押潰さる程の満員なり」ともある。 
 もう一度「報知新聞」に戻る。中央停車場は3年内に完成とある。3階建て総坪数2900余。中央は皇室専用、南口は乗客、北口は降客専用で「本年秋ごろには現場の中空には鉄柱の聳ゆるを望み得る」としている。高架鉄道は工事費が高い。「銅貨を積んだ一大長壁」とも解説している。これまでに使った資材は3500万個以上、松材3万本、石材10万切で、工事費はすでに5百万円以上かかっている。用地費を合わせ高架線1尺をつくる費用が400円から420円、1寸が60円と計算している。 
 この批判に対し、野村龍太郎鉄道院技監・副総裁代理の談話が載っている。「交通機関の発達につれて高架鉄道の要求されるのは自然の勢いである」「(高架線が)上野迄達すると幹線の連絡が出来、交通上非常に便利となる。其時、中央停車場は市街の中心点となって高架線は実際の活用をなし、交通機関は一段の完成を告げる次第である」 
 中央停車場の開業が1914(大正3)年。その先、神田―秋葉原―御徒町が完成して山手線がぐるり1周の環状運転を始めたのは1925(大正14)年11月だった。「それまでは東京駅から上野駅へ行く交通手段は市電の乗り継ぎしかなかった」と諸岡原稿にある。          (編集部)

十河信二さんの思い出 故高橋久雄氏の寄稿から

 9月23日に亡くなった高橋久雄氏(元東京新聞社会部長)は、交通ペンクラブ創設からの会員で、東海道新幹線をつくった十河信二国鉄総裁の最後の記者会見に出ている。その模様を「交通ペン」創刊号(82年1月22日)と『十河信二(別冊)』(88年6月刊、十河信二傳刊行会)に書き残している。東海道新幹線0系車両が鉄道博物館で公開されたこともあり、一部を再録した。

 「老兵の消えてあとなき夏野かな」 
 これはさる(昭和)三十八年五月十七日午後、総裁最後の記者会見で国鉄を去る心境を問われた十河さんが披露した一句である。ちょっと寂びし過ぎるかな、ともう一句「二万㌔、鉄路伝いに春の雷」と詠んでみせたが、これはかなり以前の作ではないか。俗の俗の私には、俳句の出来栄えなぞ到底分からぬが、「老兵の消えて……」にはズキン、と胸を刺された。 
 十河さんはこの一カ月ほど前からカゼをこじらせて休んでいた。アレルギーと下痢に悩まされたというが、お別れ会見に顔を見せた十河さんにはさすがにやつれが目立った。私はこの時ほど十河さんに老いを感じたことはない。 
 十河さんは療養中、職務を果たせず申し訳ないと当時の綾部健太郎運輸相に電話で詫びている。これがスッパ抜かれると、世間では任期切れを前にした辞意表明と受け取られ、退陣のうわさだけが一人歩きを始めた。そして休養中から早々と後任総裁の下馬評へと発展してゆく。 
 二期八年の総裁の座を下りて国鉄本社玄関を離れたのは、会見から二日後の十九日夕刻近かったが、新聞が長い間「夢の超特急」と呼んだ東海道新幹線の開業は五カ月後に迫っていた。せめてテープカットまで再任を、との一部の声は膨らむこともなく、大海にのまれてしまった。総裁在任中、〝国鉄は私の恋人〟といってはばからなかった十河さんにとって「老兵の消えて……」は無念の一句だろう。 
 あのチョビひげにチョボぐち、拡大鏡のように強いメガネの奥の閉じかかった眼、ぼう洋とした十河さんの面影をたどると、いつもこのお別れ会見のシーンが鮮明によみがえってきて、心が重くなる。 
 心の重い思い出はもうひとつある。それから三カ月たった八月二十四日朝、国鉄は新幹線の開業に備えて東京―新大阪間に営業ダイヤによる初の試運転列車を走らせた。招かれた十河さんは車中で記者団から感想を求められると、「遠足に出かける小学生みたいだねェ」とポツリ口を開いて笑いかけた。しかし笑いにはならなかった。 
 やがて列車がスピードをあげると、記者の輪ができたのは後任総裁の石田礼助さんだけで、十河さんはただ一人、ぼんやり窓外をみつめていた。いったい、どんな感慨なのだろう。飛んでゆく田園風景と、開業を待たず追われるように引退した十河さんの胸の内がオーバーラップして、いいようのない寂しさに打たれた。(中略) 
 東京駅新幹線ホームに十河さんのレリーフが飾られたいきさつを私はよく知らない。しかし開業以来無事故の新幹線発着を見守るレリーフの表情は、開業を一日千秋の思いで待っていた総裁時代と少しも変わらぬではないか。レリーフに見入ると、いつもそんな感慨にひたっている。                           (『十河信二(別冊)』)      
◇ 高橋さんは十河さんの「千駄ヶ谷のマンションはいつもフリーパスだった」と夜討ち取材の思い出や、国鉄の広報体制を確立したのは十河さんだったことも書いている。「交通ペン」には「私の手もとには為書きしてもらった十河さんの書が二つある」とも記している。レリーフは国鉄百年を記念して、1972年10月14日建立された。

あと2年半

 2011年度末の完成を目指して創建時に戻す再建工事が進められている東京駅。丸の内側の板囲いは1914(大正3)年に中央停車場ができるまでをパネルで詳細に解説しているが、最近、オランダのアムステルダム中央駅の写真が掲示された=写真下。隣に現在の東京駅の写真を並べているが、雰囲気がそっくりだ。これでは「アムス駅を模した」といわれても致し方ないところ。両駅は2006年4月に姉妹提携、友好を深めているのだ。

親子会員

 交通ペンクラブで初の親子会員が誕生した。齋籐雅男(1946年運輸省入省、90歳)・雅之(68年国鉄入社、63歳)父子=写真。ジェーアールバス関東(株)会長となった雅之氏が個人会員として入会して誕生した。ともに運転屋さんで、父親は東海道新幹線直後の65年に新幹線支社運転車両部長となり、初期故障の続発に連日のように「ときわクラブ」でレクチャーするとともに、「常習的に起きている故障を一覧表にして番号をつけ、わかりやすい説明も付け加えた」マニュアルをつくって配布したという(同氏の『驀進』から)。 

 その息子雅之氏は広報部報道担当の補佐として「ときわクラブ」の記者に対応。02年JR東日本常務から東京モノレール社長となり、今年ジェーアールバス関東に移った。

鉄ちゃん

 10月14日は「鉄道の日」。新橋―横浜間に初めて鉄道が開業した明治5年9月12日(陰暦)にちなむが、前原誠司国土交通大臣は都内で開かれた記念祝賀会で「日本には300万人の鉄道ファンがいるといわれるが、私自身もそのひとり」と鉄ちゃんであることを表明。さらに「国会議員で最も鉄道好きなのは自分だと思っている。それなのに『高速道路無料化とは何事か』とお叱りを受けそうだが、もちろん実行に当たっては鉄道業界への影響も十分に精査して慎重に判断する」とあいさつした(交通新聞)。 
 一方、旧国鉄のOBたちは「第137回鉄道記念日の集い」を日本交通協会大会議室で開いた。

訃報

高橋久雄氏(元中日新聞)は9月23日逝去。85歳だった

ゴルフ会

 第11回交通ペンクラブ懇親ゴルフ会は10月22日、若洲ゴルフリンクスで6人が参加して行われ、元日経の牧久氏がネット75(グロス101、ハンデ26)で初優勝した。準優勝は柏靖博(元産経)3位は大澤栄作(元毎日)各氏だった。

例会

◇第209回=11月20日(金)「週刊誌から見た政権交代」
  サンデー毎日編集長(毎日新聞元政治部記者)山田道子氏 

◇第210回=2010年2月19日(金)三菱1号館美術館館長・高橋明也氏 

◇第211回=3月19日(金)千葉商科大学政策情報学部教授・宮崎緑氏

ペンサロン

◇毎月第4木曜日の午後5~7時、日本交通協会ラウンジで開いている交通ペンサロンは次回11月26日(木)。12月はクリスマスイブの24日(木)に忘年ペンサロン。会費1千円。

2009年10月1日木曜日

第208回例会 ヤンキース復活の秘密―最新大リーグ事情


元北海道日本ハムファイターズ球団社長

小嶋武士氏

2009年8月1日土曜日

交通協会に「ふるさとの駅」寄贈



 曽我代表幹事、思い出の詩

 

2009年度交通ペンクラブの総会が七夕の7月7日午後5時から日本交通協会大会議室で開かれた。席上、曽我健代表幹事が長年、お世話になったお礼として、日本交通協会の三坂健康会長に詩人、鈴木比呂志さんの「ふるさとの駅」の扁額を贈った。
  

   ふるさとの駅 
   ふるさとの駅には 
   やさしい 母の匂いがする 
   旅から 帰ってくると 
   その ふところに 抱かれたくなる
 

 この詩の作者で、書家でもある鈴木比呂志さんが、NHKニュースキャスター時代の曽我健さんに贈った作品。群馬県富岡市の上信電鉄上州一ノ宮駅が最寄り駅の鈴木さんは1959(昭和34)年から、待合室に駅長がつくった「詩の壁」という展示空間に、模造紙に毛筆で詩を書いて貼り出し、乗客の心を慰めた。 
 朝日新聞の「天声人語」や曽我さんの番組でも紹介された。その詩碑が上州一ノ宮駅のホームに建っている。 鈴木さんは1921(大正10)年生まれ。NHKラジオ歌謡のレギュラー詩人として活躍。作曲家の山田耕筰氏らとともに「松井田高校」をはじめ500を超える校歌や抒情詩を数多く作詞した。古典にも造詣が深く、源氏物語の現代詩訳『源氏その愛と憂愁』『光源氏と王朝の女人たち』(いずれも講談社刊)を出版している。 
 交通ペンクラブの「ふるさとの駅」は、かつては旧国鉄本社のときわクラブ、今は日本交通協会。額は「交通ペンサロン」が開かれるラウンジの壁に飾られることになっている。

七夕総会にぎやかに

 七夕総会の参加者は47人。最長老は元読売新聞の魚住明氏で7月30日に91歳の誕生日を迎えた。昨年度に著作を出された会員が4人。「やっとペンクラブらしくなりましたね」とある会員からいわれた。ロバートソン黎子夫妻がワシントンに戻られる歓送会も兼ね、JTBの女性広報室長も初参加して、にぎやかな一足早い暑気払いとなった。 


4人の会員作家が誕生 


 曽我健代表幹事がまず収支報告。次いで4人の作家が誕生したことを報告した。元NHKの古屋成正(ペンネーム・松原誠)氏が『碧眼の叛逆児天草四郎』(日本放送出版協会刊)、元日本交通協会会長の柳井乃武夫氏が『巴里の街角から』(交通新聞サービス刊)、元産経新聞の鈴木隆敏氏が『新聞人福澤諭吉に学ぶ――現代に生きる「時事新報」』(産経出版刊)、元日本経済新聞の牧久氏が『サイゴンの火焔樹』(ウェッジ刊)をそれぞれ出版した。 


 次いで2011年に東京駅が創建時の姿に復元開業するのに合わせ「交通ペンクラブ解散」を改めて宣言。来年の総会でフェードアウトの具体策を提案する。 

 来賓のあいさつはJR東日本副会長で、UIC(国際鉄道連合)会長の石田義雄氏。「せっかくの交通ペンクラブをあわてて解散しなくてもよいのでは」と話した後、世界が新幹線時代に入ったことに触れ「UICの会長に昨年なりました。日本の新幹線を世界に売り込めといわれますが、そう簡単なことではない。フランス国鉄の幹部が視察に来て、一番欲しいものはといったら『JR東日本の社員を輸出してくれないか』といわれた。よりレベルの高い鉄道事業の運営を目指します。引き続きよろしくお願いします」とあいさつをした。 

 続いて元JR西日本会長の井手正敬氏がやはり「解散は時期尚早」と、交通ペンクラブの存続を訴えて乾杯の音頭を取った。 

 しばらく歓談のあと、4人の作家が壇上に。作家の松原誠氏は「宝塚の舞台にもふさわしいと思って宝塚に3冊送りました。NHKFMでも放送しました」。柳井氏は「国鉄広報部長の経験者で一番の年長になります。思い出話が尽きません」、鈴木氏は「慶應義塾150周年の展覧会が8月から横浜で開かれます。招待券を差し上げますので、会場で本をお買い上げいただければ幸いです」、牧氏は「日経を辞めて、恥ずかしながらジャーナリストという肩書の名刺をつくりました。どうしてもあの続編を取材しなくてはと思っています」と、それぞれが著作への思い入れを語った。






ワシントンで新幹線の売り込みを 

 引き続きロバートソン黎子、トーマス・ロバートソン夫妻が壇上に。「ワシントンに帰るといっても、航空券は片道だと40何万円もするので、往復のチケットを買って行き来することになります。また例会に出席するかも知れません。きょう七夕は結婚記念日。お誘いをありがたくお受けしました。オバマ大統領が新幹線の建設をいっています。ワシントンのプレスクラブに入って、日本の新幹線の売り込みが出来たらと思います」と黎子さん。ロバートソンさんは「台湾の新幹線を乗りに行ったツアーが大変印象深かった。ワシントン―ニューヨーク間に新幹線ができたらいいですね」と語った。 

 そこに飛び込んできたのが、JTB初の女性広報室長、波潟郁代さん。「すいません、会議が長引いたものですから」。昭和63年入社というから国鉄が分割民営化した後の入社だ。早速先輩たちが取り囲み記念撮影。岩本龍人(元取締役東北本部長)、岩崎雄一(元代表取締役専務・元副会長)、柳井乃武夫(元広報担当常務)の各氏。代表幹事の曽我健氏は大学(新潟大学)の先輩にあたる。さらに男社会の「交通ペンクラブ」で女性の会員が3人も集まったのは史上初? と吉沢眞先輩を真ん中に写真を撮ろうとしたら、脇にいた男性陣も加わったのが上の写真だ。若い女性がひとり参加すると、この騒ぎだ。歓談は午後7時半過ぎまで続いた。

30年前の戦いの意味を問う

 元日経新聞の牧久さんの『サイゴンの火焔樹 もうひとつのベトナム戦争』(ウェッジ刊)の出版記念パーティーが6月22日、東京・内幸町の日本記者クラブで開かれた。交通ペンクラブの面々を含め350人にものぼる出席者で、発起人が壇上に勢ぞろいした開会時は、入口から人があふれるほどだった。 交通ペンクラブの曽我健代表幹事が2番目にあいさつして、牧さんがときわクラブにいた駆け出し記者時代の思い出を語り、続いて「諸君!」編集長の斎藤禎日本経済新聞出版社会長が「ベトナム戦争終結10年の企画でサイゴン陥落後の各紙の記事を縮刷版で読み比べましたが、牧特派員電が一番よく実態を報告していた」と、「諸君!」85年6月号の「サイゴン1975.4.30 (サイゴン陥落10年)」を牧さんに執筆依頼した経緯を話した。 会場には、日経の鶴田卓彦元会長、杉田亮毅会長らも詰めかけ、さながら日経のOB会。中川秀直・自民党元幹事長は「社会部のとき、牧さんに厳しく鍛えられました」とあいさつした。 
最後の最後にお礼を述べた牧さん。「きょうで日経新聞をやめました。45年の日経生活でした」と、爆弾発言。東京五輪の64年に入社して副社長からテレビ大阪会長となり、07年から日経の顧問になっていた。「30年ぶりにベトナムを再訪して、当時の助手らと再会。スパイ容疑がかけられたり、国外に脱出したりで、あの革命は何だったのだろう、というのがこの本を書くきっかけでした」。 
 当時毎日新聞のサイゴン特派員だった古森義久氏(産経新聞ワシントン駐在編集特別委員)は産経新聞の書評(6月28日)で「闘争の主役だったはずの南ベトナムの革命勢力が勝利後に圧殺された事実や、旧政権側に生きた市民たちが新社会では排され、削(そ)がれていった事実をも具体的な事例を重ねて告げていく。その結果、ベトナム戦争全体の実像が立体的に姿を現す」とつづった。 日経社会部の後輩で月刊「ファクタ」の阿部重夫編集長は「頑としてサイゴンに居残り続け」「身の危険を顧みない記事にはタブーのはずの臨時政府批判もあって生々しかった」と、牧特派員の記事を評価、この本については「フトマキさん(社会部時代の愛称)、あなたは『ベトナムの敗者』の証人だったのですね」とブログに書いている。

”日本一”だった新聞を紹介


 鈴木隆敏さんの『新聞人福澤諭吉に学ぶ─現代に生きる「時事新報」』(産経新聞出版)の出版記念パーティーが6月17日東京・銀座の交詢社で開かれた。 昨年11月から12月にかけ産経新聞に24回にわたった連載をまとめたものだが、連載のきっかけとなったのは、鈴木さんが日本新聞協会機関誌『新聞研究』2008年4月号に「時事新報は生きている─現代の新聞に与える示唆」を書いたことによる。福澤諭吉が1882(明治15)年に創刊した「時事新報」の題字は消えているが、会社はまだ生きていて、産経新聞社会長の清原武彦氏が代表取締役、鈴木さんは監査役で、年に1度株主総会も開かれていると意外な事実を発表した。 


 それが連載につながったもので、パーティーには福澤諭吉の曾孫にあたる三菱地所相談役の福澤武さんや、安西祐一郎・前慶応義塾塾長、交詢社理事長の鳥居泰彦・元塾長らが出席。交通ペンクラブからは山岡通太郎、日本交通協会理事長の前田喜代治両氏が顔を見せ、JR東日本の薬師晃広報部次長が大塚会長、清野社長からの花束を贈呈した。意外なところでは旧国鉄63年入社の入山映・元笹川平和財団理事長の姿も。 


 鈴木さんと慶大同期の清原会長は「せっかくだから本紙に連載したらと持ちかけた」とあいさつ。鈴木さんの妻宏子さんは「一日中パソコンの前に座っていたこともある」と原稿を書くのに悪戦苦闘していたことを暴露。鈴木さんも「連載を始めてすぐ体調を崩して3日間入院しました」と明かした。連載がストレスになっている、と主治医に指摘されたという。 


 鈴木さんによると、「時事新報」は発行部数とともに、その内容と言論性の高さによって日本一の新聞だった。創業5年目の1886(明治19)年、第1面に広告を満載し、「日本一の時事新報に広告するものは日本一の商売上手である」という広告のコピーまでつくった。 


 事業面も活発で、初めて美人コンテストを行い、現在毎日新聞に継承されている大相撲の優勝掲額やクラシック音楽の登竜門・日本音楽コンクールなども時事新報が始めたものだ。

戦火のサイゴンで航空交渉 ~柳井 乃武夫~

 牧久さんが『サイゴンの火焔樹―もうひとつのべトナム戦争』(ウェッジ社刊)を出版された。さすがに社会部出身のプロだけあり、外報部、政治部をも通して紙面をにぎわせた筆致は見事だ。30年前の南ベトナム崩壊事情を正確に裏表から記述している。サイゴン陥落の最後の日にも現地にとどまって、命がけで取材に送稿に奮闘した記者魂は読者の胸を打つ。これは史実そのもので、後世に残すべき好著といえる。 興奮して読み終わった私は、現地で航空交渉を行っていた当時のことを回想した。それはテト攻勢のさなかのことだった。昭和43年(1968)1月30日のテト(旧正月)を期してベトコン(越共)武装勢力がグエン・バンチュー(阮文紹)大統領統治下の南ベトナム各地で攻撃を開始したのだった。北ベトナムとの境界線の北緯17度線に近い古都ユエも不意打ちされて観光客が立ち往生したり、サイゴンでも米大使館が一時占拠されたりもした。 その直前の12月に岸信介元総理が外遊の途次サイゴンに立ち寄られ、ルオン・テシユウ運輸大臣兼ベトナム航空会長と会談された。その席上、ベトナム航空を東京に乗り入れさせるよう要請を受けた。これは3年来の要求だが一向に実現しないと言われた。先方は日本航空と商務協定を結べばよいと思ったようだが、航空協定は政府マターなのだ。 2月18日、第二次ベトコン攻勢が始まった。翌3月15日には突如「日航のベトナム上空通過を認めない」とわが運輸省航空局に入電があった。澤雄次航空局長は中曽根康弘運輸大臣に報告し、外務省は駐日ベ卜ナム大使を招致して通過許可を要請した。日航機はそれまでのダナンでのベトナム横断ができず、沖合を南下してマレーのコタバルで北上してバンコクに迂回せざるを得なくなった。 昭和14年にも日泰航空協定による大日本航空のバンコク便に対して当時の仏印当局が上空通過を禁止したことがあったが、翌年には日本軍の仏印進駐があって自然解決した。しかし、これは前例にはならない。今度は命により航空局国際課長の私が運輸事務官兼外務事務官として、戦火のベトナムに乗り込むことになった。砲声や銃声を耳にするのは、レイテ戦以来23年ぶりのことだったが、私は1968年3月28日にサイゴンの新山一(タンソンニュット)国際空港に降り立った。 牧さんの著書にも登場するマジェスティック・ホテルの404号室に落ち着くと、白服の年配のボーイさんがあいさつに来た。フランス語で「この部屋は寺内将軍の部屋でした」という。南方総軍の寺内寿一元帥がマニラからサイゴンに移ったのが1944年11月17日で、米軍のレイテ上陸直後のことだった。当時一兵士に過ぎなかった私が、わが最高司令官の居室に滞在するとは光栄なこと。往時を偲び、目を窓外に転じると、そこはサイゴン川の埠頭の広場で、輸送艦が物資の荷揚げ中。私の所属した陸軍船舶兵暁部隊の作業と重なって見えた。 テト攻勢下のサイゴン市では1、2、3区だけが政府治下にあるといわれていた。夜間は外出禁止令(カーフュー)が発令されており、窓外の対岸では信号弾、ロケット弾、曳光弾が飛び交うのが花火のようだ。銃声や砲声も聞こえ、着弾にともなって停電も頻繁にあった。ホテルでは室内はもとより、最上階のレストランや廊下にも蝋燭を並べており、停電になるとすぐ誰かが飛んできて、火をつけてくれる。そのサービスは良いのだが、蝋燭ではエレベーターもクーラーも動かない。暑さには閉口した。 ホテル前のグエン・フエ通りを行くと、すぐレ・ロイ大路に出る。繁華街の中心だ。休業中の中央停車場の前には運輸省もあるし、正面奥には大統領官邸、右にはエア・フランス、エア・ベトナム、キャラベル・ホテル、コンティネンタル・パレスなどがあって地の利を得ている。しかし便利だから安全とは限らない。この数か月後に、私のホテルのそばのグエン・フエ・ビルにロケット砲弾が打ち込まれて、日経支局長の酒井辰男氏が殉職されたことを私は牧さんの著書で初めて知った。遅まきながら、深く哀悼の意を表してペンの戦士のご冥福を祈る次第だ。 昼間の市内は、右を見ても左を見てもホンダのバイクで溢れていた。ホンダの発電機はべトコンも愛用しており、目下せっせとサイゴン包囲網の地下道掘りに使っていると消息通はいう。情報は北も南もツーツーで、噂として耳に入るが、誰がどちらを向いているかはわからない。どちらの側も、上層部は不思議とフランス語に親近感を示すが、華僑に対する不信と反感には根強いものがあり、一般には英語が浸透していた。 さて航空交渉の件は、紆余曲折を経たが、一定の成果を上げることができた。上空通過禁止は撤回され、エア・ベトナム機も羽田に乗り入れる可能性を得た。合意文書にはルオン運輸大臣と私が署名した。一段と弾着音の大きくなった4月22日、空港閉鎖前最後の便と言われて、私はベトナム航空のプロペラ機でバンコクに向かった。この間の経緯は日本航空の元法務部長で、関東学院大教授、坂本昭雄氏の著書『甦れ、日本の翼』(有信堂刊)の第2章「心に残る航空交渉」に詳しい。私なりに苦労した末、戦火のサイゴンから帰国した私を待っていたのは、5月1日付で国鉄に転勤異動の内命だった。(交通ペンクラブ会員・前日本交通協会会長) 

【編集部注】『甦れ、日本の翼』でこの航空交渉の日本側代表だった柳井さんについて、筆者の坂本昭雄さんは「これまで一緒に働いた数多い役人の中で、柳井氏は最も教えられることの多い人だった。運輸省のエリート官僚でありながら、外国生まれの外国育ちだけあって、練達な外国語と気配りとユーモアに富んだ人物で、一方、戦争中の厳しい経験から胆力が据わっていて、国際交渉に相応しい判断力と剛胆さとを備えた人でもあった」と絶賛している。

遺骨収集の野口さんと対談

 柳井乃武夫さんとアルピニスト野口健さんの対談が、7月下旬に発売された月刊誌「問題小説」8月号(徳間書店発行)に掲載された。 野口さんは、ヒマラヤ登山の「マイナス30度の強風の吹きすさぶテントの中で」生きて帰れたら、遺骨収集にあたろうと決心する。生死の間で、祖父から聞いた太平洋戦争末期の南洋の島で戦死していった兵士の話を思い出したのだ。 昨年3月、フィリピン・セブ島に渡って、遺骨収集作業を行った。そして柳井さんの著書『万死に一生~第一期学徒出陣兵の隊手記』(徳間文庫)に出合った。ことし3月、3回目のフィリピンへ。柳井さんたちの戦闘現場、セブ島、レイテ島、ポロ島で1406体の遺骨を収集し、遺骨とともに帰国した。 つい最近まで民間団体による「遺骨収集」は許可されていなかった。「灼熱地獄のジャングルをさ迷い、必死の思いでご遺骨を発見してもどうにもすることができなかった」と野口さんは口惜しい思いをブログに書いている。これを読んだNPO法人「空援隊」(本部・京都、倉田宇山代表)が協力を申し出た。この団体は「何が何でも遺骨を祖国に還す」とセブ島に現地事務所まで作って遺骨収集をしているのだ。今では厚生労働省もこの空援隊の情報をもとに政府の収集団を派遣しているという。 対談の内容は、雑誌が発売前なので不明である。野口さんから拝借した写真を掲載したい。

高橋浩二さんと新幹線

 高橋浩二さんは中国の青島に生まれ、旧制第五高等学校を経て昭和20年9月、東京帝国大学第二工学部土木工学科を卒業した。東大第二工学部は戦時体制下の技術者逼迫を見越して、西千葉駅近くの広大な敷地に設立されたもので、学生の多くは寮生活を余儀なくされ、戦争末期の甚だしい食糧不足に悩まされていた。高橋さんは若くして牢名主のような存在で、近くの畑から芋を失敬する切込隊の指揮官であったと聞く。 

 20年11月、運輸省に入省し、国鉄本社土木課補佐を経て34年8月、課員100人を超える東鉄施設部工事課長になったが、在任わずか8カ月の35年3月、東海道新幹線工事のために設置された新幹線局工事課補佐を命ぜられ、建設基準の作成や路線選定など、新幹線の原点から携わることとなった。 

 37年8月に東京幹線工事局主任技師に転じ、オリンピックまでの開業にとって最後の難関であった東京・神奈川地区の工事完遂の陣頭に立ち、膠着状態にあったある地区の用地買収に絡んで、多数のヤーさん風の人たちに取り囲まれ怒号を浴びせられても少しも臆することなく、沈着かつ丁重に説得を続けるなど、39年10月の新幹線開業に貢献した。 

 47年7月、高橋さんは門司鉄道管理局長を経て建設局長に任命され、さらに50年7月、常務理事へと進んだ。このころ山陽新幹線岡山―博多間は50年3月の開業を目指して工事の最盛期にあり、東北・上越新幹線は46年10月工事実施計画の大臣認可を得て工事に着手したところだった。 

 埼玉県南部から東京都心にかけての東北・上越新幹線工事は計画発表当初から、各所で極めて激しい反対運動に遭遇した。首都圏の外延化に伴って宅地化が進んでいる地域を新幹線が高架で通過する計画に対して、騒音・振動などの被害を受けるだけで何にもメリットがないとの理由からで、上尾地区、埼玉県南地区、赤羽地区、上野地区、神田地区など枚挙にいとまがなかった。そのどこでも表舞台で、あるいは舞台裏で高橋さんの姿が見えなかったことはない。 

 ほんの一例を挙げれば、埼玉県南部の与野、戸田、浦和の3市は市長も先頭に立って反対を表明し一歩も引かない構えを見せていた。高橋常務理事は国鉄部内にさえ根強かった反対の声を押し切り、自ら埼玉県庁に畑知事を訪ね、反対派の住民に取り囲まれて缶詰状態になりながらも、地下化が不可能である理由を説明し、環境規準を遵守すること、大宮―赤羽間に通勤線(現在では埼京線と呼ばれ県民の重要な足となっている)を併設する事などを約束し、解決の端緒を開いた。 

 高橋さんたちの献身的な努力の結果、予定より大幅に遅れたものの東北新幹線は57年6月、上越新幹線は同11月、大宮までの暫定開業を迎え、60年3月の上野開業によって都心乗り入れを果たす事が出来た。しかし、商店街と軒を接する神田地区を通過し東京駅に乗り入れるには、国鉄改革後の平成3年6月まで待たねばならなかった。 

 東北・上越新幹線の開業時期について真っ赤な嘘をつき通したということで「ときわクラブ」から赤いハンカチを贈られたのも、極めて厳しい情勢から見通しを立て難いこと、地元に無用な摩擦を与えるのを避けたいという配慮が働いたためではなかろうか。  

 高橋さんは国内の新幹線に始めから深くかかわっただけでなく、常務・技師長を通じて新幹線の海外進出にも非常に熱心だった。北東回廊、カリフォルニア、オハイオ、フロリダなど、アメリカ各地の高速鉄道計画に日本財団の協力も得て多くの人材を派遣しただけでなく、自らもアメリカ議会の証人台に立ち新幹線の優位性を滔々と論じた。オバマ政権下で高速鉄道計画がにわかに具体性を帯びているが、高橋さんも草葉の陰でその成功を祈っているに違いない。(交通ペンクラブ会員、元国鉄技師長、元鉄建公団総裁)

国内最速の新幹線


東北新幹線は来年12月に東京―新青森間が開業するが、国内最速の時速320㌔で走る新型車両(E5系=写真)が宮城県利府町のJR東日本新幹線総合車両センターで公開された。ときわ(常盤)グリーンが特徴で、営業運転は2011年3月から。最高速度は当初300㌔、13年3月までにはフランスのTGVと同じ時速320㌔運転となる。