2011年8月1日月曜日

好評!「交通ペン」30周年記念号

  「交通ペン」30周年記念号が好評だ。メディアで温かく紹介され、全国の鉄道ファンから注文が舞い込んでいる!
 3年後に開業半世紀を迎える東海道新幹線。その偉業を若い世代に知ってもらおうという企画である。あえて執筆者の年齢を入れたが、96歳の仁杉巖元国鉄総裁をはじめ、90歳台4人、80歳台8人、70歳台17人、60歳台2人。平均78・4歳だ。
 毎日新聞のホームページ「鉄Mai」にアップされ、インターネット上で一人歩きを始めた。東京スポーツの「新刊・珍刊」欄、交通新聞でもかなり詳しく内容を紹介してくれた。実費1000円プラス郵送料290円が頒価。
 読後の感想も寄せられている。
 ●「交通ペン」、知らないことばかりで大変面白く、あっという間に読ませて頂きました。新幹線がいか 
  に多くの人の努力でできたものかということと、今時見られないリーダーシッ  
  プに驚嘆。
 ●力作です。貴重な証言の数々。
 ●東海道新幹線を世界遺産に。大賛成です。
 ●付録の鉄道路線図が懐かしい。どれだけ廃線になったのか。
 ●市販の鉄道本にはない裏話も書かれていて鉄マニアにとっては必読?の本
  でしょう。
  
                    ◇
 編集後記にある通り国立国会図書館、日本交通協会、ハワイ大学マノア校図書館(ホノルル)の蔵書にもなりました。

東京駅復原オープンに合わせ「減速宣言」

30周年記念パーティー
創立会員 12人に記念品を贈呈

 交通ペンクラブが創設され30周年。その記念のパーティーが7月4日午後5時から日本交通協会大会議室で開かれた。参加69人。その前段に行われた総会で、曽我健代表幹事が「25周年の総会でペンクラブは30周年で幕引きと宣言しましたが、幹事会全員一致でこれからも継続します。ただし、そろそろブレーキをかけて減速運転に入ります。会費はことし限りで、皆さんを永久会員とします」などと提案をして、拍手で了承された。
 曽我代表幹事の提案は①例会は7月22日の第220回を最後とする②会報「交通ペン」は年4回発行していたが、今後は必要なときだけ発行する③会費の徴収は個人も法人の賛助会員も今年度限りとする④新年互礼会、暑気払い総会、さまざまな企画旅行会はこれまで通り⑤2012年赤煉瓦東京駅に伴い、ステーションホテルでパーティーを開き、併せてJR発足25周年もお祝いしましょう。
 東京駅の復原にこだわるのは、東京駅が大正3(1914)年に完成して、駅長室が記者たちのたまり場になったのが、社会部の鉄道記者クラブのルーツといわれるからである。
 記念パーティーでは、30年前の創立総会に出席した会員12人に記念品を贈呈した。会報創刊号に名前が載っている古屋成正、中林幸夫、 曽我健(NHK)、 河合茂美(交通新聞)、古林肇道(毎日)、赤澤弘(共同通信)、 久谷與四郎(読売)、鈴木隆敏(産経)、仁杉巖、石田孝男、山本佳志、山岡通太郎(国鉄)の各氏。松浦和英監事から手渡された記念品はクオカードに「交通ペン」30周年記念号の表紙をカラープリントした特注品だ。もっともクオカードの金額は3000円。
 JR東日本の清野智社長は3・11東日本大震災の際、JR貨物をはじめJR各社から支援を受けたことを感謝した。 次いで壇上でお祝いを述べたのは、国鉄改革3人組といわれた井手正敬、松田昌士の両氏。ことし9回目のウサギ年を迎えた96歳の仁杉巖元国鉄総裁が乾杯の音頭をとった。
 あとは、いつもの交通ペンクラブの集まり同様、飲んで飲んで歓談。中締めは牧久さん(日経)。ポーズを決めて、関東一本締め!
 お開き口で配られたお土産は、須田寛JR東海相談役からプレゼントされた同氏の著書『昭和の鉄道』(交通新聞社新書)と「交通ペン」30周年記念誌。紙袋では持ち帰りにくいという配慮でエコバッグを用意した。
          

例会、220回で幕閉じる

最終講師は最多登場の岸井成格氏

 7月22日で例会が終了した。最後となった第220回の講師は、最多16回目の毎日新聞主筆、岸井成格氏。会場の日本交通協会大会議室は満杯の201人。「菅直人首相はいつまで頑張るのか」。 タイムリーな政局談義だった。
 例会は、設立総会の翌月から始まった。第1回は1981(昭和56)年7月31日の金曜日。講師は当時の運輸省大臣官房総務審議官、石月昭二氏(元国鉄清算事業団理事長・日本気象協会会長)で、演題は「総合交通政策の答申について」だった。会場は、新国際ビル9階の日本交通協会大会議室。この年に日本交通協会理事長に就任した天坂昌司氏(元国鉄副総裁)が会場を無償提供、?運輸調査会が講師謝礼の一部を援助してくれた。同調査会理事長の井上邦之氏(天坂氏の前任の国鉄副総裁)の厚意によると、交通ぺンクラブの創設者、?種彦氏が書き残している(会報「交通ぺン」61号)。
 87(昭和62)年4月、国鉄の分割民営化でJR7社が発足。この改革に伴って例会の共催者が運輸調査会から?交通協力会に変わった。以後、交通ペンクラブ、日本交通協会、交通協力会の3者共催で、原則年7回のペースで続けられた。
 最終例会はちょうど満30年。220回だから、1年7・3回開催したことになる。当初は毎月開催。例会案内はプリントゴッコを購入して古林肇道会員(元毎日新聞、小田原城源寺住職)と2人で住復はがきに印刷した。その後、小型コピー機を購入、北鎌倉・明月院脇の?氏の自宅から発送していた。
 司会は、ずっと事務局長の?氏が務めた。?氏は2007年4月、86歳で亡くなられたが、司会の最後はその5カ月前の2006年11月。第188回例会で、講師は精神科医で作家のなだいなだ氏だった。
 岸井氏が講師として最初に登場したのは、1996(平成8)年2月の第112回例会。村山富市社会党内閣から橋本龍太郎自民党内閣に変わった直後で、肩書きは政治部長だった。それ以前の政治評論は同じ毎日新聞の岩見隆夫氏にお願いしていた。
 15年半で16回。「岸井さんの講演はいつも絶妙なタイミング」といわれたが、その間、内閣総理大臣は橋本龍太郎―小渕恵三―森喜朗―小泉純一郎―安倍晋三―福田康夫―麻生太郎―鳩山由紀夫―菅直人と9人も変わっている。混迷する政治を的確に読み解いてくれた。
 登壇回数第2位は3回組。国鉄OBの元衆議院議員・自民党幹事長の野中広務氏、前記岩見隆夫氏、産経OBの山本雄二郎氏、交通経済学者の岡田清氏、日本経済研究センター所長(元日経新聞)新井淳一氏の5人。2回が交通ペンクラブ会員の須田寬氏、林義郎氏や山之内秀一郎氏、葛西敬之氏ら。とりわけJR東海会長の葛西氏が中央新幹線を「交通新大陸の幕開け」とうたって、5兆円余りの建設費を公共事業でなくJR東海が負担をして建設することを表明した(第208回例会、08年9月)の講演が印象深い。
 会員ではこの他、牧久氏(日経新聞副社長・テレビ大阪会長)、ジャーナリス卜のロバートンソン黎子氏(元毎日新聞)、高速鉄道に詳しい住田俊介氏、旧国鉄関係では高木文雄、伊江朝雄、橋元雅司、岡田宏、岩崎雄一、前田喜代治氏らが講演している。
       

交通ペンクラブ30周年






























例会講師一覧(肩書は当時、敬称略)

1981(昭和56)年
1 7.31 運輸省大臣官房審議官・石月昭二
2 8.28 日本航空㈱社長・高木養根
3 9.28 国鉄北鉄道管理局長・山之内秀一郎
4 10.30 行管庁行政監査官・塩路耕次
5 11.26 交通新聞編集委員・有賀宗吉
6 12.23 朝日新聞編集委員・岡並木
1982(昭和57)年
7 2.22 鉄建公団新幹線第一課長・岩田敏雄
8 3.30 旅行開発副会長・住田俊一
9 4.30 毎日新聞論説委員・神田禎之
10 5.31 サンケイ新聞論説委員・江本嘉幸
11 7.30 国際科学技術博事務所長・賀田恭弘
12 8.27 営団地下鉄副総裁・薗村泰彦
13 9.30 京都MKタクシー会長・青木定雄
14 10.29 法大教授・広岡治哉、空港ビル社長・高橋寿夫、交通新聞・有賀宗吉、サンケイ新聞・
       山本雄二郎、JTB・加賀山朝雄
15 11.29 毎日新聞編集委員・志位素之
16 12.20 参議院議員・伊江朝雄
1983(昭和58)年
17 2.24 千葉大法経学部教授・村山元英
18 3.3  東京急行常務・柳田盈文
19 4.28 営団地下鉄理事・藤岡長世
20 5.30 東大工学部助教授・曽根悟
21 6.27 太平洋汽船㈱会長・秋山龍
22 8.26 成城大学教授・岡田清
23 9.28 鉄道友の会理事・吉村光夫
24 10.27 毎日新聞論説副主幹・神田禎之
25 11.29 国鉄外務部次長・立松俊彦
26 12.23 国鉄旅客局サービス課主幹・稲垣和代
1984(昭和59)年
27 2.15 日本アジア航空広報部長・富永利男
28 3.29 医学博士・宮崎亮
29 4.27 日本電電公社特別参与・寺井靖英
30 5.31 国際観光専門学校校長・鷹司信兼
31 7.27 日本郵船資料編纂室長・米里正明
32 9.28 作家・利根川裕
33 10.30 国鉄情報システム部長・山田度
34 11.30 読売新聞社政治部・高浜賛
35 12.18 NHK解説委員・大山昊人
1985(昭和60)年
36 2.26 国鉄経営計画室長・前田喜代治
37 3.29 横浜みなとみらい21常務・岡部達郎
38 4.23 産経新聞論説副委員長・山本雄二郎
39 5.31 慶大教授・藤井弥太郎
40 7.26 東京学芸大学教授・青木栄一
41 9.27 朝日新聞編集委員・橋本司郎
42 10.29 国鉄建設局都市交通課長・池田本
43 11.29 日本観光学会評議員・大林正二
1986(昭和61)年
44 2.21 交通システム企画室長・西尾源太郎
45 3.28 航空保安協会理事長・山口真弘
46 4.22 国鉄職員局次長・葛西敬之
47 7.25 交通評論家・岡並木
48 9. 5 東大工学部教授・中村英夫
49 11.28 日本車両㈱常務・古泉栄一
1987(昭和62)年
50 2.21 国鉄常務理事・須田寛
51 3.27 日本添乗サービス協会専務・三橋滋子
52 4.21 千葉大学名誉教授・清水馨八郎
53 7.24 交通システム企画㈱・西尾源太郎
54 9.15 聖心女子大室長・吉沢五郎
55 11.27 東京新聞論説委員・佐藤雄一
1988(昭和63)年
56 2.26 鉄道総合技術研究所専務・渡辺偕年
57 3.25 東京交通短期大学助教授・新井山勝弘
58 4.22 横浜みなとみらい21社長・高木文雄
59 6.24 日本空港ビルディング社長・高橋寿夫
60 7.22 日本経済新聞経済解説部長・新井淳一
61 9.27 成城大学経済学部長・岡田清
62 11.25 電通総研社長・天谷直弘
1989(平成元)年
63 2.27 東京銀行取締役調査部長・本田敬吉
64 3.24 元朝日新聞編集委員・橋本司郎
65 4.21 読売新聞政治部長・本田来介
66 6.23 世界経済調査会理事長・木内信胤
67 7.21 外務省参与・川上健三
68 9.22 日本開発銀行次長・森口賢
69 11.21 元NHK放送総局副局長・吉岡利夫
1990(平成2)年
70 2.23 日本経済新聞論説委員・金指正雄
71 3.23 元東京管区気象台長・藤原滋水
72 4.23 東京女子大学教授・小池滋
73 6.22 元参議院議長・木村睦男
74 7.20 日本経済新聞編集局次長・新井淳一
75 9.21 NHK解説委員・萩原弘己
76 11.20 日興証券主席アナリスト・安河内達也
1991(平成3)年
77 2.22 東京都地下鉄建設㈱社長・西村康雄
78 3.22 日本外交協会理事・谷畑良三
79 4.19 NHK解説委員・平山健太郎
80 6.21 文部省宇宙科学研助教授・的川康宣
81 7.19 地球文化研究所主宰・高橋良典
82 9.20 日本郵船企画部長・前田恭孝
83 11.22 NHK解説委員・中島勝
1992(平成4)年
84 2.21 成城大学経済学部長・岡田清
85 3.24 元神戸大学教授・慶大講師・杉村新
86 4.21 日本貨物鉄道㈱社長・橋元雅司
87 6.26 法政大学法学部教授・下斗米伸夫
88 7.24 東京大学工学部教授・曾根悟
89 9.25 ㈱HSST社長・林章
90 11.20 慶応義塾大学法学部教授・小此木政夫
1993(平成5)年
91 2.19 東大名誉教授・岡野行秀
92 3.19 運輸省海上技術安全局長・戸田邦司
93 4.23 東京アメリカンセンター館長・
          アレキサンダー・アルマゾフ
94 6.18 外交評論家・元産経外信部長・澤英武
95 7.23 大和総研理事長・宮崎勇
96 9.24 JR東海社長・須田寛
97 11.19 毎日新聞編集局顧問・岩見隆夫
1994(平成6)年
98 2.25 日本航空協会調査室副参事・酒井正子
99 3.25 NHK解説委員室・小室広佐子
100 4.22 湘南短期大学教授・井上隆司
101 6.24 ジャーナリスト・四方洋
102 7.22 日本大学商学部講師・川口満
103 9.16 評論家・謝森展
104 11.25 日本経済新聞諭説副主幹・小島明
1995(平成7)年
105 2.17 毎日新聞編集局顧問・岩見隆夫
106 3.17 NHK解説委員・藤吉洋一郎
107 4.21 住都公団交通施設課長・住田俊介
108 6.23 日本交通公社副会長・岩崎雄一
109 7.21 東京デジタルフォン副社長・林義郎
110 9.22 南ドイツ新聞・
           ゲプハルト・ヒールシャー
111 11.24 旅行作家協会長・医学博士・斎藤茂太
1996(平成8)年
112 2.23 毎日新聞政治部長・岸井成格
113 3.22 日本航空文化事業センター・佐宗邦夫
114 4.19 経済評論家・山本雄二郎
115 6.21 VAN創業者・デザイナー・石津謙介
116 7.19 日本陸上競技連盟理事・大串啓二
117 9.20 東京大学名誉教授・大河内暁男
118 11.22 海外鉄道技術協力協会理事長・岡田宏
1997(平成9)年
119 2.21 JR東京総合病院院長・松本正久
120 3.21 神奈川県温泉地学研究所・長瀬和雄
121 4.18 元気象庁長官・新田尚
122 6.20 安全保障フォーラム代表・三根生久大
123 7.18 元朝日新聞出版業務部長・永井穆
124 9.19 ジャーナリスト・嶌信彦
125 11.21 スポーツライター・鉄矢多美子
1998(平成10)年
126 2.20 毎日新聞特別編集顧問・岩見隆夫
127 3.20 毎日新聞経済部長・菊池哲郎
128 4.17 トラベルデザイナー・おそどまさこ
129 6.19 日本インターネット協会・石田晴久
130 7.17 毎日新聞論説委員長・岸井成格
131 9.18 Jリーグチェアマン・川淵三郎
132 11.20 産経新聞論説委員・石井英夫
1999(平成11)年
133 2.19 毎日新聞論説委員長・岸井成格
134 3.19 毎日新聞編集委員・池田知隆
135 4.16 日本証券経済研究所・紺谷典子
136 6.18 交通史評論家・齋藤俊彦
137 7.16 映画監督・降旗康男
138 9.17 元NHK専務理事・尾畑雅美
139 11.19 元労働事務次官・松原亘子
2000(平成12)年
140 2.18 毎日新聞役員待遇編集委員・岸井成格
141 3.24 三菱電機顧問・木内孝
142 4.21 電機通信大学教授・西尾幹二
143 6.23 静岡理工科大学講師・山本寛
144 7.21 毎日新聞論説委員長・中村啓三
145 9.22 ノンフィクションライター・佐野眞一
146 11.24 運輸省運輸政策局次長心得・星野茂夫
2001(平成13)年
147 2.23 埼玉大学教養学部教授・吉田康彦
148 3.23 毎日新聞役員待遇編集委員・岸井成格
149 4.16 自民党前幹事長・野中広務
150 6.22 ノンフィクション作家・佐野眞一
151 7.27 元国鉄鷹取工場長・関長臣
152 9.21 毎日新聞役員待遇編集委員・岸井成格
153 11.16 ノンフィクション作家・高橋団吉
2002(平成14)年
154 2.22 日本経済新聞編集局次長・斎藤史郎
155 3.22 宇宙開発事業団理事長・山之内秀一郎
156 4.19 JTB社長・舩山龍二
157 6.21 毎日新聞役員待遇編集委員・岸井成格
158 7.26 医学博士・東大名誉教授・渥美和彦
159 9.20 直木賞作家・山本一力
160 11.22 日本将棋連盟棋士九段・大内延介
2003(平成15)年
161 2.21 鉄道写真家・櫻井寛
162 3.28 ヴァイオリン演奏家・劉薇
163 4.18 毎日新聞役員待遇編集委員・岸井成格
164 6.20 癌研究所実験病理部長・樋野興夫
165 7.18 ジェイフォン会長・林義郎
166 9.19 拓植大学国際開発学部教授・重村智計
167 11.21 ジャーナリスト・ロバートソン黎子
2004(平成16)年
168 2.20 日本経済新聞論説主幹・岡部直明
169 3.19 防衛大学校教授・立山良司
170 4.23 日刊現代編集部長・二木啓孝
171 6.18 産経新聞論説委員・皿木喜久
172 7.23 毎日新聞専門編集委員・岸井成格
173 9.17 参議院議員(元検事)・佐々木知子
174 11.19 作家・昭和史研究家・半藤一利
2005(平成17)年
175 2.18 藤本ヨガ学院院長・千能千恵美
176 3.25 建築事務所ゴンドラ代表・小林純子
177 4.22 日本経済新聞編集局次長・脇祐三
178 6.24 日本プロボウリング協会長・中山律子
179 7.22 毎日新聞特別編集委員・岸井成格
180 9.16 推理作家・元読売新聞記者・佐野洋
181 11.18 元衆議院議員・野中広務
2006(平成18)年
182 2.24 産経新聞論説委員長・千野境子
183 3.24 オリエンタルランド会長・加賀見俊夫
184 4.21 禅「少窟道場」老師・井上希道
185 6.23 日本芸術院会員・洋画家・絹谷幸二
186 7.21 前検事総長・弁護士・原田明夫
187 9.22 毎日新聞特別編集委員・岸井成格
188 11.24 作家・なだいなだ
2007(平成19)年
189 2.23 テレビ大阪会長・牧久
190 3.23 パ・リーグ会長・小池唯夫
191 4.20 映画監督・龍村仁
192 6.22 「ランナーズ」編集長・下条由紀子
193 7.20 毎日新聞特別編集委員・岸井成格
194 9.21 千葉大工学部大学院准教授・佐藤健吉
195 11.16 元NHK社会部・坂上遼
2008(平成20)年
196 2.22 日本経済新聞論説副委員長・泉宣道
197 3.21 元スポーツニッポン新聞記者・大隅潔
198 4.18 放射線医学総合研元所長・平尾泰雄
199 6.20 京都造形芸術大学教授・寺脇研
200 7.18 毎日新聞特別編集委員・岸井成格
201 9.19 JR東海代表取締役会長・葛西敬之
202 11.21 昭和女子大学学長・坂東眞理子
2009(平成21)年
203 2.20 帯津三敬病院名誉院長・帯津良一
204 3.27 日本経済新聞出版社会長・斎藤禎
205 4.17 元衆議院議員・野中広務
206 6.19 毎日新聞特別編集委員・岸井成格
207 7.17 JOC副会長・福田富昭
208 9.19 日本ハム球団元社長・小嶋武士
209 11.20 サンデー毎日編集長・山田道子
2010(平成22)年
210 2.19 三菱一号館美術館館長・高橋明也
211 3.19 千葉商科大政策情報学部教授・宮崎緑
212 4.16 政策研究大学院大学副学長・大田弘子
213 6.18 元岩波映画監督・重森貝倫
214 7.16 毎日新聞社主筆・岸井成格
215 9.17 イッセイミヤケ社長・太田伸之
216 11.19 Newsweek日本版元編集長・土野繁樹
2011(平成23)年
217 2.18  東京大学名誉教授・原朗
218 4.22 日本経済研究センター所長・新井淳一
219 6.17 元国鉄スワローズ投手・金田正一
220 7.22 毎日新聞社主筆・岸井成格

三賞獲得








 九州新幹線全線開業の「祝!九州」キャンペーンが、カンヌ国際広告祭で金・銀・銅の3賞を獲得した。とにかく楽しい180秒CMである。今年2月20日、7色にラッピングされた新幹線が鹿児島中央→博多間を走った。沿線住民らがこの列車に向かって手を振ったり、横断幕を広げるなど様々な「祝福」を浴びせた。その模様を車窓から撮影してCMやポスターをつくった。 しかし、待ちに待った全線開業の前日に3・11東日本大震災。開業式典は中止となり、CMもお蔵入りとなった。 


 CMが再開されたのが4月23日。JR九州は「たくさんの笑顔や元気が大きな力となって、今回の授賞につながったと思います」と、呼び掛けに応じて沿線を埋めた住民に感謝している。

都市対抗野球

 10月22日から京セラドーム大阪で開催に変更となった第82回都市対抗野球。すでにJR東日本は東京都第1代表として2年連続14回目の出場を決め、昨年準優勝のJR九州や、JR東日本東北も8月の予選を勝ち抜いて本大会に出場するはずだ。残念なのはJR北海道が、5月に起きた石勝線の特急脱線・炎上事故などから、予選開始直前に出場辞退を決めたことだ。

三役人事

 日本交通協会は5月27日の総会で、三坂健康会長、前田喜代治理事長が退任、新会長に長谷川忍、副会長に岡田宏、理事長兼副会長に竹田正興各氏を選任した。

ペンサロン

 毎月第4木曜日午後5時から日本交通協会ラウンジで開いていた交通ペンサロンも、ことしいっぱいで終了します。次回は9月22日。10月27日は、北京―上海高速鉄道ツアーと重なったため中止。そのあとは11月24日、最後は12月22日の忘年ペンサロンとなります。会費1千円。フリー参加です。

訃報

 ルミネ社長の谷哲二郎氏(元JR東日本副社長)が5月24日急逝した。61歳だった。28日東京・青山葬儀所で営まれた葬儀では出棺の際、映画「男はつらいよ」の寅さんの主題曲がエンドレスで流されていた。

2011年7月22日金曜日

第220回 例会

「政局の行方を読む」


2011年7月22日

毎日新聞社主筆・岸井成格氏

2011年7月7日木曜日

交通ペンクラブ 30周年記念号

 はじめに



 東海道新幹線が開業して間もなく半世紀を迎える。
 ことし96歳になる元国鉄総裁・仁杉巖さんは、土木屋として線路を敷く作業に携わった。傘寿を迎える島隆さんは0系の台車を設計した。祖父、島安次郎さんが果たせなかった弾丸列車の夢を、十河信二総裁から技師長に呼び戻された父親の島秀雄さんとともに親子で果たした。92歳の齋藤雅男さんは運転関係の責任者として初期故障の対応に追われた。このビッグ・プロジェクトの完成を間近で見守った新聞・テレビの記者たち。NHKは「ひかり」号がダイヤ通りの試運転をしたとき、4時間の完全生中継をしている。
 斜陽の鉄道を蘇らせた「夢の超特急列車」の誕生。71歳で総裁に就任した十河さんの「老いの一徹」がなければ、実現はあり得なかった。21世紀は高速鉄道の時代といわれるが、東海道新幹線は決して時代の要請でつくられたものではない。十河さんは、敗戦国ニッポンの復興を世界に認めて貰おうと、東京オリンピックの開幕をゴールに遮二無二突っ走ったのである。
 交通ペンクラブ創設30周年記念事業として、生き証人である会員の皆さんに「東海道新幹線と私」を寄せてもらった。次世代に伝える貴重なドキュメントであると同時に、面白い読み物になったと思う。


                                          2011年7月4日
 
                                 創設30周年総会・記念パーティーの日に
                                      交通ペンクラブ
                                      代表幹事  曽我  健

交通ペンクラブ 30周年記念号 目次

目  次
  
はじめに/曽我 健…3
東海道新幹線と島家三代/島  隆…6
大野伴睦氏と新幹線/三坂 健康…14
新幹線の建設について思うこと/仁杉 巖…16
十河総裁と東海道新幹線/山本 佳志…19
ニュースの舞台裏奮闘記/中林 幸夫…21
『2種類しかないのに料金は3種』のナゾ/古林 肇道…24
「新東海道線」と言い続けたNHK/古屋 成正…29
忘れ得ぬ新幹線初試乗会/河合 恭平…30
東海道新幹線と私/大島 宏彦…32
国際競争入札が行われた
東海道新幹線車両/石田 孝男…33
新幹線と食い物の記憶/松浦 和英…34
石田国鉄総裁と新幹線/岩崎 雄一…36
出発式のブラスバンド/関原 誠一…39
東海道新幹線、開業から安定まで/齋藤 雅男…42
東海道新幹線と「自由席」/須田 寛…46
東海道新幹線16両化の工作/竹内 哲夫…49
十河さん、島さん、青木さんのこと
―十河さんと私を最後まで支えてくれたのは、
青木槐三さん一人だった(島さんの言葉)―/吉澤 眞…51
ワンランク上の快適空間、0系新幹線電車/米山 淳一…62
東海道新幹線開通時の無駄話/平野 雄司…64
東海道新幹線(どん底時代)と私/齋藤 雅之…66
東海道新幹線と私/林 義郎…70
イルカになった新幹線/二川 和弘…71
新幹線と安八水害/初田 正俊…74
東海道新幹線で結婚スタート/菅原 順臣…76
開業直後の〝坊けん〟/諸岡 達一…77
新幹線の輪切り論ほか/矢島 明彦…78
新幹線列島大動脈完成/石井 幸孝…81
ガバナー・ソゴー/柳井 乃武夫…87
フランスと新幹線、新幹線とフランス/菅 建彦…89
岡山開業の一番列車を取材した/堤  哲…96
東海道新幹線と私
     ―守り育てる新幹線―/野沢 太三…101
開業前「営業部長」から一言/角本 良平…109
交通ペンクラブの30年…112
  定例講演会の記録…114
  亡くなられた会員の方々…116
  国鉄トップ一覧と歴代広報部長…117
  編集後記…118
  <付録>1964年10月1日現在の全国鉄道路線図

表紙は、創建時復原した東京駅のライトアップ図(JR東日本提供)。

2011年6月17日金曜日

第219回 例会



第219回例会 「私の野球人生」



2011年6月17日



400勝投手・金田正一氏

2011年5月12日木曜日

救われた「乗客は無事」

東日本大震災 JR東日本に深い傷跡
 あの時、東北新幹線は27本の列車が走っていた。太平洋沿岸に設置した地震計による「早期地震検知システム」が働いて、本震が来る前に各列車は減速―停止して脱線を免れた。
 3月11日午後2時47分3秒、東北新幹線の線路から約50㌔離れた牡鹿半島の地震計が運転中止の基準となる「120ガル」の加速度を捉えた。即自動的に電気の供給をストップ、走行中の新幹線は一斉に非常ブレーキをかけて減速を始めた。揺れが大きかった仙台駅と、1つ北の古川駅間には「はやて27号」と「やまびこ61号」が走っていた。JR東日本によると、この2列車が非常ブレーキをかけた9秒後から12秒後に最初の揺れが始まり、1分10秒後に最も強い揺れを記録した。
 新幹線の回送電車が仙台駅の近くで二軸脱輪したが、乗客のいる営業運転の列車は脱線しなかった。しかし、高架橋の柱が損傷、電柱の折損、架線の断線、軌道の変位・損傷など約1200カ所で被害を受け、3月5日にデビューしたばかりの「はやぶさ」も運休に追い込まれた。最後に残った仙台―一ノ関間が復旧して、東京―新青森間の全線運転を再開するのは4月末の予定だ。
 在来線では仙石線の野蒜駅付近で4両編成の列車が津波で流され、L字型に脱線した。このほか常磐線新地駅、気仙沼線松岩―最知間、大船渡線盛駅でも列車が脱線・転覆するなどしたが、幸い乗客に被害はなかった。太平洋沿岸を走る7路線23駅の駅舎が流失、線路が総延長22㌔にわたって流失したり、土砂に埋まった。
 第三セクター三陸鉄道も大きな被害を受けた。南リアス線盛―釜石間36・6㌔は復旧のメドも立っていない。北リアス線宮古―小本間25・1㌔、陸中野田―久慈間11・1㌔で運転を再開したが、小本―陸中野田間34・8㌔は不通のまま。仙台空港アクセス鉄道(名取―仙台空港7・1㌔)、ひたちなか海浜鉄道湊線(勝田―阿字ヶ浦14・3㌔)の運転の見込みも立っていない。大洗鹿島線(水戸―鹿島サッカースタジアム53・0㌔)は新鉾田―大洋間でバスによる代行運転をしている。
 3・11当日、JR東日本は午後6時20分、管内の全新幹線と首都圏の在来線全線などで運転打ち切りを決定した。各駅は早々にシャッターを閉めた。この措置に、足を奪われて歩いて帰宅する人たちから強い非難の声があがった。清野智社長は記者会見で「批判を真摯に受け止め、非常時の対応を検討したい」と答えた。

7月4日に創設30周年 記念パーティー

 ことしは「交通ペンクラブ」が創設されて満30年。総会と記念パーティーを7月4日(月)午後5時から日本交通協会大会議室で開きます。お土産は「東海道新幹線と私」を特集した30周年記念誌。改めてご案内を致しますが、奮ってご参加を!

東日本大震災

その時、私は…

 その時はマレーシアのマラッカ。国際キワニスのアジア・太平洋総会の開会式の最中、次期ガバナー役で出席していた。日本の状況はNHKの放送がそのまま届くので時々刻々分かるが、電話はなかなかつながらない。日本から参加の会員、家族らの不安が募る中、各国の参加者から次々とお見舞いや同情の声がかかる。
 引き続く歓迎夕食会の席上、ホスト国のマレーシア、最大デレゲーションの台湾をはじめ、1月の地震の際、真っ先に見舞いの申し出があったのは日本からだったというニュージーランドの代表らが続々と壇上に立ち、期せずして募金の機運となる。即席の段ボールの募金箱が700余人の参加者の間を回り、たちまち多額の義援金が寄せられたのだった。改めてキワニスファミリーの厚い友情を実感した瞬間である。そこには間違いなく日本という国への深い信頼感と親近感があったことを思い起こすとき、思わず目頭が熱くなる。         (齋藤 蓊)
 

大震災の何日か前、高校(都立西)の同期の集まりで、大手メーカーにいたH君が「これからは原発の時代だ。これを嫌うなら電化製品を捨て、戦後の停電レベルに戻れ」といった。私が「でも大地震のときは」といったら「新幹線の方がずっと危ないぞ」といった。3月11日、報道によれば関係した新幹線二十数本は緊急停止し、お客様は無事だった。福島第一原発は停止したが、危機はじわっとやって来ている。原発自身の問題というより保守管理、正確な情報伝達ができていないことによるものか。
 今度H君に会ったら、彼は何というのかな。       (矢島 明彦)
 

その時、家にいて原稿を書いていた。棚から本が落ちてきた。テレビがひっくり返りそうだったので、あわててテレビを押さえた。随分長い時間そうしていたように思う。
 それからずっとテレビを見続けた。これほどまでの被害が出るとは想像もできなかった。知り合いに今のところ犠牲者はいない。   (松浦 和英)
 

あれだけの地震は、無論初体験。JRエビスビルの10Fは激しく揺れた。生来苦手な地震に引導を渡されるのか。まぁイイ年だからもって瞑すべしか。と、その時「このビルは丈夫にできているので倒れる心配はありません。どうぞ落ち着いて下さい」という館内放送が繰り返された。それを聞くうち魔法が解けたように身体から力が抜けていった。何という心強くタイムリーなメッセージか。ビルメンテナンスマンの日ごろの修練の賜物か。一度この声の主に会ってみたいと思う。       (岩崎 雄一)
 

3月11日は例年通り課税申告をすませて、午後2時50分ごろ、帰宅して茶の間に入った途端、大きな揺れを感じました。思わずテーブルに両手をついて周囲を見回し、テーブルの下にもぐるべきか、このままやり過ごすかと考えているうちに、地震はおさまりました。玄関を飛び出し、あたりを見回しました。道路の電柱に備えられた変圧器がいまにも落ちそうな勢いで揺れていました。大工さんに壁に固定してもらった食器棚はビクともせず、無事でした。        (河合 茂美)
 

 大震災、その時……。家の中にいて夫婦でくつろいでいたときでした。家内の悲鳴と共に立ち上がり、まずガスの電源を切り、食器棚の扉を抑えました。彼女は玄関のドアを開ける一方、飼犬を抑えて首輪をかけました。震度5強の揺れでしたのに犬が吠えなかったのは不思議です。横揺れなので東京は心配ないと思いましたが、新幹線は無事であろうかと、その方が気遣われました。わが家は何の被害もなく、すまないくらいです。  (古屋 成正)
 

 キッチンに立っていてフライパンが転がり出した。百年もたっているおばあちゃんの古い桐タンスが一人で歩いたように前進している。本はかなり落下した。揺れは不思議なもので、ビクともしていない部屋と上のものが落ちているところがある。揺れるマンションは安全、揺れない建物は危ないね、とビル建設のプロが教えてくれた。
 地震予知とは、歴史と古典の学問であるとTVで大学教授が話していた。関西の方には源氏物語など1000年前の記録がかなりある。東日本、東北には古い文書がほとんどない。宮城県多賀城にわずかに残された文書をもとに内陸部深く調査したら津波の砂が残されていた。原発の耐震性も含め、巨大津波の予測は研究的には分かっていた。つまり想定内。
 地震国日本は活断層の調査も進み、かなりの予測データができている。東京直下で起きるM7以上の地震は10年以内で30%、30年以内で70%。日時は分からない。
 旧国鉄の労働科学研究所で東京駅を知らない人たちに駅を歩いてもらう実験をしたら、人は右へ右へと進むという。駅中商店街も楽しいが、JRターミナル駅は防災と人の流れも研究してほしい。東海道新幹線の通常運転は心強いですね。     (吉澤  眞)
 
 
 「千葉ふるさと文化大学」で講演を頼まれ、午後2時30分すぎから話を始めた直後でした。場所は千葉県庁そばの「千葉教育会館」5階。聴衆は200人ほどいましたが、平均年齢は70歳近く。さすがに騒ぐ人はほとんどなし。1回目の揺れがおさまり、話を再開すると拍手がわきました。2度、3度の余震に「以下は次回」と解散になりました。エレベーターも止まっていましたが、皆さんの落ち着きぶりに感動を覚えました。電車も止まり自宅までは歩いて3時間。黙々と歩く人の列に日本人の「強さ」を感じました。
             (牧 久)
 
 
 ①その時、赤坂迎賓館前を走るタクシーの中にいた。パンクしたような感じで車が急停車し、ゆっくり跳ね上がるように何度も揺れた。運転手がハンドルにしがみついて「地震ですね。わぁすごい!怖いですねぇ」。声が震えていた。窓の外で道路が波打って見え、頭の上の道路案内板が大きくしなった。初めて体験する不気味な揺れだった。長い揺れが収まって、恐るおそる3時から式典が予定されていた明治記念館まで車で走った。途中あちこちの建物から大勢の人が外に飛び出してきていた。
 ②急いで明治記念館に入ろうとすると玄関先のボーイに止められた。「全館入場禁止です」。辺りを見回すと玄関前の広場に屋外避難の客や従業員があちこちに人の輪をつくっていた。顔見知りの人たちを見つけて興奮気味にそれぞれが地震の怖さを話し合っているところへ2度目の大きな揺れがきた。地面全体がゆっくり横に揺れ庭の大きな木が左右に傾いた。みんな不安そうに顔を見合わせ言葉を失った。「どこかで大変なことが起きているに違いない。ついに東海地震がやってきたのか」と身体が小さく震えた。誰かが「ラジオが震源地は宮城県沖だと言っています」と教えてくれた。知ったかぶりに地震波の解説をし「この揺れでは死者は1000人を超えるかも」。無責任な想定を話した。甘かった。
 赤坂から信濃町、新宿、甲州街道を歩いて3時間半かかって帰宅した。だんだん一緒に歩く人波が増え、渋滞する車の列を追い越した。
 ③いま思うこと。「無常」。そして助け合い、支えあい、励ましあう。やがて人々はこの苦難から立ち上がる、立ち上がらなければならない。現役時代ならやるべきことが山ほどあったのに「俺もトシをとったなぁ」。一日中新聞、テレビを眺めていささか情緒不安定、なかなか平常心が戻らない。
 日本列島は「地震活動期」に入った。次の大地震がやってくる。その時どうするか。あの日あの時間、走行中の新幹線の列車88本は直ちに緊急停止し無事だったと聞いたが、これから緊張の日々が続く。      (曽我 健)
 

 東京・内幸町の日比谷中日ビル5階の中日新聞社友会事務局で、大地震に遭遇しました。電車が不通になったので、そのまま事務局で夜を明かし、千葉・浦安の自宅に帰り着いたのは、翌日の夕方でした。
 市の4分の3が埋め立て地の浦安は地震による液状化で、至る所でドロ水が吹き出し、道路が陥没するなど惨憺たる状況を呈していました。水道管、下水道管、ガス管が破損、水道、ガスは10日以上ストップしたままでした。
 幸い自宅は無事でしたが、水道の出ない生活は大変でした。地震に備え、日ごろからペットボトルの水や、電池などを備蓄しておくことが重要だと、つくづく思いました。 (二川 和弘)
 

 大津波の猛威をテレビ画面で見ながら、前日の牧太郎・毎日新聞専門編集委員のブログを思い出した。三陸沖では9日正午前に震度5弱の地震があり、その余震が続いていた。
 「余震?でも……不気味だ」
 この9日の地震で気象庁の地震津波監視課長は記者会見して「今後丸1日程度、最大で震度4の余震が続く恐れがある」と警戒を呼びかけたが、「大地震の前兆というより、これ以上の大きな地震はないから心配しないように」と断言したのである。
 駆け出しの長野支局で松代群発地震に遭遇した。佐藤栄作首相が現場視察に来たとき、地元松代町の老町長はこう陳情した。「もっと学問を!」。カネやモノでなく、この地震がいつ収まるのか、一日も早く科学の力で解明してほしい。地震予知を求めたのである。1966(昭和41)年5月のことだった。あれから45年である。 (堤 哲)
 

 古今未曽有の東日本大震災が日本列島を襲った時、私は鎌倉のとある裏通りで間近に迫った「ご近所コーラス」発表会のポスター貼りをしていた。掲示板にポスターを打ち付けようとした時、急に足元がふらつき目が回るような感じがした。とっさに思ったのは「これが世に言う脳梗塞の発作というものか」ということである。しばらくして眩暈も収まったのでポスターを貼り終わり、表通りの若宮大路に出て通りを横断しようとしたら信号が消えている。手で車を制しながら通りを渡り、人ごみに近づくと「マグニチュード……宮城県沖……」という言葉が途切れ途切れに耳に入り、さっき私を襲ったのは脳梗塞の発作ではなく、地震の揺れだった事にやっと気が付いた。
 兎にも角にも歩いて家に帰ったものの、停電でテレビも見られないし携帯ラジオの持ち合わせも無く、時々市の広報車が大津波警報の発令と海岸近辺からの避難を触れ回っている。「5、6㍍程度の津波なら我が家までは襲うまい」と高をくくって自宅に閉じ篭っていたが、蝋燭の明かりで食事を終えた8時過ぎになってやっと電気が通じ、テレビを通じて入ってくる激甚な被害に驚愕し心が痛んだ。
 地震の発生から既に4週間が過ぎた今日でも、被災者の多くの方々は大変な不自由を余儀なくされている。その一刻も早い救済は焦眉の急であることは言うまでもない。同時に福島原発事故の制圧は待ったなしの喫緊の課題である。地震や津波とは縁の深い土木工学を学んできた私としては、今回の事象は極めて大きな地震と想像を絶する津波の複合災害であり、原発の直接被害があの程度で済んだ事は一応評価できるものと考える。
 しかし、その後の政府や東電の対応にもどかしさを感じるのは、関係者にとって酷であろうか。この事態の帰趨について世界中の耳目が集まっている。広域にわたる大気や水や食品の汚染を懸念するオーバーな情報が世界中を駆け巡っている状況下、これ以上の事態の悪化を防ぎ制圧する事を何としてでもやり抜かねばならない。さもないと、ただでさえ巨額の財政赤字に悩む日本に対する世界の信頼は一挙に失墜し、日本は永久に立ち直れないだろう。戦争の惨禍から見事に蘇った日本国民の英知を結集すれば必ずやり抜ける事を信じている。
 元鉄道技術者としては、今回の地震によって高架橋や架線柱に相当な被害を生じたものの(この教訓を将来の計画・設計に生かさねばならぬ事は当然として)、乗客に一人の被害も出さなかった事は、ユレダスの設置をはじめとする鉄道事業者の万全の安全対策の賜でありご同慶の至りである。
 会員に多くの報道関係者を擁するペンクラブのためにあえて付言するならば、今回の大震災に関する報道姿勢は全般的に見て抑制が効いた妥当なものであると評価される。  (岡田 宏)

鉄道魂を発揮しよう

 清野智JR東日本社長
 メッセージ放送の要旨

 
 大地震から大津波、そして余震と続く中、それぞれの職場で働いていた社員の皆さんの、お客さま救済に向けての献身的な働き、本当に頭が下がります。自らの危険を顧みず、お客さまを誘導してくれた乗務員や駅の皆さん、そしてすべての社員の皆さん、ありがとうございました。
 これから私たちがやるべきことは、言うまでもありません。心をひとつにして、まずお亡くなりになられた方々を弔い、被害を受けた方々をお見舞いし、被害に遭った方々が再起に向けて立ち上がることのお手伝いをすることです。
 長い長い闘いになると思います。お互いに健康に留意しながら、鉄道魂を発揮し、全社員が心をひとつにして、「JR東日本、そしてJR東日本グループここにあり」で頑張りましょう。 (3月14日)

JR東海 「リニア・鉄道館」がオープン

 JR東海の「リニア・鉄道館」が3月14日オープンした。交通ペンクラブ24人は7日にプレビューを楽しんだ。
 名古屋駅で迎えてくれたのは、交通ペンクラブ会員のJR東海相談役、須田寛氏(元社長)。鉄道マニアである。「旧国鉄の名古屋管理局長時代(1979年5月~81年6月)、保存価値のある車両を美濃太田車両区の留置線に貯めました。それが今回生きました」。
 貴重品は、モハ1形式電車。鉄道省が1921(大正10)年から製作した木製車体の電車。内部を宮大工に頼んで復元した。
 戦前、阪神間の急行電車として活躍したモハ52形式電車や、1930(昭和5)年の省営バス第1号(鉄道記念物)などが挙げられるが、JR東海といえば東海道新幹線。0系、100系、300系……と歴代幹線車両が展示され、最新N700系は運転のシミュレーションが楽しめる。むろんその先は時速500㌔運転のリニアモーターカーである。ジオラマが面白い。幅33㍍、奥行き最大8㍍。線路延長1㌔。日本一の広さなのだという。
 名古屋駅からあおなみ線終点金城ふ頭駅下車。入場料大人1000円。火曜休館。展示39両。初代館長は金子利治氏(62歳)。
     










           ◇
 参加者は次のとおり(敬称略)
 石神源助、荻原正機、小澤耕一、柏靖博、斎藤雅男、関原誠一、曽我健、竹内哲夫、辻勝、堤哲、中島啓雄、初田正俊、二川和弘、古林肇道、落合ふたば、古屋成正、松浦和英、吉澤眞、十河光平、米山淳一、佐藤俊恵、栗原稔枝▽JR西日本=杉本伸明▽運輸調査局=高井力雄=以上24人

「はやぶさ」に試乗して ~諸岡 達一~

 杜の都の青葉通り……二百二十何本のケヤキは若い新芽のときからなんともいえない芳香を放つ。昔から「仙台は双葉より芳し」と言う(言わネエか)。
 交通ペンクラブの面々は笑みとお腹をふくらませて大宮駅酒豪……集合。今試乗会は革新的乗り心地を処女的に味わう旅であるからして……仙台では改札口を出ることもなく、双葉より芳しの青葉通りを歩くこともなく、せっせと駅ナカ売店にて、牛タン弁当を宮城に抱えて、すぐさま列車に戻るのであった。(「宮城」は「土産」の駄洒落です。駄洒落に解説を要するのはつらい)。
   
  ■
 いや、しかし。「揺れませんねえ」。口々に感嘆の声。テーブルに立てたスティック糊が「倒れませんヨ、ほら」。フルアクティブサスペンションと、カーブ箇所では車体をスムーズに傾斜させる装置をダブルで制御させる試みが巧く噛み合って車内は振動がほとんどない。
 今冬の山は雪が多い。日光連山、白く輝く奥白根山(2578㍍)が瞬間頭を見せ、那須塩原駅を通過、那須連山を左手に迎える辺り、「ただいま、時速300㌔で運転しています」のアナウンス。静かだ。レールに触れている感触はあまり感じない。空気抵抗を大幅に少なくした15㍍のロングノーズがトンネルに突っ込む。爆音も圧迫感を覚える振動も減った。
 昔の列車は網棚から荷物がよく落ちた。客車はガタンゴトンと揺れたものだ。でかいリュックサックが落ちて膝を怪我したことがあるのでリュックサックは縄で網棚に縛り付けた。「なぜ、網棚の荷物は真下に落下するのか」という物理学的命題、あれは等速度運動をしている物体には慣性の法則が働くからであって、列車が走っているからといって置いてあった網棚の位置より後ろに荷物が落下することはない。ここでは荷物も時速300㌔という等速度運動をしているから……うるさい! 大法螺を福島(吹く暇)もなく「はやぶさ」の車窓には吾妻連峰がいっぱいに広がって、まるでメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲ホ短調のような流麗優美な旋律を醸してE5系は早くも蔵王トンネルへ。
 「はやぶさ」は2012年には日本単独1位となる時速320㌔を出す所存である。山陽新幹線で現在300㌔を出しているN700系車両もうかうか出来ない。
 「はやぶさ」は10両編成。東京発新青森駅行の「はやぶさ1号」「はやぶさ3号」は先頭車がグランクラス。このスーパー・グリーン車は1~6番それぞれAが一列、BCが二列の18席しかない。デビューした3月5日、新青森までのグランクラスのキップがインターネット・オークションでは38万5000円で落札されたそうで、シェー! びっくり常識外もいいところ、世の中「あじゃパー」である。
 普通車のシートピッチが980㍉から1040㍉に拡大されたからA席の人がB席の人に、いちいち「すみません、すみません」「どーも、どーも」と言わなくてもトイレに通える。3人掛けシートの横幅もA席とC席が430㍉から440㍉に、B席が435㍉から460㍉へと拡大した。海外にも売り込む新幹線デザインの中軸を成すことになろう。パンタグラフも1個しかなく……あ、交通ペン会員のみなさんに列車の専門噺は「糠に説法、釈迦に釘」だ。この辺でやめておく。
  



  ■
 それにつけても「はやぶさ」という愛称……ついこの前は惑星探査機「はやぶさ」が話題を呼んだが、僕なんぞはブルートレインの「はやぶさ」という固定観念が脳髄に保持されていて、それが青森行きになった今日日、記憶認知上の乱れを生じる。東京駅15番線19時00分発車。 兄弟分の「あさかぜ」(博多行き)が出た30分後に悠然と出発する鹿児島行き「はやぶさ」、食堂車が連結されていたAB二等寝台特急のコト。九州内ではC61蒸気機関車が牽引したんだよな。
 昔噺をしてもシャアない。昭和4(1929)年に走り始めた東京←→下関の特急「櫻」が現在は新大阪←→鹿児島中央「さくら」となって走り、昭和5(1930)年走り始めた東京←→神戸の特急「燕」がいま九州新幹線で「つばめ」となって走っている、現代の風には逆らえぬ。《追い風(おいて)は帆に従え》じゃ。
 ブルトレ「はやぶさ」が消えたのは2009年3月。それから2年後に東北新幹線の新型車としての愛称復活なのである。歳月は人を待たず。時の進捗は速エー。
 そんなこんなと脳裏線路が過去現在未来を行き来するうちに蔵王連峰の真っ白な峰に迎えられて「はやぶさ」はあっという間に仙台着。大宮から1時間13分。速エーのなんの。
 その昔、昭和31(1956)年師走、カノジョと二人、急行「みちのく」(上野発9時50分・常磐線回り青森行き)で仙台へ旅したときは6時間、それでも「もう着いちゃったの……」と感じるくらい早かったのが懐かしや。また昔話、しかも自分噺になってはイカン……この辺で「めでたし、めでたし」とした方がE5ではない系。
 (2011年2月25日記)















試乗会参加者(敬称略)石神源助、笈川力三、大澤宏海・桂子、大豆生田明宏、岡本禮子、荻原正機、小澤耕一、柏靖博、河合恭平(代理)、隈部紀生、小清水忠、齋藤雅男、貞廣長昭、菅建彦、菅原順臣、関原誠一、曽我健、竹内哲夫、田沼純、辻勝、堤哲、中島啓雄、野沢太三、初田正俊、原田登志雄、平野雄司、二川和弘、古林肇道、増田浩三、三上栄太郎、三坂健康、水野弥彦、吉澤眞、島隆、十河光平、米山淳一、佐藤俊恵、新木利明、大野圭子、栗原稔枝▽日本交通協会=前田喜代治、斉藤彰、野中章▽交通協力会=高橋昭夫▽運輸調査局=福眞峰穂▽日本フレートライナー=高田岳

九州新幹線に試乗して 住田俊介 A班 

 九州新幹線の試乗会(2月24日)には、どうしても全線に乗りたいグループ(A班)と、博多―熊本往復組(B班)の2班に分かれて、計32人が参加した。A班は羽田空港から日航機で鹿児島に飛び、知覧観光のあと指宿に前泊しての1泊2日の旅。B班は鉄道マニアが多く、それぞれが博多までの行き帰りにも工夫を凝らしての旅だったらしい。報告をお読みください。














 2010年12月4日の東北新幹線の完成に続き、2011年3月12日、九州新幹線の鹿児島ルート(博多・鹿児島中央間、256・8㌔)が全線開通することとなった。これによって、本州の北から九州の南までが、1本のレールによって結ばれた。
 全線開通に先立ち、2月24日、九州新幹線に試乗した。前日、東京から鹿児島に向かう飛行機からは、霧島山の新燃岳や桜島の噴煙が立ち上っているのが見えた。この火の国に新幹線が一部開業したのは、2004年3月13日、新八代・鹿児島中央間(126・8㌔)であった。交通ペンクラブはこの時にも試乗したので、今回が2度目である。交通ペンクラブの曽我健代表以下24人が鹿児島から乗車(別途、福岡からは8人が乗車)した。
 当日、鹿児島中央駅に集合し、駅を9時41分に出発、博多に向かい、熊本駅、新鳥栖駅に停車の後、11時09分博多駅に到着した。列車に乗車したまま折り返し、11時24分に博多駅を出発、途中5駅に停車の後、13時12分、鹿児島中央駅に到着した。暖かい快晴の日で、新幹線の沿線の地形が短時間に地図どおりに変化していく様子が体験できた。雲仙の普賢岳からも噴煙(あるいは蒸気)が立ち上っているのが、はっきりと見えた。
 試乗した列車は、N700系新幹線電車をベースにした8両編成の列車で、新大阪・鹿児島中央間の運行用として製作された。この列車には、一部開業時の800系新幹線電車には設けられていなかったグリーン車が設けられ、また、800系の普通車の座席はすべて4列であったが、N700系の普通車のうち指定席は4列、自由席は5列となった。車内の手すりやテーブルなどには本物の木材が使われており、やすらぎや癒やしが得られることを目的としている。言わば、相互直通運転をする西日本旅客鉄道と九州旅客鉄道との中間のような仕様にされたように思う。乗り心地は、本州3社に運行されている列車とほとんど同じであるが、トンネル以外の明かり区間では、防音壁がやや多いように感じた。招待して下さった九州旅客鉄道に対し、謝意を表する。
(平成23年2月27日記、元国土交通省)


 参加者は次のとおり(敬称略)
 A班=石神源助、荻原正機、柏靖博、川野政史、隈部紀生、菅建彦、鈴木隆敏、住田俊介、曽我健、竹内哲夫、辻勝、堤哲、西田博、平野雄司、牧久、松浦和英、吉澤眞、十河光平、佐藤俊恵、栗原稔枝▽日本交通協会=高山順子、金澤洋子▽元NHK福岡放送局長、飯野毅紀・七生夫妻

博多⇔熊本往復記 諸岡達一 B班

 広く大きなキャンバスにぽたりぽたりと青絵具を落としたように、惜しげもなく豊かな色の濃さを見せ付ける筑後平野。遥か遠く丘陵がうねっている。車窓を大切に列車を旅する僕は、初めて乗る九州新幹線の新鮮な車窓を、見落としなきように見惚れていた。
 2011年3月12日のJRダイヤ改正に合わせて全通開業(博多←→鹿児島中央)、既にして多くの乗客の重宝を満たしている九州新幹線。便利さと車窓の美しさと、車内空間の心地よさは極上である。
 交通ペンクラブの試乗会B班は、2月24日(木)13時10分博多発「回送917号」、熊本駅往復の臨時ダイヤで実に気持ちのよい旅をさせていただいた。
 博多駅11番線に待っていたのは新しいN700系8000番台の列車。現在「みずほ」「さくら」として新大阪駅←→鹿児島中央駅を結ぶ山陽・九州新幹線直通用の8両編成。
 車内は「和のもてなしを意識した装い」。テーブルや窓枠も木材が使われている。ホテルや旅館の部屋に案内された瞬間「おー、いい部屋じゃん」と言う、あの感じである。贅沢に心穏やかに車窓が眺められそうな予感がするところが嬉しい。なるほど! 普通指定席のシートが「2+2」なのもいい。
     
          ■
 試乗車は左手に博多南の新幹線車両基地を見ると一気に加速する。福岡県と佐賀県の境に構える背振山地へ、35‰(パーミル)の勾配を、グイと腰のあたりに重力を感じるほどの力強さで登っていく。わずか3分で時速270㌔まで加速可能な動力性能を持つ新N700系車両は、九州新幹線で最長の筑紫トンネル(1万1935㍍)にスーッと入っていく。出たところが新鳥栖駅。鳥栖はすでに大量輸送の交通網「九州自動車道」「長崎道」「大分道」が交わっている。そこに九州の太い背骨が仕組まれたカタチだ。
 筑後川鉄橋を鹿児島本線と並んで渡ると久留米駅。筑後船小屋駅、新大牟田駅。この辺りの車窓が冒頭に記したように美しい筑後平野。右手にくっきり独立して見えてくるのが雲仙岳(1483㍍)。大空を屏風にして華麗に立つお雛様のような裾の広がりが燦然として目映い。するとまもなく新玉名駅を通過する。
 いい按配にのんびり車窓を眺めていると「……きょうの旅の意味はなんなんだろう。口は黙っているけれど脳がはしゃぎ過ぎだ……」。日本の居住空間的たたずまいの中で用事もなく列車耽溺できるのはこの世の極楽である。
 博多からたった33分、熊本駅に静かに滑り込んで、とりあえず終点。試運転列車だから鉄道用語で言うと「ドア扱いなし」、ホームに出たりはしない。豊かな座席にどっかりと座ったまま「レオ」(蛇足=列車折り返し)。
 内田百閒センセイが夜間寝台急行「筑紫」などに乗り東京から33時間がかりでやって来て、九州をあちこち旅する文学作品「第一、第二、第三阿房列車」。車窓をぼんやりと眺めながら『落ち着いて考えて見ると、全く何も用事がない。行く先はあるが、汽車が走って行くから、それに任しておけばいい。私が自分の足で走るのではないから、どこへ行くつもりでこの汽車に乗ったかと云うことを、忘れても構わない……』と、百閒センセイは、いい心持でぼんやりしながら『そうして、その事の味を味わう』とおっしゃっている。まったくである。この悟り切った心境たるや!
 それにしても、僕たちは熊本駅でホームにも出ないのはなにやら登楼せずに引き返す「素見」(ひやかし)みたいで妙な気持ちだったものの、取って返して博多へ向かう。今度は西側の座席に移って、来た時とは違った角度の車窓風景を堪能する。「乗り鉄」などと近ごろは言うそうだが、鉄道風景は何度同じ線に乗っても違うから面白い。それも同じ路線往復が最上である。西に見える山と東に見える山、街並みも、森も、鉄橋も、田畑も進行方向によってそれぞれ景色は別物なのだ。
     
 ■
 博多に戻る。早い。近い。今回の全通によってもたらす利便は底知れない。たとえ福岡ヤフードーム球場でプロ野球の試合終了が午後10時だとしても、最終の「みずほ」に乗れば鹿児島中央駅に23時46分に帰着できるから野球ファンも増大しそうだ。その逆で、九州の広島カープ・ファンも広島球場へは乗り換えナシで通える。
 ビジネスやレジャー観光分野で決定的なのは、岡山→鹿児島中央が2時間59分、広島→熊本が1時間37分、それ以前よりも52分~72分短縮してしまった。JR西日本とJR九州との友情開発の果実は甘く効果は大である。新N700系のボディーに描かれたロゴは両社が手を取り合う形になっていて印象的である。
 思えば九州新幹線の建設計画は1973(昭和48)年の「整備新幹線5線」モンダイから始まって、財政難、難工事、国鉄民営化、鹿児島ルートやら長崎ルートやらと、さまざまな障害を乗り越えての結実である。これはもう「九すれば通ず」というしかない。      (2011年2月28日記)