2009年11月1日日曜日

2010年 有楽町駅 開業100年

 有楽町駅が来年開業100年を迎える。「交通ペン」25周年記念号(2007年7月発行)に、元毎日新聞・諸岡達一会員の「有楽町界隈 新聞街のバラード」を掲載したが、改めて開業時を振り返ってみたい。

 有楽町停車場の開業は、1910(明治43)年6月25日だった。 
 「日本帝國鐵道史は今六月廿五日高架線鳥森有楽町(報知社裏)間の開通によって新に價値ある頁を加へた、新線路は短い、然し其長蛇の様な煉瓦壁上を轟ッと走る汽車の響は正に現代新文明が擧げた雄々しい勝鬨である」 
 これは「報知新聞」6月25日付1面の記事である。 
 1面の真ん中に山ノ手線々路図(上図)を載せ、東海道線新橋(現在の汐留貨物駅)―浜松町駅間から枝分かれして、烏森(現新橋駅)―有楽町まで延びたかを示している。 
 社会面には煉瓦アーチづくりの有楽町駅のイラストが載っている(左ページ)。通行人の服装を除けば、現在と全く変わっていないように思う。 
 新橋―上野間を高架鉄道で繋げて山手線を環状線として完成させること、その間に中央停車場(現東京駅)を建設することになり、ベルリンの高架鉄道にならって1900(明治33)年に着工した。日露戦争(04年開戦)のため工事は一時中断した。煉瓦を積み上げたアーチづくり。終点有楽町駅は、駅長室や事務室はアーチの下にあって面積約40坪(132平方㍍)。ホームは「梯子段を上った高い所にあって、濱松町のと同じ長さ三百尺である」。 
 実は、開業時のホームの原形が今も残っているのである。有楽町駅の1・2番線ホーム。京浜東北線の北行と、山手線の内回りホームだが、その5号車から9号車にあたる5両分、長さはちょうど100㍍。ここに12本の鉄桁がホームをまたいで渡してあるが、これが使い古しのレールなのである。現在のレールと比べるとかなり細い。明治5年の鉄道開業時に使われていたものではないか、と専門家は言っている。 
 有楽町駅も空襲で被害を受けた。1945(昭和20)年1月27日、疎開をするための乗車券を求める列に爆弾が落ち、客87人と駅員9人が死亡した。駅舎も燃えたはずである。しかし、ホームの鉄骨は残ったのだ。 
 報知新聞の社屋は、現在「ビックカメラ有楽町店」(読売会館)になっている。その通りを隔てて西側に、銀座から引っ越してきたのが「東京日日新聞」(現在の「毎日新聞」)。有楽町駅開業の前年、1909(明治42)年だった。1927(昭和2)年に朝日新聞が現在の「マリオン」のところにやってきて、「有楽町新聞街」が形成されたのである。 
 当時、報知新聞は首都3大紙の一つに数えられていた。あとの2紙は福沢諭吉の「時事新報」と徳富蘇峰の「国民新聞」である 。「読売新聞」に吸収された報知の題字は「スポーツ報知」 として残るが、残り2紙の題字は消えている。栄枯盛衰である。 
 さて、開業のにぎわいをもう少し追いたい。報知新聞の記事には〈千燭光の大アーク灯と数千の紅い提灯に火が入り「晝を欺く電飾」、「明煌々の本社裏」〉とある。    
 一番列車の模様は「東京日日新聞」が詳しい。「午前五時四十分有楽町発九十人乗りボーギー車を以て第一とし同車は運転手土棚倉蔵、車掌久保野久四郎にて十八哩八分なる線路を走りて上野停車場に向かひ以下十五分毎に発車して予定の如く終日七十三回運転したるが、是より先午前四時頃より第一号の乗車券を獲(え)んとして停車場前に詰懸けたる物好きも見受けたり」 
 いつの時代にも鉄ちゃんはいたのだ。上野まで18?余りは約30㌔の計算だが、大崎から渋谷・新宿・池袋・田端・上野だから間違いない。「烏森まで三銭、品川まで九銭で乗り試ししたり、二銭で入場券を買ってホームにあがるものあり」「八時から九時までの一時間に乗客三千二百人、降客三千人で、一車の定員九十人に百四十~五十人も押し込み、泣くやら怒鳴るやら、車中押潰さる程の満員なり」ともある。 
 もう一度「報知新聞」に戻る。中央停車場は3年内に完成とある。3階建て総坪数2900余。中央は皇室専用、南口は乗客、北口は降客専用で「本年秋ごろには現場の中空には鉄柱の聳ゆるを望み得る」としている。高架鉄道は工事費が高い。「銅貨を積んだ一大長壁」とも解説している。これまでに使った資材は3500万個以上、松材3万本、石材10万切で、工事費はすでに5百万円以上かかっている。用地費を合わせ高架線1尺をつくる費用が400円から420円、1寸が60円と計算している。 
 この批判に対し、野村龍太郎鉄道院技監・副総裁代理の談話が載っている。「交通機関の発達につれて高架鉄道の要求されるのは自然の勢いである」「(高架線が)上野迄達すると幹線の連絡が出来、交通上非常に便利となる。其時、中央停車場は市街の中心点となって高架線は実際の活用をなし、交通機関は一段の完成を告げる次第である」 
 中央停車場の開業が1914(大正3)年。その先、神田―秋葉原―御徒町が完成して山手線がぐるり1周の環状運転を始めたのは1925(大正14)年11月だった。「それまでは東京駅から上野駅へ行く交通手段は市電の乗り継ぎしかなかった」と諸岡原稿にある。          (編集部)