2009年11月1日日曜日

十河信二さんの思い出 故高橋久雄氏の寄稿から

 9月23日に亡くなった高橋久雄氏(元東京新聞社会部長)は、交通ペンクラブ創設からの会員で、東海道新幹線をつくった十河信二国鉄総裁の最後の記者会見に出ている。その模様を「交通ペン」創刊号(82年1月22日)と『十河信二(別冊)』(88年6月刊、十河信二傳刊行会)に書き残している。東海道新幹線0系車両が鉄道博物館で公開されたこともあり、一部を再録した。

 「老兵の消えてあとなき夏野かな」 
 これはさる(昭和)三十八年五月十七日午後、総裁最後の記者会見で国鉄を去る心境を問われた十河さんが披露した一句である。ちょっと寂びし過ぎるかな、ともう一句「二万㌔、鉄路伝いに春の雷」と詠んでみせたが、これはかなり以前の作ではないか。俗の俗の私には、俳句の出来栄えなぞ到底分からぬが、「老兵の消えて……」にはズキン、と胸を刺された。 
 十河さんはこの一カ月ほど前からカゼをこじらせて休んでいた。アレルギーと下痢に悩まされたというが、お別れ会見に顔を見せた十河さんにはさすがにやつれが目立った。私はこの時ほど十河さんに老いを感じたことはない。 
 十河さんは療養中、職務を果たせず申し訳ないと当時の綾部健太郎運輸相に電話で詫びている。これがスッパ抜かれると、世間では任期切れを前にした辞意表明と受け取られ、退陣のうわさだけが一人歩きを始めた。そして休養中から早々と後任総裁の下馬評へと発展してゆく。 
 二期八年の総裁の座を下りて国鉄本社玄関を離れたのは、会見から二日後の十九日夕刻近かったが、新聞が長い間「夢の超特急」と呼んだ東海道新幹線の開業は五カ月後に迫っていた。せめてテープカットまで再任を、との一部の声は膨らむこともなく、大海にのまれてしまった。総裁在任中、〝国鉄は私の恋人〟といってはばからなかった十河さんにとって「老兵の消えて……」は無念の一句だろう。 
 あのチョビひげにチョボぐち、拡大鏡のように強いメガネの奥の閉じかかった眼、ぼう洋とした十河さんの面影をたどると、いつもこのお別れ会見のシーンが鮮明によみがえってきて、心が重くなる。 
 心の重い思い出はもうひとつある。それから三カ月たった八月二十四日朝、国鉄は新幹線の開業に備えて東京―新大阪間に営業ダイヤによる初の試運転列車を走らせた。招かれた十河さんは車中で記者団から感想を求められると、「遠足に出かける小学生みたいだねェ」とポツリ口を開いて笑いかけた。しかし笑いにはならなかった。 
 やがて列車がスピードをあげると、記者の輪ができたのは後任総裁の石田礼助さんだけで、十河さんはただ一人、ぼんやり窓外をみつめていた。いったい、どんな感慨なのだろう。飛んでゆく田園風景と、開業を待たず追われるように引退した十河さんの胸の内がオーバーラップして、いいようのない寂しさに打たれた。(中略) 
 東京駅新幹線ホームに十河さんのレリーフが飾られたいきさつを私はよく知らない。しかし開業以来無事故の新幹線発着を見守るレリーフの表情は、開業を一日千秋の思いで待っていた総裁時代と少しも変わらぬではないか。レリーフに見入ると、いつもそんな感慨にひたっている。                           (『十河信二(別冊)』)      
◇ 高橋さんは十河さんの「千駄ヶ谷のマンションはいつもフリーパスだった」と夜討ち取材の思い出や、国鉄の広報体制を確立したのは十河さんだったことも書いている。「交通ペン」には「私の手もとには為書きしてもらった十河さんの書が二つある」とも記している。レリーフは国鉄百年を記念して、1972年10月14日建立された。