2010年5月1日土曜日

石油に浮かぶ国UAEに行ってきた

エティハド航空成田1番期機に乗って  吉澤 眞


 4月からアラブ首長国連邦(UAE)アブダビ、ドバイと成田間の直行便運航がはじまった。所要時間は約9時間。アラビア半島湾岸地域は日本にとって、かつてないほど近いものになった。 
 「エティハド就航記念一番機に乗りませんか? ドバイのタワーにも昇りましょう」。こんな楽しいお誘いを下さったのは日本アラブ協会である。 
 昨秋亡くなった夫・吉澤昇が20年ほど前から中東問題を研究していたご縁であったが、タワーと聞いたらうれしくて一も二もなく手を挙げた。 
 UAEとはザ・ユナイテッド・アラブ・エミレーツの略である。 
 国土全体の広さは北海道ほどしかないが、「アブダビ」「ドバイ」「シャルジャ」「フジャイラ」「アジマン」「ウム・アル・カイワイン」「ラス・アル・ハイマ」の七カ国による連邦制で、中心になっているのは首長が大統領を務め、首都を持つアブダビである。 
 アブダビはアラビア語で「カモシカ(ガゼル)の父」という意味だが、国土面積は87%、人口33%、経済力(GDP)55%、原油埋蔵量もトップで石油生産量は85%を占めるという。 
 とかくドバイの派手な面に目がいくが、面積はわずか5%、アラビア語でドバイは「イナゴ」である。エティハド航空はアブダビの、エミレーツ航空はドバイのナショナルフラッグというわけだ。これにカタール航空を加え、3社が日本に乗り入れている。

メトロもモノレールも日本製

 70年前までの漁村が驚愕の変貌
 
 アラブ人は体格が良く、身長があり太っている。そのためか、機内の座席はゆったりとしている。上級クラスになれば全員横になって休める。 
 機内食は和風もあるが、やはりアラブの味付けが美味。アナウンスはアラビア語、英語、マレー語、日本語、ヒンドゥ語、北京経由では中国語も加わる。 
 出発時にはコーランがとなえられる。ドリンクメニューはワイン、ビールはもちろん、スピリッツとしてバランタインズ、ゴードンズ、バカルディ、リキュールもコアントロー、ベイリーズなど豊富にそろえている。       
                       
                       ◇   ◇ 
 
 ドバイの危機が言われているが、長兄格のアブダビがドバイを支えている。 
 アブダビの王家はしっかりした運営をしていて、年間産油量が増大して収入が増えると、基本的なインフラ――道路、港湾、空港、通信、公共的建物を建設・整備した。 
 よい例が今年1月に完成した世界一高いドバイのタワーである。 
 地上828㍍のタワーはドバイの誇りであるが、工事中に資金不足になり、労働者のストライキもあったようだ。これをさっと支払ったのがアブダビで、タワーの名称は「バージュ・ハリファ」アブダビのハリファ王の塔と呼ばれることになった。 
 大勢の人が一気につめかけて、エレベーターは不調になったらしい。現在は日本企業も入って内部工事のためにエレベーターを動かしているという。    
                    ◇   ◇ 
 
 アブダビ空港を出ると、幅広い道路が真っ直ぐに伸びている。車は高速で160㌔から130㌔で走る。  
 ドバイ市内に入ると、道路わきに無人運転のドバイメトロの高架線が目に入る。 
 日本企業が作ったもので全長50㌔。将来、路線は伸びる計画である。これも初めての鉄道に家族連れがワーッと集まって満員ラッシュになったという。ドバイの人は楽しみの対象として鉄道から景色を見るつもりだったのだろう。 
 始発駅まで車で行き、降りてすぐ勤め先があるならよいが、その先はタクシーというのは面倒と、利用者はまだ限られている。 
 海を埋めたてた椰子の木型別荘地パーム・ジュメイラの幹の部分を走る無人モノレールも同様に「ゆりかもめ」の技術による日本製だが、乗車している人は少ない。 
 車の渋滞に悩んでいる現状を打開するために、7カ国を結ぶ鉄道を発注するという噂がある。     
                     ◇   ◇ 
 
 それにしても、70年ほど前までは漁村だったアブダビ、ドバイが最先端の近代都市となり、世界の建築家が競ってすばらしいデザインの高層ビルを建て、豪華絢爛のアラブの美術の枠を極めたモスク、夢のような贅沢なホテルが林立するさまは驚嘆するほかはない。 
 ドバイはフリーゾーンを設けて税を免除し、自由貿易と投資を盛んにし、上質なブランド品を世界に売り出してきた。いまこの国には6000社の企業が集中し、アブダビはパリのルーブル美術館やニューヨークのグッゲンハイム美術館の分館も招く計画があるという。 
 大人のためのディズニーランドのようなドバイの人口は、自国民が10~15%で、あとはインドなど他国からきた働き手が占める。こんな人口構成は日本人に受け入れられるだろうか。 
 昔ながらの庶民のスーク(市場)もいたって健在。大型商業施設モールには、さまざまな国の人が買物に来ている。 テロの話は聞かない。〝幸福のアラビア〟という言葉はまだ実在している。     
                   
                   ◇   ◇ 
 
 ドバイの発展は果たして終わったのだろうか。 
 オフィスビルの一等地にも空室ができて不動産は値段が下がり、ホテル代も安くなった。 
 モノレールやメトロも日本企業への支払いが止まってしまったが、契約通り工事を完成させた日本は改めて信頼されたそうだ。 
 ドバイの人々はアブダビが救ってくれると信じているようだが――。 
 気温35度という暑さだが砂漠の風はさわやかで、アラビア湾の空も海も美しい。 
 日本はこの王様たちの国から85%の石油を得て成り立っている。仕事をしようと思ったら何よりも人対人の信用と友情が大事だと、大手石油会社の幹部が語ってくれた。 
 交通ペンクラブの皆様、一緒に行ってみませんか?          
                                 (元交通新聞)

UAE点描





















「山中で小野田少尉の靴、発見!」

 それは私のボロ靴だった    牧 久(元日経新聞)


 第一報は厚生省援護局からだった。昭和47年10月20日朝。「フィリピン・ルバング島で19日朝、警官が元日本兵らしい2人を発見。撃ち合いになり1人を射殺、他の1人は負傷して山中に逃げた。和歌山出身の小野田寛郎元少尉と東京・八王子出身の小塚金七元一等兵らしい」。 
 終戦から27年もたって、まだ戦い続けている日本兵がいたのだ。私は当時、社会部遊軍のサブキャップ。夕刊の企画原稿を書きながら「現地に生かせてくれ」と何度もデスクに〝陳情〟した。編集局幹部のOKが出たのは同日夜。社会部の現場取材用リュックに妻に届けさせた下着を詰め込むと、翌朝マニラ行きのNW機に乗った。リュックには非常用の食料や寝袋、懐中電灯、水害用の長靴などが入っている。2、3日の野宿もできる。 
 現場取材の成否は出足で決まる。1日遅れの出発に私は焦りを感じていた。フィリピンはマルコス政権下、戒厳令が敷かれている時代だった。マニラ到着は土曜日の午後。ルバング島はマニラの南160㌔、南シナ海に浮かぶ孤島である。島には空軍基地が置かれ、チャーター機で着陸するには空軍司令官のサイン入りIDカードが必要になる。すぐにマラカニアン宮殿に駆けつけたが、IDカードの発行は月曜日の午後になるという。丸1日を棒に振ることになる。 
  
  プレスアーミー 
 
 空がだめなら、海を渡るしかない。マニラから車で2時間。バタンガスまで行けば「スピード・ボート」があるという。翌朝4時、外出禁止令が解けるのを待ってタクシーを走らせた。それは漁業用の小さなエンジン付バンカだった。「波も荒く危険だ」としり込みする漁師に現金を見せて無理やり頼み込み、約6時間かけてルバング島へ。マニラを発つ前、「許可なしで島に渡る。島から送稿手段はない。当面は連絡を絶つ」と電話した。島に上陸して舟を返せばマニラに戻る手段もない。単身、島に渡れば、本社も応援要員を出すだろう、との読みもあった。 
 ルバング島に着くと、砂浜に銃を手に警官が待ち構えていた。「お前も日本のプレスアーミーか」。簡単な事情聴取が終わると、苦笑いしながら日本救出派遣団のベースキャンプまで同行してくれた。柏井秋久団長ら派遣団はその日から数班に分かれてジャングルに入り、小野田さんの捜索をするという。私は柏井団長に捜索隊に同行させてくれるよう頼みこんだ。1日遅れのルバング到着で、宿泊できる民家はすべて他社に押さえられている。東京から応援が来ない限りマニラに戻る手段もない。海水を浴びた服装のままの私に同情をしてくれたのか、捜索隊8人の中に私も加えてくれることになったのである。 
 夕方、比空軍のヘリでベースキャンプから南西約8㌔、小高い丘の「小野田作戦Aポイント」と名付けられた地点に飛んだ。小野田さんが射撃戦をして逃亡した地点から直線で約1㌔のジャングルの中。小野田さんの兄、敏郎さんも一緒である。 
 私たちは丘の中央に日の丸を立て、手分けして枯れ木を集めた。かん木を掻き分けて沢に下り、水をくんだ。夕日が沈むと枯れ木に火をつけた。交代で携帯マイクを握り、ジャングルに向かって呼びかけることになった。まず兄の敏郎さん。「兄さんだ。寛郎、聞こえるか」と切々と訴える。敏郎さんは思い出したように小野田さんが好きだったという詩吟を詠じた。 
 私の番が回ってきた。「小野田さん、日本経済新聞の牧です。太平洋戦争は終わりました」。話し始めた途端、柏井団長から待ったがかかった。「小野田さんは日本経済新聞を知らないのではないか。彼が戦ってきたのは太平洋戦争ではない。大東亜戦争ですよ」。昭和16年生まれの私は、終戦時4歳。小学校の時から「太平洋戦争」と教わってきた。戦前の日経は「中外商業新報」だった。私はジャングルに向かって「お詫びと訂正」をした。そして、戦後の日本は高度成長を経て経済大国となり、東京・大阪間には東海道新幹線が開通、3時間で結ばれていることなどを大声で話した。 
 
  声を合わせて「炭坑節」 
 
 一順すると、古い歌を1曲ずつ歌うことになった。私は音痴な上に、戦前の歌も知らない。思いついたのは「炭坑節」だった。その夜は満月。山の端に大きな月が輝いていた。歌い始めたが、音程はずれに同情してくれたのか、全員が手拍子を打ちながら、声を合わせてくれたのである。「炭坑節」は満月が照らすジャングルに吸い込まれていった。 
 翌日昼過ぎ、私は柏井団長にベースキャンプに戻りたいと申し出た。連絡を絶ったままの私を本社は心配しているだろう。なんとか東京と連絡を取らねばならない。だが、ベースキャンプまで、1人で歩いて山を降りなければ、捜索隊に迷惑をかける。柏井団長は連絡役という名目で若い現地人ガイドを私につけてくれた。道もないジャングルを約8㌔、4時間ほどかけてベースキャンプにたどり着く。東京から応援に来た吉野光久記者が心配そうに待っていた。彼は私のIDカードも取得してくれていた。 
 
  恥ずかしながらの〝自供〟 
 
 その直後のことである。比空軍の捜索隊から「小野田少尉の靴、発見」という無線連絡が日本派遣団本部に入る。空軍はヘリでその靴を運んでくるという。脱ぎ捨てた靴の近くには、新しい脱糞もあり、その周辺に小野田さんがいると見て、捜索範囲を狭めている、というのである。間もなく靴と糞がビニール袋で運ばれてきた。カメラマンが一斉にシャッターを切る。 
 発表を聞くと、発見場所は私が下山してきた道筋ではないか。下山途中、東京から履いてきた古めかしい靴の底が抜け、歩けなくなった。靴は海水も吸い込んでおり、確かにボロボロだった。リュックの中に長靴が入っていたことを思い出し履き替えた。その時、便意を催し、ブッシュの陰で脱糞した。恥ずかしながら、私は会見後、その事実を〝自供〟せざるを得なかった。だが、数社のカメラマンはすでにチャーター機でマニラへ。翌朝の数紙に「小野田さんの靴、発見?」が写真付で掲載されてしまったのである。 
 
 ベトナム空爆を誤解か? 
 
 それから約1カ月、吉野記者と私は交代でルバング島へチャーター機で飛び、野宿することになった。救出派遣団は小野田さんの生活の痕跡さえ発見できない。陸軍中野学校出身の「残置諜者」は島の隅々まで知り尽くしていた。私は、島の木陰で青い空を見上げているうちに、小野田さんは当分、出て来ないだろう、と思い始めた。沖縄の基地を飛び立った米軍のB52爆撃機が毎日、定期的に南シナ海を南下していく。ベトナム戦争が最も激化していたころである。小野田さんはベトナム戦争を知らないはずだ。米軍は仏領インドシナや蘭領インドネシアに侵攻した日本軍と戦っている、と思っているに違いない。 
 こんな結論を出すと、年末まで捜索を続けるという派遣団を後に、私たちはルバング島を引き揚げた。小野田さんが24歳の日本人青年と遭遇し、生還するのは1年半後の昭和49年3月のことである。小野田さんは帰国後、戦争がまだ続いている、と思った根拠の一つとして、次のように書いている。  
 「朝6時と夕方6時、定期便のような米軍の飛行が目撃された。どうやらルバング島のレーダーサイトをチェックポイントとして飛んでいる。方角、時間から計算して仏印だ。米軍がこれほどの戦力を投入するのは、仏印方面で日本軍が再度、猛反撃に出たのだ、と私は確信した」(『たった一人の30年戦争』)。出足は遅れたが、引き際の判断は隠れた特ダネだった、と思っている。40年近くも昔の話である。  (「日本記者クラブ会報」から転載)

JR東北新幹線新青森駅

開業準備 急ピッチ

 JR東北新幹線青森開業が12月に迫って、開業準備が急ピッチだ。すでに新青森駅はほぼ完成し、連絡通路は一般に開放されている。八戸ー新青森間では試運転が始まる。開業は「12月5日が有力」と地元紙が報じていた。

クリエイション大賞


 JR東日本が日本ファッション協会の日本クリエイション大賞2009で経営環境賞に輝き、清野智社長が3月16日、明治記念館で行われた表彰式でトロフィーを受けた。 
 授賞理由は08年にCO排出を90年度比で24%削減した環境創造戦略。火力発電所の燃料をLNGに切り替え、省エネ車両を導入した。清野社長は「小海線にハイブリットカーの導入、鉄道林に28万本の植樹、太陽光発電などで17年度に90年度比32%削減、30年度50%削減を目指す」とあいさつした。

トップ賞

 瓔珞の光芒海の夏没日   留峰 
 
 「生誕120年 小野竹喬展」(3月2日~4月11日、東京国立近代美術館)で行われた俳句コンテストで、交通ペンクラブ会員の小澤耕一さん=写真=が最優秀賞に選ばれた。 
 国鉄OB会で同展を鑑賞。その絵「奥の細道句抄絵 暑き日を海に入れたり最上川」を見た時、北大予科生時代に愛唱した寮歌「瓔珞みがく」(大正9年)の「瓔珞」(ようらく)が口をついで出て、この句がすらすらとできました。寮歌に感謝々々です、と小澤さん。寮歌の一番を紹介してくれた。
 
   瓔珞みがく石狩の 
   源遠く訪ひくれば 
   原始の森は闇くして 
   雪解の泉玉と湧く
 
 主催の毎日新聞社からの賞品は、竹喬の絵をプリントした黒地の布製バッグと絵はがき5枚、それに入場券1枚だったが、小澤さんは「小生の俳句をあまり評価しなかった家内の開眼に大いに効果がありました」。

開業100年

 JR有楽町駅が6月25日、開業100年を迎える。1910(明治43)年には花電車を走らせて開通を祝った。お隣の東京駅は1914(大正3)年開業だから4年早い。一番電車は午前5時40分、有楽町駅を出発して新橋―品川―目黒―新宿―池袋―田端―終着上野へ向かった。 
 15分ごとに発車、終日73回運転したと新聞記事にある。

地下鉄世界一も上海

 上海の地下鉄が4月10日に新路線を開業。総延長が420㌔となってロンドンの地下鉄402㌔を抜いて世界最長となった。東京は東京メトロと都営地下鉄合わせて304㌔。

出版

 元日本トラスト事務局長で交通ペンクラブ会員の米山淳一さんが『歩きたい歴史の町並―「重要伝統的建造物群保存地区」全86カ所』(写真、JTBパブリッシング、1700円)を出版した。            

偲ぶ会


 交通ペンクラブ発足時からの会員、元産経新聞の山本雄二郎氏がことし1月1日逝去(享年79)。そのお別れ会が3月15日、東京プリンスホテルで700人が参加して開かれた=写真。 
 成田国際空港会社(NAA)元社長の黒野匡彦氏は「先生のおかげで空港と地域がようやく握手できる時を迎えた。それぞれの人の胸に先生は生き続ける」と語りかけた。

移転

 日本フレートライナー㈱は5月1日
  〒140―0003 東京都品川区八潮3―3―22、JR貨物東京ターミナル駅本屋5階に移転。
   電話03―3799―6721

例会

◇第213回例会=6月18日(金) 正午~午後1時半、
 
 「昭和の作庭家・重森三玲の京都の庭」。 講師・重森貝崙氏。