2008年11月26日水曜日

「交通新大陸」の幕開け 2025年中央リニア新幹線開業



葛西JR東海会長が例会で講演


 「採算プロジェクトです」。JR東海の葛西敬之代表取締役会長は、交通ペンクラブの第201回例会(9月19日)で、時速500㌔のリニアモーターカー(超電導磁気浮上式鉄道)を東海道新幹線バイパス計画で実用化することについて、極めて冷静にこう話した。2025年度中に開業予定の東京―名古屋間。その建設費は5兆1000億円にのぼるが、開業当初に経常利益700億円を見込み、「インフラ部分の投資を運賃収入で回収できる」夢の計画の実現というのである。
 JR東海のことしの仕事始めで、葛西会長は「交通新大陸」という言葉を使って、この大事業に取り組む姿勢を社員に訴えた。19世紀に生まれた鉄道が進化して、21世紀の今、時速300~350㌔の高速鉄道時代を迎えている。
 東海道新幹線のバイパスとなる中央新幹線は、レールの上を車輪で走行する「鉄道」ではなく、超電導磁石で車体を10㌢浮かして時速500㌔で走る、世界初の新技術である。これを「交通新大陸」と表現したのである。
 国家的プロジェクトを民間企業が実施する大事業である。例会での葛西会長の講演は1時間と短いものだったが、司会をしていた私は「リニア実現」を確信して、講演終了のあいさつで「あと17年。2025年まで長生きして、一番列車に乗りましょう」と叫んでしまった。
 (交通ペンクラブ事務局長・堤 哲)

時速500キロ、東京―名古屋40分


 
 リニア新幹線によほど関心が高かったのか、この日の例会は270人と過去最高の聴衆を集めた。例会は、正午からカレーライスの昼食をともにして、午後零 時半から1時間講演を聞く、というのが決められたスタイルだが、それでは会場の日本交通協会大会議室に収容しきれない。そこでテーブルを1部はずして昼食 は150人に限り、あとは椅子を並べた。昼食があたらなかった人たちに、改めてこの場を借りてお詫び申し上げます。
 演題は「東海道新幹線バイパス計画について」と控え目だったが、すでに山梨の実験線18・4㌔を42・8㌔に延伸する工事が始まっている。工事費は3550億円。
 「これが出来上がると、東京―名古屋間290㌔の7分の1が完成したことになります。コイルも取り替えて、すべてが実用化仕様になります。ここで実験しながら東西に延ばしていけばいいんです」
 東京方は品川駅につなげる方向のようだ。
 東京―名古屋―大阪間430㌔。現在の東海道新幹線は東京―新大阪間515㌔だが、直線ルートを走るので短縮される。両端の都市部は大深度地下、中部山岳地帯はトンネルで抜いて、路線の8割はトンネルとなる。「用地買収はできるだけ少なくしたいのです」
 列車は16両編成で、座席は約1000。最新のN700が1323席だから、そう変わらない。1時間に片道10本、往復で2万座席を供給する能力を持つことを技術開発目標としている。
  時間短縮効果―。東京―名古屋間の所要時分は40分。55分の短縮となる。東京―大阪間は15分の乗り換え時間を含めて1時間40分。現在の東京―名古屋 とほぼ同じ所要時間に短縮される。東京―岡山、東京―広島間も40分短縮されるから、東京から広島までは完全に鉄道の輸送分野になる。ちなみに最新の統計 では、東京―岡山間の鉄道と航空機の比率は72対28、東京―広島間は56対44となっている。
 と同時に東海道新幹線は「ひかり」中心のダイヤ編成になるため、中間駅の豊橋、浜松、静岡各駅から東京、大阪への列車が飛躍的に便利になる。むろん時間距離も大幅に短縮される。
  総投資額は5兆1000億円。これから17年間、単純平均で毎年3000億円。開業次年度2026年度の経常利益を700億円見込んでいる。葛西会長は 「東京―大阪間は、世界で最もユニークな大量、均質の輸送流動があるところ」と説明する。東京―大阪は運河で、その数は東京方で1日28万人、大阪方で 19万人。東北・上越、北陸新幹線は川の流れが大宮で集まるが、それでも1日20万人しかない。ちなみにフランスのTGVのパリ―リヨン間は11万 8000人に過ぎない。
 長期債務の残高は、開業予定の2025年度に4兆9000億円までに膨れ上がる。現在の債務水準に戻るのは、開業8年 目。もっともJR東海の長期債務の残高が最も多かった1991年度は5兆4000億円もあった。一方、経常利益は2026年度から35年度までの10年間 の平均で年1400億円を見込んでいる。

 
 
 全列車の最高時速が270㌔化されたのは2003年10月の品川駅が開業したのに伴ってだが、同時に 1時間にのぞみ7本、ひかり、こだま各2本の運転体制が確立した。品川駅建設の投資額は1000億円。品川開業により乗客は東京、品川両駅で1日計2万人 増えた。1年間でざっと500億円の増収となり、建設費を2年で全面回収したことになる。鉄道の利便性が増し、東京―大阪間のシェアは新幹線82対航空機 18だ。
 「CO2の排出量は20%が運輸部門といわれる。地球環境の点からもリニアの導入は有効だ。鉄道は19世紀から2世紀にわたって進化を続けてきたが、21世紀はリニアが経済発展の引き金になるのではないか」と葛西会長は締めくくった。

山之内秀一郎さんを偲ぶ(1)


 JR東日本会長、宇宙航空研究開発機構(JAXA)理事長などを務めた山之内秀一郎氏(2008年8月8日逝去、75歳)のお別れの会が10月6日、東京千代田区紀尾井町のホテルニューオータニで開かれ、約1500人が祭壇に献花をした=写真。
 山秀さんは、国鉄運転屋のスポークスマンとして「ときわクラブ」と付き合いが深く、交通ペンクラブは特別会員として遇していた。例会の講師として何回か演壇に立っていただいたうえ、会報「交通ペン」の21世紀最初の64号では当時の宇宙開発事業団の理事長としてフロントページをつぶして、宇宙にかける夢を話してくれた。
 昨年暮れの「忘年交通ペンサロン」にフラリと現れた。ことし7月18日の第200回例会は最前列で毎日新聞・岸井成格氏の講演を聞き、終了後は控室で岸井氏らと談笑していた。顔色もよく、元気に見えた。それから3週間後に亡くなるなんて、信じられない気持ちだ。

山之内秀一郎さんを偲ぶ(2)


虹の橋を渡った山之内秀一郎さん

吉澤 眞
 「ここに来るよ」と山秀さんは私の目の前の席にどかんと座った。
 7月18日、日本交通協会、交通協力会、交通ペンクラブ共催の講演会場は「ねじれ国会と福田政権」をテーマに毎日新聞社特別編集委員、岸井成格氏を迎え、会場は満員だった。
 ふらりと現れた山秀さんのところにはあいさつに見える方も多かった。
 私は隣にいたロバートソン黎子夫人を紹介し「山之内さん、名刺ある?」と催促すると、ポケットから引っ張り出して渡してくれた。
 終了後も控室で岸井さんと一緒に山秀さんは元気に話をしていた。同席していたのはペンクラブ代表幹事の曽我健さん(元NHK)、堤哲さん(元毎日新聞)、交通協会の三坂健康会長、前田喜代治理事長、秋山光文協力会会長ら10人ほどはいたかもしれない。
 環境問題で持論を展開し、山秀さんは帰っていった。
 次の週、集中治療室の重症患者となり、8月8日、帰らぬ人になろうとは――。
◇  ◇
 運命は「さよなら」の機会を与えてくれる。
 昨年12月、忘年ペンサロン(4木会)に突然山秀さんが出席してくれた。
 「やっと少しはヒマなご隠居になったのね」とメンバーは喜んだ。
 そこに年末のあいさつを兼ね、JR西日本の山崎正夫社長がみえた。
 とたんに山秀さんは山崎社長を指差して「何だお前は、駄目じゃないかァ」と大声を出した。事故のことであろう。
 JR西日本の幹部が事故の後の対策にいたましいほど努力をしているときにこの一喝である。
 サロンはお酒がまわってそれぞれ勝手な話をしていたので、運転屋の先輩、後輩の学生時代のような一幕は気がつかなかった人もいたと思う。
 一本気な坊ちゃん気質。傍若無人である。
 「山之内さんの最近の随筆はすばらしい」と話題をかえた。「ホント? お世辞?」という
 文章は誰でもそれなりに書けるものだが、山秀さんのこのころの「世界鉄道めぐり」など短いエッセーは絶品といってよい。
 ユニークな視点、文章のリズムと音楽性、的確な表現の背景にある歴史・文化への深い教養。ほめすぎかもしれないが、おいしいコーヒーのような満足感があるエッセーである。
 人生のゆとりが出来てこんな美しい文章が書けるのだ、いいな、羨ましいなと思っていた。
 ところが今年になってから急につまらなくなった。新聞記事か経過報告のように味気ない。何か体調が敏感に反映していたのだろうか。
◇    ◇
 平成14年3月に、やはり交通協会で山秀さんは宇宙開発公団理事長として「国産ロケットが拓く宇宙への夢」と題して講演したが、これから壇上にという直前、立ったまま「目まいがする」と呟いた。近くに控えていた私はメニエル氏病で目まいの経験があったので、冷い水を飲むようにすすめ「大丈夫」と背中をさすってあげた。
 映像をまじえた講演は興味深く成功に終わったが、このときロケットの仕事が山秀さんにとってかなりのストレスになっていることが想像できた。
 新幹線生みの親である島秀雄氏に次いで、鉄道界から二人目の理事長として迎えられた山秀さんである。
 反対の風圧に耐え〝レールを枕に討死する!〟という故十河信二国鉄総裁のもとで島さんが高速鉄道システムを完成させなければ、今日の鉄道経営の基盤はあり得なかった。
 国鉄の分割は列車運行上、大事故のもと、ダイヤも組めず運賃もバランスを欠くと猛反対を展開した民営化反対の意見を山秀さんは「従来もやってきたこと。何も問題ない」と言い切った。
 山秀さんの歴史的発言によって国鉄改革は一気に進むことになる。
 技術者として確固たる信念を貫いてきた2人の鉄道人を日本政府は宇宙開発の難題解決のために起用した。これは最高の栄誉であると同時に、苦痛に満ちた重責である。
 軌道に乗せる、という言葉があるが、島さんは第一段階の、山秀さんは第2段階の基礎づくりにあたった。
 島さんは日米間のあまりの技術格差に、昭和45年、ソーア・デルタロケットの大型第1段のライセンス生産にふみ切り、成功の糸口にする。
 「人間の行っていることは、すべて先人の経験の積み重ねの上に立っている。よく学び、自信を持って開発し、世界の人に報いるべきである」(『新幹線と宇宙開発』島秀雄著)
 山秀さんは関連3機関を統合した宇宙航空研究開発機構の初代理事を務めた。
 〝殿〟の愛称をたてまつられながら、先端技術者の組織集団立て直しに苦心した。
 H―Ⅱロケット6号機の打ち上げは失敗した。人工衛星も失敗した。
 このとき対策の一部として米国航空宇宙局(NASA)の元長官ゴールディン氏を長とした外部調査委員会を設けている。
 「よく学び」。島先輩の教えである。
 山秀さんの理事長室には、島さん時代に『十河信二伝』編集のため、私は何回も訪れていた。
 浜松町のビルを見上げて、国鉄入社時に故一條幸夫氏に可愛いがられて運転を勉強し、いまは島さんの跡継ぎとしてここに居る――どうしているのだろうと案じていた。
 私はロケット成功のための原因追求は、事故が絶対に許されない新幹線安全工学の手法がとられたと思う。
◇  ◇
 実は島さんは心筋梗塞で倒れ、死を覚悟して遺言を書いていた。
 財産のことなどではない。新幹線千人の乗客一人一人の安全を願っての遺書であった。
 山秀さん! あなたも心臓を病んでいたのですね。
 著書『新幹線がなかったら』。このタイトルの一語に、十河伝を手伝った私は心からありがとうと申し上げます。
 ほんとうは、東京駅18番線ホームの端にある誰も顧みない十河信二おじい様の碑のことを相談したかった。
 山秀さん! 早すぎました!
(元交通新聞)

山之内秀一郎さんを偲ぶ(3)

ヤマシュウさんとE電

松浦 和英
 「なに、これ、本気なの。あまりいただけないなあ」。思わずヤマシュウさん(と呼ばせてもらいます)に向かって言ってしまった。昭和62年5月13日、旧JR東日本本社(旧国鉄本館)で行われた記者会見でのことだった。
 JRが発足して首都圏の電車をどう呼ぶか論議になった。僕らにとっては懐かしい省線電車、のちの国電(酷電なんていわれたこともあった)に代わる愛称をつくろうという発想は、新生JRにとっては当然の流れだった。興味本位にいえば、国鉄時代、ヤマノテ線かヤマテ線か、アキハバラかアキバハラかで話題となって以来、久しぶりの呼称に関するニュースだった。
 公募の後の審査。作曲家・小林亜星さんらも加わっての選考結果を発表したのが、当時JR東の副社長だったヤマシュウさんだった。①民電②首都電③東鉄…⑦J電…⑨JR電などの上位を吹っ飛ばし、選ばれたのが20位のE電(イイ電)だった。確かに上位はぱっとしなかったかもしれないけど、20位のE電が躍り出るとは……。この間の説明をヤマシュウさんは一生懸命繰り返したが、われわれはそのころ、お笑い界ではやっていた(E)=カッコイイ=とか、E(イイ)○○などの言い方にあやかった軽薄な呼び名としか映らなかった。ヤマシュウさんは記者の不満そうな表情を憮然たる顔つきでにらんでいた。
 結局、E電はしばらくして沙汰やみとなった。ヤマシュウさんも後年、あれは失敗だったと認めているようだけど、首都圏の電車区間がこうも広がり、ゲタ電などとの区別もない現代にとっては、E電の呼び名は〝一場の夢〟だったのだろう。
 あの時のヤマシュウさんの姿は忘れがたいけど、いつものヤマシュウさんはユーモアがあり、音楽に造詣が深く、プライドを持った鉄道マンだった。だから後年、宇宙開発でも活躍できたのだと思う。
 マーさん(馬渡一眞氏)、ハシゲンさん(橋元雅司氏)、杉浦(喬也)さん……そしてヤマシュウさん。改革を経験した鉄道マンは次々に消えていくけど、列車は未来に向けて走っていく。決して休まずにだ。合掌。
(元産経新聞)

山之内秀一郎さんを偲ぶ(4)

さよなら ヤマシュウさん

大澤 宏海
 ときわクラブに在籍した際の30年前の国鉄は、運賃値上げと交通ストが年中行事化し、国民から悪評を買っていました。そんな中、運転局長だった山之内さんは特に在来線のスピードアップに熱心で、いろんな夢のある、明るい話題を提供してくれました。記者クラブでも〝ヤマシュウ〟さんの愛称で親しまれていたのを記憶しています。最初の印象は使命感の強い、最も元気のいい国鉄マンでした。
 再会したのは寝台特急カシオペアのデビューのときです。小樽までの試乗会に当時、JR担当の論説・解説委員の一員として参加させていただきましたが、地元の歓迎会で熱弁を振るっていた姿を拝見し、「ヤマシュウ健在なり」を再確認しました。
 ただ、山之内さんが宇宙開発事業団の理事長に就任されたときは驚きでしたが、期待もしました。私もロケット開発には少なからず関心を持っていたからです。20年前、南米の仏領ギアナにまで出掛け、日本で最初の商業衛星打ち上げを目にしました。しかし、日本の打ち上げ技術は欧米に遅れを取っており、国産の、しかも大型ロケットの打ち上げは長年の悲願でした。山之内さんの強いリーダーシップでH―Ⅱロケットもようやく軌道に乗り、宇宙開発もいよいよ新たな段階を迎えただけに、突然の訃報は残念でなりません。陸も空も駆け巡った〝ヤマシュウ〟さん。ご冥福をお祈りします。
(元時事通信)

山之内秀一郎さんを偲ぶ(5)

南房総 白浜海岸にて

辻 勝
 今から30年ほど前、私は当時国鉄の「ときわクラブ」にNHK記者として在籍していた。1979年の夏のことだったと思う。当時千葉県・白浜海岸に「南房荘」という国鉄の保養所があり、休暇をとって家族4人で出かけた。その時、海岸を散歩中の山之内ご夫妻とお会いした。ご夫妻は小学生の2人の子どもに、やさしく声をかけてくれた。
 海風が心地よく、砂浜に打ち寄せる波が夕日に染まっていた。波打ち際を歩き、岩に座って、海の遠くを眺めたりしてくつろいでいた山之内さんご夫妻の姿が非常に印象的で、今も「静止画」になって私の頭に強く残っている。夕食の時、賄いのおばさんが「これ、山之内さんからの差し入れです」と貝の造りを運んできてくれた。新鮮でぜい沢な造りに子どもたちも大喜びした。当時、山之内さんは、発表のために記者クラブに時々姿をみせ、私も難しい話を聞きに、時たま席にうかがう程度のお付き合いだった。
 JRから「EAST」という雑誌が送られてくる。私が最初にページを開くのは山之内さんの「世界鉄道めぐり」である。彼自身の写真をそえた散文的で、温もりのある文章。鉄道を基点に、その国やその土地の文化、芸術、歴史の中にどんどんでかけてゆく。もう一度、通しでじっくり読んでみたい。
 お別れ会の会場のボードに紹介されていた「妻とめぐりあった幸福インタビュー」(東京新聞)に山之内さんは次のように語っていた。
 「一番大事なのは家族なんですね。わが人生で一番恵まれたことは、今の家内に巡り会えたことです。仕事は『もうイヤだけど』生まれ変わるとしたら、ぜひ今のかみさんとまた出会いたいと思います。」
 南房総の海のご夫妻の「静止画」が重なり、胸が熱くなった。
 さようなら 山之内さん。
(元NHK)

山之内秀一郎さんを偲ぶ(6)

山之内さんからの手紙

 山之内さんの『JRはなぜ変われたか』(毎日新聞社)は、ことし2月20日に発行された。交通ペンクラブ会員の柳田眞司氏(昭和27年旧国鉄入社)は三軒茶屋の国鉄アパートで4年後輩の山之内さんと隣部屋に住んでいたことがあり、読後の感想を送ったところ、山之内さんから長文の礼状が届いた。その一部を紹介したい。

◇    ◇
 最大の出来事はやはり国鉄改革でありました。あの当時はかなり悩んだこともありましたが、何といいましても一国の総理が政策として打ち出した方向にゆくだろうと思いましたし、労働問題と財政問題の破局的状態から抜け出すためには組織を一度壊さなければ駄目だなと思い、その方向にスタンスを決めました。組合問題で別の道を行くのはつらい決断でしたが、所謂改革組と協調しておりましたので、その立場をひるがえすことは「男がすたる」と思いまして、分割民営化賛成の方向に立場を明確にしました。
 当初は分割民営化に反対すれば役員になれるが、賛成すると排除されると思いましたが、敢えて決断しました。その頃には民営分割が本当に実現し、現在のような順調な経営を実現できるとは夢にも思っておりませんでした。
 JR東日本が発足しました時には国鉄カルチャーをすべて変えようという思いと、事務系幹部支配と労働組合の抵抗のためにやりたくても出来なかったことをやってみようと思い、色々なことに手をつけてやや強引にプロジェクトを進めました。もう早いものでJR発足して二十年経ちましたので、その間の思いと思考過程を記録しておくことがJRの今後の経営に当たる方々にも何らかの形でお役に立つのではないか、自分として振り返ってまとめてみたいと思いまして本書をまとめてみました。(中略)
 何とか出来るうちにと思いまして、昨年は五回ヨーロッパに行きました。ウィーンのニューイヤーコンサート、プラハの春音楽祭、バイロイト音楽祭、ルツェルン音楽祭などに行ってきました。今年は出来ればザルツブルク音楽祭、ベルリン・フィルとベルリンオペラ、ペーザロ音楽祭などに行ってみたいと思っております。
 又お目にかかれる機会があると思いますが、とりあえず御丁寧な御手紙をいただいたことに心から御礼申し上げます。末筆になりますが御健勝をお祈りいたします。
      敬具

    3月3日                               山之内秀一郎

2008年10月9日木曜日

悲惨な状況を冷静に、正確に

柳井乃武夫さんが『万死に一生~第一期学徒出陣兵の手記』を出版

柳井乃武夫さん   


 『万死に一生~第一期学徒出陣兵の手記』(徳間文庫)は、東京帝大2年生だった柳井乃武夫さんが学徒出陣の第一陣として広島の「暁第6142部隊」に入隊するため昭和18年11月29日午後9時半東京駅発の臨時列車に乗り込むところから始まる。
 昭和19年1月14日、セブ島に上陸。軽便鉄道で20㌔ほど北のリロアンへ。第2中隊第2班に編入された。
 船内で発生したパラチフスが蔓延。柳井さんは幹部候補生試験に合格して将校教育のため内地帰還と思っていたが、紀元節の2月11日、40度を超す熱発。真性パラチフスと診断されて「万事休す。将校になることも、内地に帰ることもあきらめなければならない」。
 セブ市の入院先からリロアンに戻ったのが4月2日。一足早く退院した仲間が「甲種幹部候補生として勇躍内地に帰って行ったのはその数日前」。運命の別れ道だった。
 現地の情勢。「私たちは日本では大東亜共栄圏のことを聞かされていて、新聞を読んだ印象では、日本は各地の住民に喜んでもらっていると思っていた。アジア諸国民の幸福のために日本は米英と戦っているのだから、各国は喜んで協力していると想像していた。ところがセブへ来てみると、フィリピン人は日本軍を嫌い、憎悪すること甚だしく、とても喜ぶどころではないことがわかった」
 物資の調達、徴発が現地人の反感を買う。「補給不能のまま兵隊だけを戦地に送り出し、勝手に現地で自給しろという戦法だからこうなる。これでは皇軍も聖戦もなく、住民のうらみは買っても信頼を得ることは不可能だ」
 昭和19年9月12日、米軍機500機による空襲。7月にサイパン島の日本軍は全滅し、米空軍は8月にはサイパン、テニアン島をB29の発進基地としていた。「この空襲があってからは、わが部隊は出撃することとなり」、ポロ島(セブ島の東、レイテ島との間にある珊瑚礁の島)へ進出したが、戦闘どころか洞窟から洞窟への逃避生活を余儀なくされた。部隊は散り散りとなり、柳井さんらは「山の兵隊」になった。かつて日本軍の侵攻で島民は山に逃げてゲリラ化した。アイ・シャル・リターンで米軍が戻って、逆の立場に追い込まれたのだ。
 むろん20年8月15日の敗戦も知らない。至近距離から狙撃されたこともある。洞窟内にガソリンがまかれ、火炎放射機を浴びせられた。「万死に一生」の場面がいくつも出てくる。ハラハラドキドキである。
 最後にセブ島に逃げる。仲間は5人。丸腰だった。途中で船が転覆、三八式歩兵銃など所持品を一切失った。住民に見つかって銃撃される。2人が死体となって転がった。里芋の葉かげに伏せる柳井さん。少年に見つかった。銃を持って迫る少年。
 〈「射つな」と叫んで、私は芋畑から少年の前に飛びおりた。少年は震えて私を射たない。呆然としている。そこへ大勢の村民が銃を構えて戻って来て、私を取りかこみ…〉
 投降の場面である。収容所に入れられたのが昭和20年10月16日。〈私は10月18日だと思っていたが、陰暦で行動していたので、セブ島上陸後に勝手が違って2日の誤差が生じたのだろうか〉と柳井さん。12月6日浦賀に復員。頭の中で書いていた日記を「比島敗戦実記―山の兵隊」として大学ノートに記し終えたのが昭和21年1月20日。冷静な筆致、記憶の正確さに舌を巻く。
 作家の阿川弘之さんが推薦のことばで「初めのうちは古年兵のビンタに怯え、あとでは上陸米軍と現地民の追跡に怯え、山中にこもって毎日々々を何とかいきのびるだけの青春従軍記」、JR東日本元社長の住田正二相談役(柳井さんと東大同期)が解説で「大東亜戦争の最大の教訓は、二度とこのような悲惨な戦争をしてはならない、ということにつきる」と書いている。

時速350キロは「世界の常識」

続々誕生する高速鉄道



 北京五輪を前に8月1日北京―天津間120㌔に最高時速350㌔の高速鉄道が開通した。アジアでは日本、韓国KTXソウル―釜山間412㌔、台湾高鉄台北―高雄間345㌔に次いで4番目。1964(昭和39)年に開業した東海道新幹線の息子たちが世界中に続々誕生する勢いだ。
 海外鉄道技術協力協会の秋山芳弘技術本部部長によると、現在時速250㌔以上の高速鉄道を運行しているのは、ヨーロッパでフランス、イタリア、ドイツ、スペイン、ベルギー、イギリスの6カ国。オランダのアムステルダム―ロッテルダム―ベルギー国境120㌔が今年中に開業予定だ。ロンドンとパリ、ブリュッセル(ベルギー)間の高速列車「ユーロスター」をはじめEU諸国は高速鉄道で相互に結ばれるようになって、鉄道の利便性はますます上がっている。
 「鉄道の時代は終わった」どころか、「鉄道復権」の時代になっているのである。計画中を調べると、ロシアではモスクワ―サンクトペテルブルグ間650㌔、トルコではアンカラ―イスタンブール間576㌔。南米アルゼンチンのブエノスアイレス―コルドバ間710㌔と、アフリカ・モロッコのケニトラ―タンジール間200㌔の高速鉄道建設をフランスが受注した。
 このほかアジアではインド、ベトナム、インドネシア、中東のサウジアラビア、南米ブラジルはサッカーW杯が開催される2014年までにリオデジャネイロ―サンパウロ間に建設したいと国家プロジェクトで推進中だ。
 「フランスのTGVは東海道新幹線の息子で、イタリアのディレッティシマの従兄弟」といわれる。ヨーロッパの高速鉄道の最初は、イタリアのローマ―フィレンツェ間に建設された高速新線「ディレッティシマ」(イタリア語で「最も真っ直な」という意味)のうちローマからチタ・デラ・ピエーベまでが1977年2月に部分開業したのだ。TGVの部分開業より4年も早かった。
 スピードへの挑戦に一番熱心なのはフランス国鉄だ。2007年4月3日、TGVがパリ―ストラスブールを結ぶ新路線での試験走行で時速574・8㌔を記録、レール上を車輪で走る列車としては90年にTGVが達成した515・3㌔の世界最高速度の記録を17年ぶりに更新したと発表した。
 レール上を車輪で走る列車のスピードは、時速300~350㌔程度が限界で、それ以上のスピードを出すと車輪が空回りする(粘着力がゼロになる)といわれていたが、最高時速350㌔は「世界の常識」になりつつある。
 東海道新幹線は最高270㌔。カーブ(曲線半径)がきつく、線路はバラスト(小石)仕様なのでこれ以上のスピードアップは難しいといわれる。一番の自慢は開業以来、死亡事故ゼロを続けていることだ。そのあとに建設された山陽新幹線、東北・上越新幹線、長野新幹線、九州新幹線は300㌔走行も可能だ。
 71歳で国鉄総裁に就任して、周囲の猛反対をはねのけて東海道新幹線の建設に邁進した十河信二さん(81年没、97歳)の炯眼に感服するほかない。

Alishan Forest Railway, Déjà Vu Darjeeling Himalayan Railway

Thomas Robertson
 
シェイ式蒸気機関車の前で、ロバートソン夫妻と菅建彦さん

As the muscular little Alishan Forest Railway (AFR) train pulled into Taiwan’s Chiayi Station in November, it took on the dimensions of a Time Machine setting out on a sentimental journey into the remote colonial pasts of two countries. We had arrived from Taipei via the Taiwan Shinkansen, traveling up to 300 km/hour, and then on an enjoyable luxury bus passing by the Tropic of Cancer and on into the tropical zone. This contrasted sharply with my first trip to the Indian town of Siliguri, at the foothills of the Himalayan Mountain ranges, and the only approach to my high school, Mount Hermon School in Darjeeling. What should have been an easy express train trip from Calcutta (now Kolkata) with my younger brother and sister, took on the dimensions of a dangerous odyssey by jeep, Ganges River ferry, and hop scotching onto 13 trains of different gauges: broad, medium, and narrow. The British Raj had come to an end eight months before (in August 1947) and, as I heard on the radio, the violent partition of the subcontinent into India and Pakistan continued to bring massacres on the mainline express trains.
As I prepared to board the narrow-gauge AFR train drawn by a small diesel locomotive, I was informed about the Japanese colonial origin of the engineering feat that created it to bring down giant timber from the mountains above. The downed trees were replaced by Japanese Sugi, Cryptomeria japanica, which continued the supply of timber. This immediately conjured up the British colonial origin of the Darjeeling Himalayan Railway built to bring down tea that had been planted in the Darjeeling District. The DHR was designated a World Heritage Site in 1999. http://whc.unesco.org/en/list/944/video Deforestation of the region was followed by reforestation with Japanese Sugi. I recalled my first sight of the diminutive Darjeeling Himalayan Railroad (DHR) locomotive in Siliguri puffing clouds of coal smoke and steam. The passenger cars were full with people of different ethnicities easily distinguishable by their clothing and physiognomies: Bengalis, Nepalis, and a few Westerners, Bhutanese, and Tibetans. The locomotive rested on unusually narrow tracks, only 2 feet (61 centimeters) apart. I thought, can this toy train really take these overloaded cars up the steep grade to Darjeeling?
As we rode the AFR train for 3.5 hours from Chiayi to the 2,200 meter-high Alishan Station 71 kilometers away, I was struck by the remembered similarities of the houses and shops against the tracks, hard-working farmers, tea gardens, innumerable tall betel-nut trees, flaming-red poinsettia, shear precipices, and rail switch-backs, loops, tunnels, and bridges. The DHR trip took 8 hours to travel the 80 kilometers from Siliguri to Darjeeling, first through the Terai jungle of rich foliage and towering tropical forest hardwoods. This is the home of India’s exotic animals: The one-horned rhinoceros, leopards, tigers, elephants, peacocks, and many more. As we climbed higher the train had to stop and reverse a number of times through switchbacks that crossed over the track we had just passed to gain altitude on steep hillsides. At these times the wheels of the locomotive would spin out of control, but train crew members standing on the narrow front platform threw handfuls of sand on the track under the wheels to give traction. As we passed through villages and hamlets, stopping at intervals to take on water and sand, the forward train crew stayed on constant watch for children, animals, and vehicular traffic that might come to harm. For much of the way, the tracks ran parallel to and frequently crossed over an old road used for animal-drawn carts and motor vehicles that shared the right of way.
In similarities and contrasts with the AFR trip, the DHR train passed lovely waterfalls and intermittent opportunities to look down on meandering rivers in the increasingly distant plains below. The scene became dotted with purple bougainvillea, scarlet poinsettia, and then exotic shades of orchid. It was springtime and as we drew near to Darjeeling crimson red rhododendrons and pure white magnolias were blooming in profusion, as were 4,000 varieties of Darjeeling flowers yet to be seen. We reached the highest point (2,260 meters) in mist-shrouded Ghum where the long yearning sounds of Tibetan trumpets were carried from a Tibetan Buddhist monastery. From there the train moved around a double-loop spiral and down below the clouds to Darjeeling Town (2,100 meters), the City of the Sacred Thunderbolt. I was immediately struck by the towering 8,586 meter-tall massive presence of Mount Kanchenjunga with its five jagged peaks to the North and only 50 kilometers away as the crow flies. Snow-capped mountain ranges extended to the horizon on either side.

Sunrises

The early predawn ride on the AFR from Alishan to Jhushan Station with our friends and many tourists from near and far was to share the beautiful sunrise over the Alishan Mountain Range. Walking up the stone steps to the viewing area, I saw many vendors offering food, drink, and souvenirs to the bustling crowd waiting for the exactly forecasted main event. On schedule, golden rays shot out from the fiery glow that quickly became brighter and brighter, triggering the rise of mist and clouds from the valleys below. A thousand photographs later, we went back on the train and walked past Hinoki Cypress (Chamaecyparis) and Sugi Cryptomeria to breakfast and more adventure. This experience called back my memories of a 15-kilometer trek with my brother John and good friend Bob Forsgren through the wet monsoon darkness from Mount Hermon School to Tiger Hill, at 2590 meters the highest point in the Darjeeling District. The trail climbed above the rain clouds and on arrival we saw no one else to share the experience.
The rising sun projected golden orange hues onto magnificent Kanchenjunga, Jannu, and Kabru close by to the North. Further North Chomol Hari Mountain did appear a beautiful and suitable bride for Kanchenjunga. In the distance to the West, we saw the peak of Mount Everest (8,848 meters), just visible over the top of Singalila Ridge between two other lofty peaks, Lhotse (8,516 meters) and the seemingly higher Makalu (8,462 meters). Tiger Hill gave us a commanding vista overlooking Darjeeling Town, great tea estates, the rivers of the Eastern Himalayas, Sikkim, Tibet, Bhutan, Nepal, and the Indian Plains far down to the South. Oceans of cascading clouds rose with the day and the fragrant resins of Sugi Cryptomeria were wafted into the air.
Thus are visions of past journeys from the tropics to the alpines, narrow mountain railroads created more than a century ago, shear mountain precipices, switch-backs and loops, families living by the rail tracks, a great diversity of flowers, variegated forests, tea plantations, early morning treks to the sunrise, giant mountain peaks, and more. Now, modern transportation and tourism have made these natural wonders accessible to people from all aver the world; but silent enjoyment has receded into the past. Tiger hill has joined Alishan and other remote locations with spectacular views in receiving more and more people who can climb up in trains, taxis, and jeeps.

2008年8月30日土曜日

202回例会「男女共同参画社会について」


2008年11月21日(金) 坂東眞理子氏 ( 昭和女子大学長 )

201回例会「東海道新幹線バイパス計画について」


2008年9月19日(金) 葛西敬之氏 ( JR東海代表取締役会長 )

2008年7月18日金曜日

200回例会「激動する政局の行方」


2008年7月18日(金) 岸井成格氏 ( 毎日新聞特別編集委員 )

2008年2月24日日曜日

100年を隔てた二つの鉄道を見る 台湾高速鉄路と阿里山森林鉄道の旅

台湾新幹線700T(左営駅で)

隈部 紀生     

 2007年11月18日から22日にかけて、かねて会員から希望が出ていた台湾高速鉄路(新幹線)と台湾の名物になっている登山鉄道に乗るツアーが実施され、15人が参加してたいへん実りある愉快な旅を楽しんだ。

 オレンジと濃紺の線が入った真新しい700T型列車に乗り込んで、19日午前7時ちょうど台北駅の地下ホームを後にした。民間会社の台湾高速鉄路が日本やヨーロッパなどの技術を取り入れて建設し、2007年1月に開業した高速鉄道(新幹線)だ。しばらく地下を走った後、視界が広く開けた。全線の72%が高架になっていて、はるか遠くまで沿線の風景が眺められる。亜熱帯らしく11月の半ばを過ぎても緑の豊かな田園地帯に住宅や中小の工場がゆったりとした感じで広がる。線路はほとんどまっすぐだ。最小曲率半径は6250メートルで日本の東海道新幹線の2500メートルと大幅に違う。スピードを上げ、最高時速の300キロになる。車体の揺れは少なく、乗り心地は非常によい。日本の700系車両をもとにしただけのことはある。

 時刻表では高雄の左営駅まで345キロを1時間36分で走ることになっていた。ところが途中でただ一カ所止まることになっていた台中駅に着く大分手前で減速し始め、一時停車してまたゆっくり動き出した。原因は一つ前の列車で運転士が乗り込むときに使う手すりががたがたしたので取り外し、この影響で後続列車も遅れたもので、終点の左営駅には34分遅れて着いた。

 改札口で記念に乗車券をもらって喜んでいると、せっかくの切符を回収された。実は30分以上遅れると料金の半額を返し、1時間以上遅れると全額払い戻すことになっているのだという。私たちは1420元の料金の半額700元を戻してもらった。日本では2時間以上遅れると特急料金だけ返すのと比べて、ずいぶん気前のいい制度だ。

 台湾の高速鉄道計画はおよそ20年前に立てられ、民間会社の台湾高鉄が建設や運用、沿線開発を政府から任された。一時はヨーロッパの技術を主体につくる計画だったが、その後、日本の新幹線の技術が信号、運転、電気、機械などの中核システムで使われるようになった。東海道・山陽新幹線を走っている700系の車両を一部台湾向けに改造した700T系の車両が、12両1編成で30編成輸出された。

 2007年1月に、1日19往復で営業を始め、今では下り(南行)57本、上り(北行)56本が運行している。当初は全員ヨーロッパから来た運転士だったが、今では50%が台湾の人になったという。将来は120~130人の運転士全員を台湾の人にし、女性の運転士も養成するという。

 在来線では、台北から高雄まで4時間半かかっていたが、台湾高鉄で1時間半になって、台湾全土が一挙に日帰り圏になったとされる。これによって国内航空はかなり乗客を奪われ、1月には客席の利用率が20~30%ほど下がったという。あわてて国内航空は料金を値下げし、条件によっては、台北―高雄の料金を台湾高鉄と同額まで引き下げた。これをみた台湾高鉄は開業以来全席指定席だったのを一部自由席にして、実質20%値下げして対抗し、激しい競争が続いている。

 台湾高鉄の現在の利用者は1日4~5万人ぐらいで座席の埋まる率は50%ぐらいだ。台湾は人口が2300万人で、高速大量輸送にとって決して大きな市場とはいえない。台湾高鉄の顧問で、日本の新幹線の功労者、島秀雄さんのご子息である島隆さんは私たちにいろいろ説明をしてくださって「もっとビジネス客が増えないと」と話しておられた。

阿里山森林鉄道の始発駅・嘉義駅

 熱帯の高雄からバスで北回帰線を通り、亜熱帯に入った私たちは、嘉義駅に近い北門駅から阿里山森林鉄道に乗って阿里山に登った。阿里山森林鉄道は、台湾が日本の植民地だった1906年に、日本がひのきなどの木材を運び出すために建設を始め、1914年に全線開通し、20年に旅客輸送も始めた。2007年に開業したばかりの台湾高鉄の「新幹線」に乗った私たちは、同じ11月19日におよそ100年前に営業を始めた阿里山森林鉄道に乗ったのだった。このすばらしい組み合わせを考えてくれたのは、今回の旅の副団長を務めてくださった会員の菅建彦さんだ。

 列車は白い車体に赤い線の入った客車を、逆に赤い車体に白の線があるディーゼル機関車が押して進む。北門駅を出てしばらくは平地だ。ヤシやバナナ、パイナップル、パパイアなど、熱帯や亜熱帯の果樹が多く見られ、列車にも冷房が入っていた。サトイモ畑や竹の林も多く、里山を行く感じだった。あちこちに「按時限十二公里」という表示があり、最高速度が12キロであることを示していた。線路は細く、かなり揺れるがゆっくり走るので不安は感じない。 樟脳駅を過ぎて列車は独立山という山をらせん式に巻きながら、三重のループで登った。下方の同じ集落が3回見えた。1000メートルを超えるあたりから、山腹に阿里山茶と呼ばれる高級ウーロン茶の畑とひのきや杉の林が見え始めた。冷房はとっくに止まっているが、足元から少し冷えてきた。中間駅で最大の奮起湖駅に着く。標高は1400メートルを超えている。ここの車庫に今では使われなくなったシェイ型蒸気機関車の29号があった。今でも動態保存されているらしい。

 奮起湖駅を出ると窓が曇ってきた。外気の温度が下がって中の水蒸気が水滴になったらしい。ひのきの大木が多いが、下枝がきれいに落とされていた。今では森林鉄道でひのき材を運搬しなくなったが、自動車道もあり、林業で暮らしを立てている人が多いのだろう。1534メートルの十文字駅に着いた。ここから先は、2007年の台風で線路が被害を受けて不通になっていた。この区間で、山を登るもう一つの鉄道技術、スイッチバック方式が使われている。私たちはバスに乗り継いで阿里山のホテルに着いた。ふもとから車で来れば、森林鉄道より早く登れるが、森林鉄道で揺られながら少しずつ高度や寒さに慣れ、熱帯や亜熱帯から温帯の山地まで植生の変化を眺めるのは楽しく、翌朝、日の出を見るための儀式のようでもあった。

  翌20日6時前に阿里山森林鉄道の支線に乗って終点の祝山駅に着き、すぐ前の広い階段を登ると、東側の展望が開けた広場に出た。目の前の谷には薄いもやがたなびき、阿里山系の山並みが玉山(昔日本で新高山といった台湾の最高峰)を中心に長く連なっている。まだ太陽は見えないが、すでに日が昇った下界の明るさが少し届いて、山の輪郭は見える。日の出といっても、平地の地平線から日が昇るときのように、闇から一転して明るくなるのとは違う。6時40分ごろ玉山の右の山の切れ目が少し明るさを増した。「来るな」と思ったら、一筋の光線が輝き、あっという間に日が昇った。待っていた観光客の顔が輝き、歓声が上がった。

祝山から玉山のご来光を仰ぐ

 バスで山を降りて嘉義から在来線の特急で苗栗駅に着き、駅に隣接している「苗栗鉄道文物展示館」で、私たちは阿里山森林鉄道を昔走っていたシェイ式蒸気機関車とゆっくり対面することができた。とにかく変わった形をしている。まず機関車の真正面から見て、煙突が中央にない。右にかなり寄っている。左側にはタンクがあり、その後ろにシリンダーが3つあって上下に動く。この上下の運動を歯車でいったん線路と水平な軸が回る運動に変え、もう一度傘の形をした歯車で機関車の車輪の回転に変えて列車を動かす。駆動関係の機器は右側にはまったくない。左右対称でなくずいぶん複雑な車輪の動かし方で、安定性が気になるほどだが、この複雑な回転の伝え方が山を登るときに滑り止めの役割をし、登る力が強くなるらしい。

苗栗鉄道文物展示館のシェイ式蒸気機関車

 もともとアメリカ製で、台湾では1910年に導入され、あわせて20台が阿里山のひのきなど豊富な木材の運搬と、その後は乗客の輸送にも使われた。シェイ式機関車はアメリカを始め世界各地の登山列車にかなり多く使われたというが、阿里山森林鉄道では一番遅い1984年まで活躍して、ディーゼル機関車と交代した。今でも鉄道ファンにはよく知られており、ただ一両29号だけが運転可能な状態で奮起湖駅に動態保存されている。奇妙な形の機関車が実際動くのをいつか見たいものだ。

 今回の旅は会員の菅建彦さんの広い知識と豊富なご経験によって綿密に計画され、台湾では台湾高鉄の方々、特に島隆さんやフランス国鉄から派遣されているゴンドさん、阿里山森林鉄道の幹部の方々のたいへん親切なご説明のおかげで実り豊かな、楽しい旅になった。深く謝意を表したい。 (元NHK)

 旅の参加者(15人)曽我健、菅建彦、堤哲、岩本龍人、大澤栄作、岡本禮子、住田俊介、牧久、ロバートソン黎子、トーマス・リー・ロバートソン、照井英之、萩原健二、飯山泰博、隈部紀生、吉澤眞

2008年2月17日日曜日

199回例会「日本映画の昨日と今日」


2008年6月20日(金) 寺脇研氏 ( 元文部省審議官、文化庁文化部長、京都造形芸術大学教授、映画評論家 )

2008年2月1日金曜日

2025年のリニア・新幹線開業に向け、ことしは出帆の年

台湾新幹線の左営車両基地で参加者たち

JR東海の葛西敬之会長、松本正之社長は1月4日の年頭あいさつで決意を表明した。世界最速時速500キロメートルの超電導磁気浮上式鉄道の実用化に踏み切り、東海道新幹線のバイパスとして中央新幹線を建設。2025年をメドに首都圏―中京圏で営業運転する。建設費5兆1千億円は全額自己負担だ。

年頭あいさつは名古屋のJRセントラルタワーズ31階の大会議室で行われ、東京本社、各支社支店にはテレビ会議システムで同時中継した。葛西会長は「21世紀に時速500キロメートルの交通手段の新大陸を目指す」と語り、「社員全員の不動の確信こそが計画完遂の十分条件である」と強調した。

国家プロジェクトに相当する大事業を完全民営化したJR東海が取り組もうという決断で、暮れの記者会見で松本社長は「国の整備を待っていたら先が見えない」と説明している。

今後、直面する課題は少なくないと思われるが、自らの財源で建設を進めることで、JR東海は「夢のリニア」の実現に向けて走り出した。

2008年1月4日金曜日

198回例会「切らずに治す――重粒子線がん治療のいま」


2008年4月18日 東大名誉教授・平尾泰男氏(前放射線医学総合研究所所長)

197回例会「大相撲裏土俵・ここだけの話」

2008年3月21日 相撲記者クラブ会友・元スポーツキャスター 大隅 潔氏(スポニチクリエイツ社長



196回例会「北京五輪とその後の中国」

2008年2月22日 日本経済新聞論説副委員長、泉宣道氏

新年互礼会

2008年1月22日 於:日本交通協会大会議室