2008年11月26日水曜日

山之内秀一郎さんを偲ぶ(2)


虹の橋を渡った山之内秀一郎さん

吉澤 眞
 「ここに来るよ」と山秀さんは私の目の前の席にどかんと座った。
 7月18日、日本交通協会、交通協力会、交通ペンクラブ共催の講演会場は「ねじれ国会と福田政権」をテーマに毎日新聞社特別編集委員、岸井成格氏を迎え、会場は満員だった。
 ふらりと現れた山秀さんのところにはあいさつに見える方も多かった。
 私は隣にいたロバートソン黎子夫人を紹介し「山之内さん、名刺ある?」と催促すると、ポケットから引っ張り出して渡してくれた。
 終了後も控室で岸井さんと一緒に山秀さんは元気に話をしていた。同席していたのはペンクラブ代表幹事の曽我健さん(元NHK)、堤哲さん(元毎日新聞)、交通協会の三坂健康会長、前田喜代治理事長、秋山光文協力会会長ら10人ほどはいたかもしれない。
 環境問題で持論を展開し、山秀さんは帰っていった。
 次の週、集中治療室の重症患者となり、8月8日、帰らぬ人になろうとは――。
◇  ◇
 運命は「さよなら」の機会を与えてくれる。
 昨年12月、忘年ペンサロン(4木会)に突然山秀さんが出席してくれた。
 「やっと少しはヒマなご隠居になったのね」とメンバーは喜んだ。
 そこに年末のあいさつを兼ね、JR西日本の山崎正夫社長がみえた。
 とたんに山秀さんは山崎社長を指差して「何だお前は、駄目じゃないかァ」と大声を出した。事故のことであろう。
 JR西日本の幹部が事故の後の対策にいたましいほど努力をしているときにこの一喝である。
 サロンはお酒がまわってそれぞれ勝手な話をしていたので、運転屋の先輩、後輩の学生時代のような一幕は気がつかなかった人もいたと思う。
 一本気な坊ちゃん気質。傍若無人である。
 「山之内さんの最近の随筆はすばらしい」と話題をかえた。「ホント? お世辞?」という
 文章は誰でもそれなりに書けるものだが、山秀さんのこのころの「世界鉄道めぐり」など短いエッセーは絶品といってよい。
 ユニークな視点、文章のリズムと音楽性、的確な表現の背景にある歴史・文化への深い教養。ほめすぎかもしれないが、おいしいコーヒーのような満足感があるエッセーである。
 人生のゆとりが出来てこんな美しい文章が書けるのだ、いいな、羨ましいなと思っていた。
 ところが今年になってから急につまらなくなった。新聞記事か経過報告のように味気ない。何か体調が敏感に反映していたのだろうか。
◇    ◇
 平成14年3月に、やはり交通協会で山秀さんは宇宙開発公団理事長として「国産ロケットが拓く宇宙への夢」と題して講演したが、これから壇上にという直前、立ったまま「目まいがする」と呟いた。近くに控えていた私はメニエル氏病で目まいの経験があったので、冷い水を飲むようにすすめ「大丈夫」と背中をさすってあげた。
 映像をまじえた講演は興味深く成功に終わったが、このときロケットの仕事が山秀さんにとってかなりのストレスになっていることが想像できた。
 新幹線生みの親である島秀雄氏に次いで、鉄道界から二人目の理事長として迎えられた山秀さんである。
 反対の風圧に耐え〝レールを枕に討死する!〟という故十河信二国鉄総裁のもとで島さんが高速鉄道システムを完成させなければ、今日の鉄道経営の基盤はあり得なかった。
 国鉄の分割は列車運行上、大事故のもと、ダイヤも組めず運賃もバランスを欠くと猛反対を展開した民営化反対の意見を山秀さんは「従来もやってきたこと。何も問題ない」と言い切った。
 山秀さんの歴史的発言によって国鉄改革は一気に進むことになる。
 技術者として確固たる信念を貫いてきた2人の鉄道人を日本政府は宇宙開発の難題解決のために起用した。これは最高の栄誉であると同時に、苦痛に満ちた重責である。
 軌道に乗せる、という言葉があるが、島さんは第一段階の、山秀さんは第2段階の基礎づくりにあたった。
 島さんは日米間のあまりの技術格差に、昭和45年、ソーア・デルタロケットの大型第1段のライセンス生産にふみ切り、成功の糸口にする。
 「人間の行っていることは、すべて先人の経験の積み重ねの上に立っている。よく学び、自信を持って開発し、世界の人に報いるべきである」(『新幹線と宇宙開発』島秀雄著)
 山秀さんは関連3機関を統合した宇宙航空研究開発機構の初代理事を務めた。
 〝殿〟の愛称をたてまつられながら、先端技術者の組織集団立て直しに苦心した。
 H―Ⅱロケット6号機の打ち上げは失敗した。人工衛星も失敗した。
 このとき対策の一部として米国航空宇宙局(NASA)の元長官ゴールディン氏を長とした外部調査委員会を設けている。
 「よく学び」。島先輩の教えである。
 山秀さんの理事長室には、島さん時代に『十河信二伝』編集のため、私は何回も訪れていた。
 浜松町のビルを見上げて、国鉄入社時に故一條幸夫氏に可愛いがられて運転を勉強し、いまは島さんの跡継ぎとしてここに居る――どうしているのだろうと案じていた。
 私はロケット成功のための原因追求は、事故が絶対に許されない新幹線安全工学の手法がとられたと思う。
◇  ◇
 実は島さんは心筋梗塞で倒れ、死を覚悟して遺言を書いていた。
 財産のことなどではない。新幹線千人の乗客一人一人の安全を願っての遺書であった。
 山秀さん! あなたも心臓を病んでいたのですね。
 著書『新幹線がなかったら』。このタイトルの一語に、十河伝を手伝った私は心からありがとうと申し上げます。
 ほんとうは、東京駅18番線ホームの端にある誰も顧みない十河信二おじい様の碑のことを相談したかった。
 山秀さん! 早すぎました!
(元交通新聞)