2008年11月26日水曜日

山之内秀一郎さんを偲ぶ(3)

ヤマシュウさんとE電

松浦 和英
 「なに、これ、本気なの。あまりいただけないなあ」。思わずヤマシュウさん(と呼ばせてもらいます)に向かって言ってしまった。昭和62年5月13日、旧JR東日本本社(旧国鉄本館)で行われた記者会見でのことだった。
 JRが発足して首都圏の電車をどう呼ぶか論議になった。僕らにとっては懐かしい省線電車、のちの国電(酷電なんていわれたこともあった)に代わる愛称をつくろうという発想は、新生JRにとっては当然の流れだった。興味本位にいえば、国鉄時代、ヤマノテ線かヤマテ線か、アキハバラかアキバハラかで話題となって以来、久しぶりの呼称に関するニュースだった。
 公募の後の審査。作曲家・小林亜星さんらも加わっての選考結果を発表したのが、当時JR東の副社長だったヤマシュウさんだった。①民電②首都電③東鉄…⑦J電…⑨JR電などの上位を吹っ飛ばし、選ばれたのが20位のE電(イイ電)だった。確かに上位はぱっとしなかったかもしれないけど、20位のE電が躍り出るとは……。この間の説明をヤマシュウさんは一生懸命繰り返したが、われわれはそのころ、お笑い界ではやっていた(E)=カッコイイ=とか、E(イイ)○○などの言い方にあやかった軽薄な呼び名としか映らなかった。ヤマシュウさんは記者の不満そうな表情を憮然たる顔つきでにらんでいた。
 結局、E電はしばらくして沙汰やみとなった。ヤマシュウさんも後年、あれは失敗だったと認めているようだけど、首都圏の電車区間がこうも広がり、ゲタ電などとの区別もない現代にとっては、E電の呼び名は〝一場の夢〟だったのだろう。
 あの時のヤマシュウさんの姿は忘れがたいけど、いつものヤマシュウさんはユーモアがあり、音楽に造詣が深く、プライドを持った鉄道マンだった。だから後年、宇宙開発でも活躍できたのだと思う。
 マーさん(馬渡一眞氏)、ハシゲンさん(橋元雅司氏)、杉浦(喬也)さん……そしてヤマシュウさん。改革を経験した鉄道マンは次々に消えていくけど、列車は未来に向けて走っていく。決して休まずにだ。合掌。
(元産経新聞)