2011年5月12日木曜日

救われた「乗客は無事」

東日本大震災 JR東日本に深い傷跡
 あの時、東北新幹線は27本の列車が走っていた。太平洋沿岸に設置した地震計による「早期地震検知システム」が働いて、本震が来る前に各列車は減速―停止して脱線を免れた。
 3月11日午後2時47分3秒、東北新幹線の線路から約50㌔離れた牡鹿半島の地震計が運転中止の基準となる「120ガル」の加速度を捉えた。即自動的に電気の供給をストップ、走行中の新幹線は一斉に非常ブレーキをかけて減速を始めた。揺れが大きかった仙台駅と、1つ北の古川駅間には「はやて27号」と「やまびこ61号」が走っていた。JR東日本によると、この2列車が非常ブレーキをかけた9秒後から12秒後に最初の揺れが始まり、1分10秒後に最も強い揺れを記録した。
 新幹線の回送電車が仙台駅の近くで二軸脱輪したが、乗客のいる営業運転の列車は脱線しなかった。しかし、高架橋の柱が損傷、電柱の折損、架線の断線、軌道の変位・損傷など約1200カ所で被害を受け、3月5日にデビューしたばかりの「はやぶさ」も運休に追い込まれた。最後に残った仙台―一ノ関間が復旧して、東京―新青森間の全線運転を再開するのは4月末の予定だ。
 在来線では仙石線の野蒜駅付近で4両編成の列車が津波で流され、L字型に脱線した。このほか常磐線新地駅、気仙沼線松岩―最知間、大船渡線盛駅でも列車が脱線・転覆するなどしたが、幸い乗客に被害はなかった。太平洋沿岸を走る7路線23駅の駅舎が流失、線路が総延長22㌔にわたって流失したり、土砂に埋まった。
 第三セクター三陸鉄道も大きな被害を受けた。南リアス線盛―釜石間36・6㌔は復旧のメドも立っていない。北リアス線宮古―小本間25・1㌔、陸中野田―久慈間11・1㌔で運転を再開したが、小本―陸中野田間34・8㌔は不通のまま。仙台空港アクセス鉄道(名取―仙台空港7・1㌔)、ひたちなか海浜鉄道湊線(勝田―阿字ヶ浦14・3㌔)の運転の見込みも立っていない。大洗鹿島線(水戸―鹿島サッカースタジアム53・0㌔)は新鉾田―大洋間でバスによる代行運転をしている。
 3・11当日、JR東日本は午後6時20分、管内の全新幹線と首都圏の在来線全線などで運転打ち切りを決定した。各駅は早々にシャッターを閉めた。この措置に、足を奪われて歩いて帰宅する人たちから強い非難の声があがった。清野智社長は記者会見で「批判を真摯に受け止め、非常時の対応を検討したい」と答えた。

7月4日に創設30周年 記念パーティー

 ことしは「交通ペンクラブ」が創設されて満30年。総会と記念パーティーを7月4日(月)午後5時から日本交通協会大会議室で開きます。お土産は「東海道新幹線と私」を特集した30周年記念誌。改めてご案内を致しますが、奮ってご参加を!

東日本大震災

その時、私は…

 その時はマレーシアのマラッカ。国際キワニスのアジア・太平洋総会の開会式の最中、次期ガバナー役で出席していた。日本の状況はNHKの放送がそのまま届くので時々刻々分かるが、電話はなかなかつながらない。日本から参加の会員、家族らの不安が募る中、各国の参加者から次々とお見舞いや同情の声がかかる。
 引き続く歓迎夕食会の席上、ホスト国のマレーシア、最大デレゲーションの台湾をはじめ、1月の地震の際、真っ先に見舞いの申し出があったのは日本からだったというニュージーランドの代表らが続々と壇上に立ち、期せずして募金の機運となる。即席の段ボールの募金箱が700余人の参加者の間を回り、たちまち多額の義援金が寄せられたのだった。改めてキワニスファミリーの厚い友情を実感した瞬間である。そこには間違いなく日本という国への深い信頼感と親近感があったことを思い起こすとき、思わず目頭が熱くなる。         (齋藤 蓊)
 

大震災の何日か前、高校(都立西)の同期の集まりで、大手メーカーにいたH君が「これからは原発の時代だ。これを嫌うなら電化製品を捨て、戦後の停電レベルに戻れ」といった。私が「でも大地震のときは」といったら「新幹線の方がずっと危ないぞ」といった。3月11日、報道によれば関係した新幹線二十数本は緊急停止し、お客様は無事だった。福島第一原発は停止したが、危機はじわっとやって来ている。原発自身の問題というより保守管理、正確な情報伝達ができていないことによるものか。
 今度H君に会ったら、彼は何というのかな。       (矢島 明彦)
 

その時、家にいて原稿を書いていた。棚から本が落ちてきた。テレビがひっくり返りそうだったので、あわててテレビを押さえた。随分長い時間そうしていたように思う。
 それからずっとテレビを見続けた。これほどまでの被害が出るとは想像もできなかった。知り合いに今のところ犠牲者はいない。   (松浦 和英)
 

あれだけの地震は、無論初体験。JRエビスビルの10Fは激しく揺れた。生来苦手な地震に引導を渡されるのか。まぁイイ年だからもって瞑すべしか。と、その時「このビルは丈夫にできているので倒れる心配はありません。どうぞ落ち着いて下さい」という館内放送が繰り返された。それを聞くうち魔法が解けたように身体から力が抜けていった。何という心強くタイムリーなメッセージか。ビルメンテナンスマンの日ごろの修練の賜物か。一度この声の主に会ってみたいと思う。       (岩崎 雄一)
 

3月11日は例年通り課税申告をすませて、午後2時50分ごろ、帰宅して茶の間に入った途端、大きな揺れを感じました。思わずテーブルに両手をついて周囲を見回し、テーブルの下にもぐるべきか、このままやり過ごすかと考えているうちに、地震はおさまりました。玄関を飛び出し、あたりを見回しました。道路の電柱に備えられた変圧器がいまにも落ちそうな勢いで揺れていました。大工さんに壁に固定してもらった食器棚はビクともせず、無事でした。        (河合 茂美)
 

 大震災、その時……。家の中にいて夫婦でくつろいでいたときでした。家内の悲鳴と共に立ち上がり、まずガスの電源を切り、食器棚の扉を抑えました。彼女は玄関のドアを開ける一方、飼犬を抑えて首輪をかけました。震度5強の揺れでしたのに犬が吠えなかったのは不思議です。横揺れなので東京は心配ないと思いましたが、新幹線は無事であろうかと、その方が気遣われました。わが家は何の被害もなく、すまないくらいです。  (古屋 成正)
 

 キッチンに立っていてフライパンが転がり出した。百年もたっているおばあちゃんの古い桐タンスが一人で歩いたように前進している。本はかなり落下した。揺れは不思議なもので、ビクともしていない部屋と上のものが落ちているところがある。揺れるマンションは安全、揺れない建物は危ないね、とビル建設のプロが教えてくれた。
 地震予知とは、歴史と古典の学問であるとTVで大学教授が話していた。関西の方には源氏物語など1000年前の記録がかなりある。東日本、東北には古い文書がほとんどない。宮城県多賀城にわずかに残された文書をもとに内陸部深く調査したら津波の砂が残されていた。原発の耐震性も含め、巨大津波の予測は研究的には分かっていた。つまり想定内。
 地震国日本は活断層の調査も進み、かなりの予測データができている。東京直下で起きるM7以上の地震は10年以内で30%、30年以内で70%。日時は分からない。
 旧国鉄の労働科学研究所で東京駅を知らない人たちに駅を歩いてもらう実験をしたら、人は右へ右へと進むという。駅中商店街も楽しいが、JRターミナル駅は防災と人の流れも研究してほしい。東海道新幹線の通常運転は心強いですね。     (吉澤  眞)
 
 
 「千葉ふるさと文化大学」で講演を頼まれ、午後2時30分すぎから話を始めた直後でした。場所は千葉県庁そばの「千葉教育会館」5階。聴衆は200人ほどいましたが、平均年齢は70歳近く。さすがに騒ぐ人はほとんどなし。1回目の揺れがおさまり、話を再開すると拍手がわきました。2度、3度の余震に「以下は次回」と解散になりました。エレベーターも止まっていましたが、皆さんの落ち着きぶりに感動を覚えました。電車も止まり自宅までは歩いて3時間。黙々と歩く人の列に日本人の「強さ」を感じました。
             (牧 久)
 
 
 ①その時、赤坂迎賓館前を走るタクシーの中にいた。パンクしたような感じで車が急停車し、ゆっくり跳ね上がるように何度も揺れた。運転手がハンドルにしがみついて「地震ですね。わぁすごい!怖いですねぇ」。声が震えていた。窓の外で道路が波打って見え、頭の上の道路案内板が大きくしなった。初めて体験する不気味な揺れだった。長い揺れが収まって、恐るおそる3時から式典が予定されていた明治記念館まで車で走った。途中あちこちの建物から大勢の人が外に飛び出してきていた。
 ②急いで明治記念館に入ろうとすると玄関先のボーイに止められた。「全館入場禁止です」。辺りを見回すと玄関前の広場に屋外避難の客や従業員があちこちに人の輪をつくっていた。顔見知りの人たちを見つけて興奮気味にそれぞれが地震の怖さを話し合っているところへ2度目の大きな揺れがきた。地面全体がゆっくり横に揺れ庭の大きな木が左右に傾いた。みんな不安そうに顔を見合わせ言葉を失った。「どこかで大変なことが起きているに違いない。ついに東海地震がやってきたのか」と身体が小さく震えた。誰かが「ラジオが震源地は宮城県沖だと言っています」と教えてくれた。知ったかぶりに地震波の解説をし「この揺れでは死者は1000人を超えるかも」。無責任な想定を話した。甘かった。
 赤坂から信濃町、新宿、甲州街道を歩いて3時間半かかって帰宅した。だんだん一緒に歩く人波が増え、渋滞する車の列を追い越した。
 ③いま思うこと。「無常」。そして助け合い、支えあい、励ましあう。やがて人々はこの苦難から立ち上がる、立ち上がらなければならない。現役時代ならやるべきことが山ほどあったのに「俺もトシをとったなぁ」。一日中新聞、テレビを眺めていささか情緒不安定、なかなか平常心が戻らない。
 日本列島は「地震活動期」に入った。次の大地震がやってくる。その時どうするか。あの日あの時間、走行中の新幹線の列車88本は直ちに緊急停止し無事だったと聞いたが、これから緊張の日々が続く。      (曽我 健)
 

 東京・内幸町の日比谷中日ビル5階の中日新聞社友会事務局で、大地震に遭遇しました。電車が不通になったので、そのまま事務局で夜を明かし、千葉・浦安の自宅に帰り着いたのは、翌日の夕方でした。
 市の4分の3が埋め立て地の浦安は地震による液状化で、至る所でドロ水が吹き出し、道路が陥没するなど惨憺たる状況を呈していました。水道管、下水道管、ガス管が破損、水道、ガスは10日以上ストップしたままでした。
 幸い自宅は無事でしたが、水道の出ない生活は大変でした。地震に備え、日ごろからペットボトルの水や、電池などを備蓄しておくことが重要だと、つくづく思いました。 (二川 和弘)
 

 大津波の猛威をテレビ画面で見ながら、前日の牧太郎・毎日新聞専門編集委員のブログを思い出した。三陸沖では9日正午前に震度5弱の地震があり、その余震が続いていた。
 「余震?でも……不気味だ」
 この9日の地震で気象庁の地震津波監視課長は記者会見して「今後丸1日程度、最大で震度4の余震が続く恐れがある」と警戒を呼びかけたが、「大地震の前兆というより、これ以上の大きな地震はないから心配しないように」と断言したのである。
 駆け出しの長野支局で松代群発地震に遭遇した。佐藤栄作首相が現場視察に来たとき、地元松代町の老町長はこう陳情した。「もっと学問を!」。カネやモノでなく、この地震がいつ収まるのか、一日も早く科学の力で解明してほしい。地震予知を求めたのである。1966(昭和41)年5月のことだった。あれから45年である。 (堤 哲)
 

 古今未曽有の東日本大震災が日本列島を襲った時、私は鎌倉のとある裏通りで間近に迫った「ご近所コーラス」発表会のポスター貼りをしていた。掲示板にポスターを打ち付けようとした時、急に足元がふらつき目が回るような感じがした。とっさに思ったのは「これが世に言う脳梗塞の発作というものか」ということである。しばらくして眩暈も収まったのでポスターを貼り終わり、表通りの若宮大路に出て通りを横断しようとしたら信号が消えている。手で車を制しながら通りを渡り、人ごみに近づくと「マグニチュード……宮城県沖……」という言葉が途切れ途切れに耳に入り、さっき私を襲ったのは脳梗塞の発作ではなく、地震の揺れだった事にやっと気が付いた。
 兎にも角にも歩いて家に帰ったものの、停電でテレビも見られないし携帯ラジオの持ち合わせも無く、時々市の広報車が大津波警報の発令と海岸近辺からの避難を触れ回っている。「5、6㍍程度の津波なら我が家までは襲うまい」と高をくくって自宅に閉じ篭っていたが、蝋燭の明かりで食事を終えた8時過ぎになってやっと電気が通じ、テレビを通じて入ってくる激甚な被害に驚愕し心が痛んだ。
 地震の発生から既に4週間が過ぎた今日でも、被災者の多くの方々は大変な不自由を余儀なくされている。その一刻も早い救済は焦眉の急であることは言うまでもない。同時に福島原発事故の制圧は待ったなしの喫緊の課題である。地震や津波とは縁の深い土木工学を学んできた私としては、今回の事象は極めて大きな地震と想像を絶する津波の複合災害であり、原発の直接被害があの程度で済んだ事は一応評価できるものと考える。
 しかし、その後の政府や東電の対応にもどかしさを感じるのは、関係者にとって酷であろうか。この事態の帰趨について世界中の耳目が集まっている。広域にわたる大気や水や食品の汚染を懸念するオーバーな情報が世界中を駆け巡っている状況下、これ以上の事態の悪化を防ぎ制圧する事を何としてでもやり抜かねばならない。さもないと、ただでさえ巨額の財政赤字に悩む日本に対する世界の信頼は一挙に失墜し、日本は永久に立ち直れないだろう。戦争の惨禍から見事に蘇った日本国民の英知を結集すれば必ずやり抜ける事を信じている。
 元鉄道技術者としては、今回の地震によって高架橋や架線柱に相当な被害を生じたものの(この教訓を将来の計画・設計に生かさねばならぬ事は当然として)、乗客に一人の被害も出さなかった事は、ユレダスの設置をはじめとする鉄道事業者の万全の安全対策の賜でありご同慶の至りである。
 会員に多くの報道関係者を擁するペンクラブのためにあえて付言するならば、今回の大震災に関する報道姿勢は全般的に見て抑制が効いた妥当なものであると評価される。  (岡田 宏)

鉄道魂を発揮しよう

 清野智JR東日本社長
 メッセージ放送の要旨

 
 大地震から大津波、そして余震と続く中、それぞれの職場で働いていた社員の皆さんの、お客さま救済に向けての献身的な働き、本当に頭が下がります。自らの危険を顧みず、お客さまを誘導してくれた乗務員や駅の皆さん、そしてすべての社員の皆さん、ありがとうございました。
 これから私たちがやるべきことは、言うまでもありません。心をひとつにして、まずお亡くなりになられた方々を弔い、被害を受けた方々をお見舞いし、被害に遭った方々が再起に向けて立ち上がることのお手伝いをすることです。
 長い長い闘いになると思います。お互いに健康に留意しながら、鉄道魂を発揮し、全社員が心をひとつにして、「JR東日本、そしてJR東日本グループここにあり」で頑張りましょう。 (3月14日)

JR東海 「リニア・鉄道館」がオープン

 JR東海の「リニア・鉄道館」が3月14日オープンした。交通ペンクラブ24人は7日にプレビューを楽しんだ。
 名古屋駅で迎えてくれたのは、交通ペンクラブ会員のJR東海相談役、須田寛氏(元社長)。鉄道マニアである。「旧国鉄の名古屋管理局長時代(1979年5月~81年6月)、保存価値のある車両を美濃太田車両区の留置線に貯めました。それが今回生きました」。
 貴重品は、モハ1形式電車。鉄道省が1921(大正10)年から製作した木製車体の電車。内部を宮大工に頼んで復元した。
 戦前、阪神間の急行電車として活躍したモハ52形式電車や、1930(昭和5)年の省営バス第1号(鉄道記念物)などが挙げられるが、JR東海といえば東海道新幹線。0系、100系、300系……と歴代幹線車両が展示され、最新N700系は運転のシミュレーションが楽しめる。むろんその先は時速500㌔運転のリニアモーターカーである。ジオラマが面白い。幅33㍍、奥行き最大8㍍。線路延長1㌔。日本一の広さなのだという。
 名古屋駅からあおなみ線終点金城ふ頭駅下車。入場料大人1000円。火曜休館。展示39両。初代館長は金子利治氏(62歳)。
     










           ◇
 参加者は次のとおり(敬称略)
 石神源助、荻原正機、小澤耕一、柏靖博、斎藤雅男、関原誠一、曽我健、竹内哲夫、辻勝、堤哲、中島啓雄、初田正俊、二川和弘、古林肇道、落合ふたば、古屋成正、松浦和英、吉澤眞、十河光平、米山淳一、佐藤俊恵、栗原稔枝▽JR西日本=杉本伸明▽運輸調査局=高井力雄=以上24人

「はやぶさ」に試乗して ~諸岡 達一~

 杜の都の青葉通り……二百二十何本のケヤキは若い新芽のときからなんともいえない芳香を放つ。昔から「仙台は双葉より芳し」と言う(言わネエか)。
 交通ペンクラブの面々は笑みとお腹をふくらませて大宮駅酒豪……集合。今試乗会は革新的乗り心地を処女的に味わう旅であるからして……仙台では改札口を出ることもなく、双葉より芳しの青葉通りを歩くこともなく、せっせと駅ナカ売店にて、牛タン弁当を宮城に抱えて、すぐさま列車に戻るのであった。(「宮城」は「土産」の駄洒落です。駄洒落に解説を要するのはつらい)。
   
  ■
 いや、しかし。「揺れませんねえ」。口々に感嘆の声。テーブルに立てたスティック糊が「倒れませんヨ、ほら」。フルアクティブサスペンションと、カーブ箇所では車体をスムーズに傾斜させる装置をダブルで制御させる試みが巧く噛み合って車内は振動がほとんどない。
 今冬の山は雪が多い。日光連山、白く輝く奥白根山(2578㍍)が瞬間頭を見せ、那須塩原駅を通過、那須連山を左手に迎える辺り、「ただいま、時速300㌔で運転しています」のアナウンス。静かだ。レールに触れている感触はあまり感じない。空気抵抗を大幅に少なくした15㍍のロングノーズがトンネルに突っ込む。爆音も圧迫感を覚える振動も減った。
 昔の列車は網棚から荷物がよく落ちた。客車はガタンゴトンと揺れたものだ。でかいリュックサックが落ちて膝を怪我したことがあるのでリュックサックは縄で網棚に縛り付けた。「なぜ、網棚の荷物は真下に落下するのか」という物理学的命題、あれは等速度運動をしている物体には慣性の法則が働くからであって、列車が走っているからといって置いてあった網棚の位置より後ろに荷物が落下することはない。ここでは荷物も時速300㌔という等速度運動をしているから……うるさい! 大法螺を福島(吹く暇)もなく「はやぶさ」の車窓には吾妻連峰がいっぱいに広がって、まるでメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲ホ短調のような流麗優美な旋律を醸してE5系は早くも蔵王トンネルへ。
 「はやぶさ」は2012年には日本単独1位となる時速320㌔を出す所存である。山陽新幹線で現在300㌔を出しているN700系車両もうかうか出来ない。
 「はやぶさ」は10両編成。東京発新青森駅行の「はやぶさ1号」「はやぶさ3号」は先頭車がグランクラス。このスーパー・グリーン車は1~6番それぞれAが一列、BCが二列の18席しかない。デビューした3月5日、新青森までのグランクラスのキップがインターネット・オークションでは38万5000円で落札されたそうで、シェー! びっくり常識外もいいところ、世の中「あじゃパー」である。
 普通車のシートピッチが980㍉から1040㍉に拡大されたからA席の人がB席の人に、いちいち「すみません、すみません」「どーも、どーも」と言わなくてもトイレに通える。3人掛けシートの横幅もA席とC席が430㍉から440㍉に、B席が435㍉から460㍉へと拡大した。海外にも売り込む新幹線デザインの中軸を成すことになろう。パンタグラフも1個しかなく……あ、交通ペン会員のみなさんに列車の専門噺は「糠に説法、釈迦に釘」だ。この辺でやめておく。
  



  ■
 それにつけても「はやぶさ」という愛称……ついこの前は惑星探査機「はやぶさ」が話題を呼んだが、僕なんぞはブルートレインの「はやぶさ」という固定観念が脳髄に保持されていて、それが青森行きになった今日日、記憶認知上の乱れを生じる。東京駅15番線19時00分発車。 兄弟分の「あさかぜ」(博多行き)が出た30分後に悠然と出発する鹿児島行き「はやぶさ」、食堂車が連結されていたAB二等寝台特急のコト。九州内ではC61蒸気機関車が牽引したんだよな。
 昔噺をしてもシャアない。昭和4(1929)年に走り始めた東京←→下関の特急「櫻」が現在は新大阪←→鹿児島中央「さくら」となって走り、昭和5(1930)年走り始めた東京←→神戸の特急「燕」がいま九州新幹線で「つばめ」となって走っている、現代の風には逆らえぬ。《追い風(おいて)は帆に従え》じゃ。
 ブルトレ「はやぶさ」が消えたのは2009年3月。それから2年後に東北新幹線の新型車としての愛称復活なのである。歳月は人を待たず。時の進捗は速エー。
 そんなこんなと脳裏線路が過去現在未来を行き来するうちに蔵王連峰の真っ白な峰に迎えられて「はやぶさ」はあっという間に仙台着。大宮から1時間13分。速エーのなんの。
 その昔、昭和31(1956)年師走、カノジョと二人、急行「みちのく」(上野発9時50分・常磐線回り青森行き)で仙台へ旅したときは6時間、それでも「もう着いちゃったの……」と感じるくらい早かったのが懐かしや。また昔話、しかも自分噺になってはイカン……この辺で「めでたし、めでたし」とした方がE5ではない系。
 (2011年2月25日記)















試乗会参加者(敬称略)石神源助、笈川力三、大澤宏海・桂子、大豆生田明宏、岡本禮子、荻原正機、小澤耕一、柏靖博、河合恭平(代理)、隈部紀生、小清水忠、齋藤雅男、貞廣長昭、菅建彦、菅原順臣、関原誠一、曽我健、竹内哲夫、田沼純、辻勝、堤哲、中島啓雄、野沢太三、初田正俊、原田登志雄、平野雄司、二川和弘、古林肇道、増田浩三、三上栄太郎、三坂健康、水野弥彦、吉澤眞、島隆、十河光平、米山淳一、佐藤俊恵、新木利明、大野圭子、栗原稔枝▽日本交通協会=前田喜代治、斉藤彰、野中章▽交通協力会=高橋昭夫▽運輸調査局=福眞峰穂▽日本フレートライナー=高田岳

九州新幹線に試乗して 住田俊介 A班 

 九州新幹線の試乗会(2月24日)には、どうしても全線に乗りたいグループ(A班)と、博多―熊本往復組(B班)の2班に分かれて、計32人が参加した。A班は羽田空港から日航機で鹿児島に飛び、知覧観光のあと指宿に前泊しての1泊2日の旅。B班は鉄道マニアが多く、それぞれが博多までの行き帰りにも工夫を凝らしての旅だったらしい。報告をお読みください。














 2010年12月4日の東北新幹線の完成に続き、2011年3月12日、九州新幹線の鹿児島ルート(博多・鹿児島中央間、256・8㌔)が全線開通することとなった。これによって、本州の北から九州の南までが、1本のレールによって結ばれた。
 全線開通に先立ち、2月24日、九州新幹線に試乗した。前日、東京から鹿児島に向かう飛行機からは、霧島山の新燃岳や桜島の噴煙が立ち上っているのが見えた。この火の国に新幹線が一部開業したのは、2004年3月13日、新八代・鹿児島中央間(126・8㌔)であった。交通ペンクラブはこの時にも試乗したので、今回が2度目である。交通ペンクラブの曽我健代表以下24人が鹿児島から乗車(別途、福岡からは8人が乗車)した。
 当日、鹿児島中央駅に集合し、駅を9時41分に出発、博多に向かい、熊本駅、新鳥栖駅に停車の後、11時09分博多駅に到着した。列車に乗車したまま折り返し、11時24分に博多駅を出発、途中5駅に停車の後、13時12分、鹿児島中央駅に到着した。暖かい快晴の日で、新幹線の沿線の地形が短時間に地図どおりに変化していく様子が体験できた。雲仙の普賢岳からも噴煙(あるいは蒸気)が立ち上っているのが、はっきりと見えた。
 試乗した列車は、N700系新幹線電車をベースにした8両編成の列車で、新大阪・鹿児島中央間の運行用として製作された。この列車には、一部開業時の800系新幹線電車には設けられていなかったグリーン車が設けられ、また、800系の普通車の座席はすべて4列であったが、N700系の普通車のうち指定席は4列、自由席は5列となった。車内の手すりやテーブルなどには本物の木材が使われており、やすらぎや癒やしが得られることを目的としている。言わば、相互直通運転をする西日本旅客鉄道と九州旅客鉄道との中間のような仕様にされたように思う。乗り心地は、本州3社に運行されている列車とほとんど同じであるが、トンネル以外の明かり区間では、防音壁がやや多いように感じた。招待して下さった九州旅客鉄道に対し、謝意を表する。
(平成23年2月27日記、元国土交通省)


 参加者は次のとおり(敬称略)
 A班=石神源助、荻原正機、柏靖博、川野政史、隈部紀生、菅建彦、鈴木隆敏、住田俊介、曽我健、竹内哲夫、辻勝、堤哲、西田博、平野雄司、牧久、松浦和英、吉澤眞、十河光平、佐藤俊恵、栗原稔枝▽日本交通協会=高山順子、金澤洋子▽元NHK福岡放送局長、飯野毅紀・七生夫妻

博多⇔熊本往復記 諸岡達一 B班

 広く大きなキャンバスにぽたりぽたりと青絵具を落としたように、惜しげもなく豊かな色の濃さを見せ付ける筑後平野。遥か遠く丘陵がうねっている。車窓を大切に列車を旅する僕は、初めて乗る九州新幹線の新鮮な車窓を、見落としなきように見惚れていた。
 2011年3月12日のJRダイヤ改正に合わせて全通開業(博多←→鹿児島中央)、既にして多くの乗客の重宝を満たしている九州新幹線。便利さと車窓の美しさと、車内空間の心地よさは極上である。
 交通ペンクラブの試乗会B班は、2月24日(木)13時10分博多発「回送917号」、熊本駅往復の臨時ダイヤで実に気持ちのよい旅をさせていただいた。
 博多駅11番線に待っていたのは新しいN700系8000番台の列車。現在「みずほ」「さくら」として新大阪駅←→鹿児島中央駅を結ぶ山陽・九州新幹線直通用の8両編成。
 車内は「和のもてなしを意識した装い」。テーブルや窓枠も木材が使われている。ホテルや旅館の部屋に案内された瞬間「おー、いい部屋じゃん」と言う、あの感じである。贅沢に心穏やかに車窓が眺められそうな予感がするところが嬉しい。なるほど! 普通指定席のシートが「2+2」なのもいい。
     
          ■
 試乗車は左手に博多南の新幹線車両基地を見ると一気に加速する。福岡県と佐賀県の境に構える背振山地へ、35‰(パーミル)の勾配を、グイと腰のあたりに重力を感じるほどの力強さで登っていく。わずか3分で時速270㌔まで加速可能な動力性能を持つ新N700系車両は、九州新幹線で最長の筑紫トンネル(1万1935㍍)にスーッと入っていく。出たところが新鳥栖駅。鳥栖はすでに大量輸送の交通網「九州自動車道」「長崎道」「大分道」が交わっている。そこに九州の太い背骨が仕組まれたカタチだ。
 筑後川鉄橋を鹿児島本線と並んで渡ると久留米駅。筑後船小屋駅、新大牟田駅。この辺りの車窓が冒頭に記したように美しい筑後平野。右手にくっきり独立して見えてくるのが雲仙岳(1483㍍)。大空を屏風にして華麗に立つお雛様のような裾の広がりが燦然として目映い。するとまもなく新玉名駅を通過する。
 いい按配にのんびり車窓を眺めていると「……きょうの旅の意味はなんなんだろう。口は黙っているけれど脳がはしゃぎ過ぎだ……」。日本の居住空間的たたずまいの中で用事もなく列車耽溺できるのはこの世の極楽である。
 博多からたった33分、熊本駅に静かに滑り込んで、とりあえず終点。試運転列車だから鉄道用語で言うと「ドア扱いなし」、ホームに出たりはしない。豊かな座席にどっかりと座ったまま「レオ」(蛇足=列車折り返し)。
 内田百閒センセイが夜間寝台急行「筑紫」などに乗り東京から33時間がかりでやって来て、九州をあちこち旅する文学作品「第一、第二、第三阿房列車」。車窓をぼんやりと眺めながら『落ち着いて考えて見ると、全く何も用事がない。行く先はあるが、汽車が走って行くから、それに任しておけばいい。私が自分の足で走るのではないから、どこへ行くつもりでこの汽車に乗ったかと云うことを、忘れても構わない……』と、百閒センセイは、いい心持でぼんやりしながら『そうして、その事の味を味わう』とおっしゃっている。まったくである。この悟り切った心境たるや!
 それにしても、僕たちは熊本駅でホームにも出ないのはなにやら登楼せずに引き返す「素見」(ひやかし)みたいで妙な気持ちだったものの、取って返して博多へ向かう。今度は西側の座席に移って、来た時とは違った角度の車窓風景を堪能する。「乗り鉄」などと近ごろは言うそうだが、鉄道風景は何度同じ線に乗っても違うから面白い。それも同じ路線往復が最上である。西に見える山と東に見える山、街並みも、森も、鉄橋も、田畑も進行方向によってそれぞれ景色は別物なのだ。
     
 ■
 博多に戻る。早い。近い。今回の全通によってもたらす利便は底知れない。たとえ福岡ヤフードーム球場でプロ野球の試合終了が午後10時だとしても、最終の「みずほ」に乗れば鹿児島中央駅に23時46分に帰着できるから野球ファンも増大しそうだ。その逆で、九州の広島カープ・ファンも広島球場へは乗り換えナシで通える。
 ビジネスやレジャー観光分野で決定的なのは、岡山→鹿児島中央が2時間59分、広島→熊本が1時間37分、それ以前よりも52分~72分短縮してしまった。JR西日本とJR九州との友情開発の果実は甘く効果は大である。新N700系のボディーに描かれたロゴは両社が手を取り合う形になっていて印象的である。
 思えば九州新幹線の建設計画は1973(昭和48)年の「整備新幹線5線」モンダイから始まって、財政難、難工事、国鉄民営化、鹿児島ルートやら長崎ルートやらと、さまざまな障害を乗り越えての結実である。これはもう「九すれば通ず」というしかない。      (2011年2月28日記)

思い出の駅を訪ねて 信越本線 関山駅   辻 聡

 今から13年半前、1997年秋のことである。翌年の冬季オリンピック大会を控えて長野新幹線が開業しようとしていた直前、在来線最後の碓氷峠越えの旅を思い立った。
 当時も札幌支店に勤務していたので、〈北斗星2号〉で上京、都内をいくつか回ったのち、その晩は高崎に宿泊。翌1日を使い途中下車しながら信越本線をたどり、同年春に開通していた北越急行線の初乗りも楽しんで、新潟から小樽ゆきの夜行フェリーで帰札というプランだった。
 信越本線ではどうしても降りてみたい駅があった。関山駅である。小学校1年生のとき、すなわち1960年夏休みの家族旅行で、私は両親に連れられてこの駅に降り立ったハズであった。蒸気機関車の引く客車列車のボックス席で冷凍みかんなどを買い、陶器入りのお茶を窓辺に置いて、トンネルが近づけば窓を閉めるという、あの時代の「正統的な」汽車旅の姿が記憶によみがえる。
 横川駅で昼食の弁当……たぶん峠の釜めしだったろう……を買ったこと。そのとき父はホームの駅そばを食べ、私は汽車が今にも発車してしまうのではないかと気が気でなかったこと。アプト式の茶色い専用機関車に率いられ、碓氷峠をそれこそ止まりそうな速度でゆっくりと登っていったこと。窓から顔を出すと、カーブした前方には腕木式信号機が立っていたこと。
 黒姫駅は柏原、妙高高原駅は田口の駅名だった。その後に改称されたのである。「たぐち」の文字なら小学校1年生でも読める。私たちは次の関山で降り、関山スポーツホテルというロッジ風の宿に2泊したかと思う。冬はスキー客でにぎわうのだろう、ロビーには大きな薪暖炉が設えてあった。この宿を拠点にバスで野尻湖などをめぐったのである。
 そんな思い出を胸に再訪した関山駅は、あまり駅舎らしからぬ三角屋根の建物に変貌していた。もっとも旧駅舎の格好がどうであったかは覚えていないのだが。しかも駅自体がわずかに移転したとかで、旧駅跡は近所に放置されていると観光案内所で教えられた。ついでに関山スポーツホテルの存在も聞いてみるが、もう十数年も前に廃業したという。
 スイッチバック解消のために打ち捨てられた旧駅のプラットホームはススキや雑草に覆われていた。だが「せきやま」の駅名標が錆を浮かせながらもそのまま残り、側溝には秋の日差しを反射して清水がキラキラと輝いている。時の移ろいを感じてちょっと涙したくなった。
 いったい、50年前に利用した列車は何だったのだろう。復刻版時刻表の1958年11月号によれば、おそらく上野9時10分発の金沢ゆき急行603列車〈白山〉だったのではないかと考えられる。横川で駅弁を買った時間帯とも符合する。
 ところが、この列車は関山には停まらないのだ。旅館案内のページで関山スポーツホテルを探すと「関山温泉」の欄に記載があり、関山駅から燕温泉ゆきの川中島自動車バスに乗ったと思うのだが、バスと列車の時刻を突き合わせると、どうも接続がしっくりいかない。長野あたりで普通列車に乗り換えたのか。いや、そんな記憶もない。あるいは田口で下車して赤倉ゆきのバスに乗ったのだろうか。いやいや、たしか一度停まった列車がまた動きだしてホームに入ったはずで、だとすればやはりスイッチバックの関山だろう。
 旅の詳細なメモでも残っていれば当時の行程を容易に復元できるのだが、私の幼少期のアルバムにはホテルや野尻湖の白黒写真が数葉貼られているだけである。そこに写っている母は、私の関山再訪から半年後にこの世を去り、上からファインダーを覗く方式の年代物の二眼レフカメラを携えていた父も、一年あまり前についに帰らぬ人となった。(三菱地所㈱札幌支店長から4月1日本社内部監査室長に異動)

在来線「博多南線」の謎  諸岡 達一

 時刻表の謎解きは快楽である。長年抱えたままだった疑問を自分のマナコで解き明かすべく、僕は博多に出張した。この前の「九州新幹線試乗会」(2011年2月24日)、僕が博多集合のB班に参加したのは、この際、ナゾの現場探訪を試みようと思い立ったからである。

 今を去ること1997(平成9)年3月、JRグループのダイヤ大改正があった。山陽新幹線、新大阪←→博多間を2時間17分で結ぶ500系「のぞみ」が日本初の最高速度300㌔(時速)運転をした時である。「JR時刻表」の山陽新幹線のページを繰っていて、何じゃこりゃ! 初めてお目にかかるシルシを発見した。
 そのシルシは●。
 たとえば、新大阪発「こだま383号」博多行きが終着するのが「17時51分」、到着番線が博多「14番線」、そのすぐ下欄に「●」が付記されているのである。また、博多発「ひかり174号」新大阪行きの下欄にも同じように「●」が付記されている。よく見ると、上りで21本、下りも21本、いずれも「●」シルシ付き列車なのであった。そして欄外にシルシの説明【注】あり。「●印の列車は博多―博多南間在来線特急として運転します」とあるではないか。新幹線が在来線? 「詳しくは51ページをご覧ください」と。
 51㌻をめくると、そこにあったのは「博多―博多南(博多南線)」時刻表。新登場? である。あとで判明したことだが、それ以前は448㌻近辺「九州在来線」の仲間として「博多南線」は記載されていた。新幹線ページに記載欄が移動したため新登場のように見えたのだった。
 それもそのはずで、この路線はもともと在来線扱いだが、走る電車は新幹線車両なのである。時刻表には『全列車特急列車 新幹線車両6両または8両編成で運転 普通車全席自由席』と記されている。さらに《ご案内》の欄には『ご乗車には、運賃(190円)のほかに、特急料金100円が必要です。山陽新幹線にまたがってご利用の場合は、特急料金100円と山陽新幹線の特急料金を併算します』と記されているのじゃよ! 290円で新幹線車両に乗れる在来線(営業㌔8・5㌔)なのだ。
 そんなに驚くことはナイのだが、これが僕にとっては20年来の時刻表の中の謎だったのである。従って僕にはこの謎を解く権利と義務とヒマがある。

 「博多南線」は1990(平成2)年に開業しており、北九州、西日本方面に住んでる人は先刻ご存知の話題であり、鉄道ファンもちゃんと知っている事柄だし、ははは、東京住民の僕が無知だっただけで、申し訳ないけれど……やっぱり僕にとっては謎は謎であった。
 現場を訪れると、やっぱり謎の価値は高く面白い!
 まず博多駅の新幹線ホームの表示板には、鹿児島方面の次の隣駅名が「←しんとす/はかたみなみ」と記されている。九州新幹線は全通したけれど、次の隣駅は「新鳥栖」だけではない、これからも「博多南駅」は永遠に存在するぞ、と主張している。「新鳥栖」の方がルーキーじゃないか。「博多南」は20年前から営業している先輩じゃけん。
 僕が博多駅の新幹線ホーム16番線から「博多南」行きに乗ろうとして立っていると、放送が「この列車は小倉・広島方面には行きませんのでご注意下さい」と注意喚起している。鹿児島方面へ全通した今日、もしかして「この列車は新鳥栖・熊本・鹿児島方面には行きませんのでご注意ください」と放送しているかもしれない。ホームが同じだから間違いやすい。
 僕が乗った博多南行き列車は、新大阪発博多行き「こだま729号」が終着となって乗客を降ろし、そのまま「博多南行き」となるのだった。
 これぞ!●シルシの現場である。
 ホームの案内表示には「こだま」の文字はなく、ただの「729」。列車番号表示のみである。博多南線の列車番号はことごとく山陽新幹線を走ってきた列車番号と同じで、つまり博多←→博多南間は列車名のない特急電車となる。「特急729」という呼称は他にないのではないか(面倒くさくなって調べていない。あるかも?)。
 この「特急729」は因縁なるかな500系車両であった。時刻表の謎にブチ当たったのが500系登場の1997年。「ただいま時速300㌔で運転しています」と運転士がご自慢で放送した花形列車「のぞみ号」。いま静かに各駅停車「こだま号」と格下げ? になって、博多南線では特急券100円+乗車券190円で乗れる。車両の後期高齢者人生いかばかりか。
 同列車は博多南駅で折り返し「744列車」となり、博多まで乗客40人~50人を乗せて時速120㌔でゆるゆると走った。博多からは引き続き「こだま744」になり、新大阪まで淡々と仕事をこなすべく14番線を後にした。博多南線を走っている最中に車内放送あり。「このまま新大阪方面に行かれる方は、そのままご乗車ください」。
 2011年3月大改正、最新のJR時刻表をよく見ると、博多南線の本数は現在下り28本、上り26本。主に500系「こだま」のほか、700系「ひかりレールスター」も走るが、唯一「博多南駅」発20時02分→「博多駅」20時12分着の「768A列車」は、九州新幹線全通を機にデビューした新型N700系である。この列車はそのまま博多駅20時20分発の「こだま768」岡山行き(終着23時32分)となる。時刻表の【欄外注】に「768A=グリーン券は車内でのみ発売します」の記述がある。これは特別な1本であることを証明している。

 なにゆえに、博多南線が生まれたか。
 簡単に言えば、博多南に「博多総合車両所」(新幹線基地にあたる)があるからだ。1974(昭和49)年以来、地元住民から「どうせ走るんだから回送列車に乗客を乗せてほしい」の声が高くなった。なんせこの辺り(福岡市那珂川町、春日市)はバスで博多へ1時間圏。難題もさまざまあった中で国鉄からJR会社になり、1990(平成2)年4月に博多南線および博多南駅が軌間1435㍉のまま開業したのである(管轄はJR西日本)。お蔭様で急速に宅地化が進み、僕が博多南駅前に立って眺めてもマンション群、ビル群があちこちに見えた。奇妙な路線効果は確実に現れている。
 博多←→博多南間は所要時間10分、全通した九州新幹線と並行して走る(イラスト参照)。九州新幹線全通の賜物が一つ……新幹線車両ファンにはこたえられない現象……博多南線の「博多―博多総合車両所分岐点間」には「N700系8両編成」「同16両編成」「700系8両編成」「同16両編成」「800系」「500系」「300系」「100系」が連日ぞろぞろ、しかもゆっくり走って行き交う。沿線のマンションに住む鉄ちゃん鉄子には、こんうえなか歓喜であっけん。
 噺はブッ飛ぶけれど、この際(なにがこの際だかワカランが)、東京都品川区八潮にある新幹線大井車両基地から「たった1㌔延長」して羽田空港直通の新幹線を作ればいいのにね、と思う。新青森発の羽田空港行き「はやぶさ」っていう列車が走るとなりゃ素晴らしいように思うが、はて? 東海旅客鉄道新幹線鉄道事業本部様、いかがでしょうか。以前にもそんな話が持ち上がったことがあるのは知っているけれど、やっぱダメですかナ。
 
 【参考】JR東日本「上越新幹線」の枝線「越後湯沢駅←→ガーラ湯沢駅」も、在来線扱い(上越線支線)である。走るのは新幹線車両だが、在来線の特急列車ということになり、運賃140円+特急券100円=計240円で乗れる。時刻表にも、その説明をした上で、『越後湯沢―ガーラ湯沢間の指定席の発売はいたしません』と記されている。なお、ここは冬季のみ運行。スキー場の営業次第となっている。

*文中●は〇の中に▲

盆栽美術館長

 昨年3月、世界初の公立盆栽美術館と銘打ってオープンした「さいたま市大宮盆栽美術館」の2代目館長に交通協力会理事長の菅建彦氏(1965年国鉄入社、交通ペンクラブ会員)=写真=が4月1日付で就任した。
 この美術館は、さいたま市が総工費10億3400万円で建設した。鉄筋コンクリート地下1階地上2階の延べ1500平方㍍。敷地は6400平方㍍もあり、1階のコレクションギャラリーや盆栽庭園に、季節に合わせて50鉢ほどが展示されている。
 関東大震災のあと東京都内から盆栽業者が移住し「大宮盆栽村」をつくった。現在も「さいたま市北区盆栽町」に清香園、蔓青園、芙蓉園、九霞園、藤樹園の5軒の盆栽園がある。近くにある「鉄道博物館」との連携と海外宣伝を強化するため白羽の矢が立った。
 アクセスはJR宇都宮線土呂駅より徒歩5分、東武野田線大宮公園駅より徒歩10分。入場料は大人300円。毎週木曜日休館。ホームページhttp://www.bonsai-art-museum.jp/

モーダルシフト

 「日本の物流と貨物鉄道の役割」をテーマに?交通協力会主催のシンポジウムが2月22日、東京ステーションコンファレンスで開かれ、JR貨物の小林正明社長=写真=が基調講演を行い、モーダルシフトの推進を訴えた。
 モーダルシフトとは、国内の貨物輸送をトラックから鉄道または海運に転換すること。環境負荷の低減に加え、エネルギー問題、少子高齢化に伴う労働力問題の解決に資するとしている。しかし、小林社長によると、貨物輸送のシェアは1000㌔超の長距離郵送でも鉄道のシェアは36%。トン㌔ベースだと、わずか4%に過ぎない。
 「景気の減速に底入れ感が出てきた」矢先の3・11東日本大震災。JR貨物は震災による鉄道不通区間をトラックによるコンテナ輸送に切り換えて輸送を再開する一方で、被災地への「救援物資の無賃輸送」を行っている。

こなきじじい駅長

 妖怪こなきじじいが、無人駅JR土讃線大歩危駅の新駅長となった。地元三好市山城町は子泣き爺伝説発祥の地とされ、道の駅には「妖怪屋敷」が併設されているほど。祖谷渓の古民家に住む英国人のアレックス・カーさんらが仕掛け人。

「私も鉄子」

 「時刻表マニアなんです。仕事でどこかへ行くときは誰よりも先に時刻表を調べて、この列車がいいとか、ここで乗り換えた方が早い、とか。全部自分で調べるんです」。女優の吉永小百合さん=写真=「大人の休日倶楽部ジパング」2011年4月号から。

須田寛さん 『昭和の鉄道』出版

 JR東海相談役、というより鉄道マニアの須田寛さん(交通ペンクラブ会員)が『昭和の鉄道―近代鉄道の基盤づくり』(交通新聞社新書、800円税別)を出版した。資料編を含め本文316㌻。内容豊富な分厚い新書である。鉄道の創業と発展(明治)、鉄道の拡充期(大正)を前史として、昭和を興隆期、戦時下、戦後復興期、高度成長期、転換期に分け、「住民(乗客)にとって最も身近な鉄道運輸に焦点を絞り、その歩みを振り返る」鉄道史である。
 少子高齢化社会が進む中で、今後の鉄道は「地域住民との連携・協働がその出発点になる」と結論づけている。

2011年5月11日水曜日

第218回例会

第218回例会  「日本経済の先を読む…ピンチをチャンスに」


2011年4月22日
日本経済研究センター会長・新井淳一氏