2011年5月12日木曜日

思い出の駅を訪ねて 信越本線 関山駅   辻 聡

 今から13年半前、1997年秋のことである。翌年の冬季オリンピック大会を控えて長野新幹線が開業しようとしていた直前、在来線最後の碓氷峠越えの旅を思い立った。
 当時も札幌支店に勤務していたので、〈北斗星2号〉で上京、都内をいくつか回ったのち、その晩は高崎に宿泊。翌1日を使い途中下車しながら信越本線をたどり、同年春に開通していた北越急行線の初乗りも楽しんで、新潟から小樽ゆきの夜行フェリーで帰札というプランだった。
 信越本線ではどうしても降りてみたい駅があった。関山駅である。小学校1年生のとき、すなわち1960年夏休みの家族旅行で、私は両親に連れられてこの駅に降り立ったハズであった。蒸気機関車の引く客車列車のボックス席で冷凍みかんなどを買い、陶器入りのお茶を窓辺に置いて、トンネルが近づけば窓を閉めるという、あの時代の「正統的な」汽車旅の姿が記憶によみがえる。
 横川駅で昼食の弁当……たぶん峠の釜めしだったろう……を買ったこと。そのとき父はホームの駅そばを食べ、私は汽車が今にも発車してしまうのではないかと気が気でなかったこと。アプト式の茶色い専用機関車に率いられ、碓氷峠をそれこそ止まりそうな速度でゆっくりと登っていったこと。窓から顔を出すと、カーブした前方には腕木式信号機が立っていたこと。
 黒姫駅は柏原、妙高高原駅は田口の駅名だった。その後に改称されたのである。「たぐち」の文字なら小学校1年生でも読める。私たちは次の関山で降り、関山スポーツホテルというロッジ風の宿に2泊したかと思う。冬はスキー客でにぎわうのだろう、ロビーには大きな薪暖炉が設えてあった。この宿を拠点にバスで野尻湖などをめぐったのである。
 そんな思い出を胸に再訪した関山駅は、あまり駅舎らしからぬ三角屋根の建物に変貌していた。もっとも旧駅舎の格好がどうであったかは覚えていないのだが。しかも駅自体がわずかに移転したとかで、旧駅跡は近所に放置されていると観光案内所で教えられた。ついでに関山スポーツホテルの存在も聞いてみるが、もう十数年も前に廃業したという。
 スイッチバック解消のために打ち捨てられた旧駅のプラットホームはススキや雑草に覆われていた。だが「せきやま」の駅名標が錆を浮かせながらもそのまま残り、側溝には秋の日差しを反射して清水がキラキラと輝いている。時の移ろいを感じてちょっと涙したくなった。
 いったい、50年前に利用した列車は何だったのだろう。復刻版時刻表の1958年11月号によれば、おそらく上野9時10分発の金沢ゆき急行603列車〈白山〉だったのではないかと考えられる。横川で駅弁を買った時間帯とも符合する。
 ところが、この列車は関山には停まらないのだ。旅館案内のページで関山スポーツホテルを探すと「関山温泉」の欄に記載があり、関山駅から燕温泉ゆきの川中島自動車バスに乗ったと思うのだが、バスと列車の時刻を突き合わせると、どうも接続がしっくりいかない。長野あたりで普通列車に乗り換えたのか。いや、そんな記憶もない。あるいは田口で下車して赤倉ゆきのバスに乗ったのだろうか。いやいや、たしか一度停まった列車がまた動きだしてホームに入ったはずで、だとすればやはりスイッチバックの関山だろう。
 旅の詳細なメモでも残っていれば当時の行程を容易に復元できるのだが、私の幼少期のアルバムにはホテルや野尻湖の白黒写真が数葉貼られているだけである。そこに写っている母は、私の関山再訪から半年後にこの世を去り、上からファインダーを覗く方式の年代物の二眼レフカメラを携えていた父も、一年あまり前についに帰らぬ人となった。(三菱地所㈱札幌支店長から4月1日本社内部監査室長に異動)