2011年5月12日木曜日

東日本大震災

その時、私は…

 その時はマレーシアのマラッカ。国際キワニスのアジア・太平洋総会の開会式の最中、次期ガバナー役で出席していた。日本の状況はNHKの放送がそのまま届くので時々刻々分かるが、電話はなかなかつながらない。日本から参加の会員、家族らの不安が募る中、各国の参加者から次々とお見舞いや同情の声がかかる。
 引き続く歓迎夕食会の席上、ホスト国のマレーシア、最大デレゲーションの台湾をはじめ、1月の地震の際、真っ先に見舞いの申し出があったのは日本からだったというニュージーランドの代表らが続々と壇上に立ち、期せずして募金の機運となる。即席の段ボールの募金箱が700余人の参加者の間を回り、たちまち多額の義援金が寄せられたのだった。改めてキワニスファミリーの厚い友情を実感した瞬間である。そこには間違いなく日本という国への深い信頼感と親近感があったことを思い起こすとき、思わず目頭が熱くなる。         (齋藤 蓊)
 

大震災の何日か前、高校(都立西)の同期の集まりで、大手メーカーにいたH君が「これからは原発の時代だ。これを嫌うなら電化製品を捨て、戦後の停電レベルに戻れ」といった。私が「でも大地震のときは」といったら「新幹線の方がずっと危ないぞ」といった。3月11日、報道によれば関係した新幹線二十数本は緊急停止し、お客様は無事だった。福島第一原発は停止したが、危機はじわっとやって来ている。原発自身の問題というより保守管理、正確な情報伝達ができていないことによるものか。
 今度H君に会ったら、彼は何というのかな。       (矢島 明彦)
 

その時、家にいて原稿を書いていた。棚から本が落ちてきた。テレビがひっくり返りそうだったので、あわててテレビを押さえた。随分長い時間そうしていたように思う。
 それからずっとテレビを見続けた。これほどまでの被害が出るとは想像もできなかった。知り合いに今のところ犠牲者はいない。   (松浦 和英)
 

あれだけの地震は、無論初体験。JRエビスビルの10Fは激しく揺れた。生来苦手な地震に引導を渡されるのか。まぁイイ年だからもって瞑すべしか。と、その時「このビルは丈夫にできているので倒れる心配はありません。どうぞ落ち着いて下さい」という館内放送が繰り返された。それを聞くうち魔法が解けたように身体から力が抜けていった。何という心強くタイムリーなメッセージか。ビルメンテナンスマンの日ごろの修練の賜物か。一度この声の主に会ってみたいと思う。       (岩崎 雄一)
 

3月11日は例年通り課税申告をすませて、午後2時50分ごろ、帰宅して茶の間に入った途端、大きな揺れを感じました。思わずテーブルに両手をついて周囲を見回し、テーブルの下にもぐるべきか、このままやり過ごすかと考えているうちに、地震はおさまりました。玄関を飛び出し、あたりを見回しました。道路の電柱に備えられた変圧器がいまにも落ちそうな勢いで揺れていました。大工さんに壁に固定してもらった食器棚はビクともせず、無事でした。        (河合 茂美)
 

 大震災、その時……。家の中にいて夫婦でくつろいでいたときでした。家内の悲鳴と共に立ち上がり、まずガスの電源を切り、食器棚の扉を抑えました。彼女は玄関のドアを開ける一方、飼犬を抑えて首輪をかけました。震度5強の揺れでしたのに犬が吠えなかったのは不思議です。横揺れなので東京は心配ないと思いましたが、新幹線は無事であろうかと、その方が気遣われました。わが家は何の被害もなく、すまないくらいです。  (古屋 成正)
 

 キッチンに立っていてフライパンが転がり出した。百年もたっているおばあちゃんの古い桐タンスが一人で歩いたように前進している。本はかなり落下した。揺れは不思議なもので、ビクともしていない部屋と上のものが落ちているところがある。揺れるマンションは安全、揺れない建物は危ないね、とビル建設のプロが教えてくれた。
 地震予知とは、歴史と古典の学問であるとTVで大学教授が話していた。関西の方には源氏物語など1000年前の記録がかなりある。東日本、東北には古い文書がほとんどない。宮城県多賀城にわずかに残された文書をもとに内陸部深く調査したら津波の砂が残されていた。原発の耐震性も含め、巨大津波の予測は研究的には分かっていた。つまり想定内。
 地震国日本は活断層の調査も進み、かなりの予測データができている。東京直下で起きるM7以上の地震は10年以内で30%、30年以内で70%。日時は分からない。
 旧国鉄の労働科学研究所で東京駅を知らない人たちに駅を歩いてもらう実験をしたら、人は右へ右へと進むという。駅中商店街も楽しいが、JRターミナル駅は防災と人の流れも研究してほしい。東海道新幹線の通常運転は心強いですね。     (吉澤  眞)
 
 
 「千葉ふるさと文化大学」で講演を頼まれ、午後2時30分すぎから話を始めた直後でした。場所は千葉県庁そばの「千葉教育会館」5階。聴衆は200人ほどいましたが、平均年齢は70歳近く。さすがに騒ぐ人はほとんどなし。1回目の揺れがおさまり、話を再開すると拍手がわきました。2度、3度の余震に「以下は次回」と解散になりました。エレベーターも止まっていましたが、皆さんの落ち着きぶりに感動を覚えました。電車も止まり自宅までは歩いて3時間。黙々と歩く人の列に日本人の「強さ」を感じました。
             (牧 久)
 
 
 ①その時、赤坂迎賓館前を走るタクシーの中にいた。パンクしたような感じで車が急停車し、ゆっくり跳ね上がるように何度も揺れた。運転手がハンドルにしがみついて「地震ですね。わぁすごい!怖いですねぇ」。声が震えていた。窓の外で道路が波打って見え、頭の上の道路案内板が大きくしなった。初めて体験する不気味な揺れだった。長い揺れが収まって、恐るおそる3時から式典が予定されていた明治記念館まで車で走った。途中あちこちの建物から大勢の人が外に飛び出してきていた。
 ②急いで明治記念館に入ろうとすると玄関先のボーイに止められた。「全館入場禁止です」。辺りを見回すと玄関前の広場に屋外避難の客や従業員があちこちに人の輪をつくっていた。顔見知りの人たちを見つけて興奮気味にそれぞれが地震の怖さを話し合っているところへ2度目の大きな揺れがきた。地面全体がゆっくり横に揺れ庭の大きな木が左右に傾いた。みんな不安そうに顔を見合わせ言葉を失った。「どこかで大変なことが起きているに違いない。ついに東海地震がやってきたのか」と身体が小さく震えた。誰かが「ラジオが震源地は宮城県沖だと言っています」と教えてくれた。知ったかぶりに地震波の解説をし「この揺れでは死者は1000人を超えるかも」。無責任な想定を話した。甘かった。
 赤坂から信濃町、新宿、甲州街道を歩いて3時間半かかって帰宅した。だんだん一緒に歩く人波が増え、渋滞する車の列を追い越した。
 ③いま思うこと。「無常」。そして助け合い、支えあい、励ましあう。やがて人々はこの苦難から立ち上がる、立ち上がらなければならない。現役時代ならやるべきことが山ほどあったのに「俺もトシをとったなぁ」。一日中新聞、テレビを眺めていささか情緒不安定、なかなか平常心が戻らない。
 日本列島は「地震活動期」に入った。次の大地震がやってくる。その時どうするか。あの日あの時間、走行中の新幹線の列車88本は直ちに緊急停止し無事だったと聞いたが、これから緊張の日々が続く。      (曽我 健)
 

 東京・内幸町の日比谷中日ビル5階の中日新聞社友会事務局で、大地震に遭遇しました。電車が不通になったので、そのまま事務局で夜を明かし、千葉・浦安の自宅に帰り着いたのは、翌日の夕方でした。
 市の4分の3が埋め立て地の浦安は地震による液状化で、至る所でドロ水が吹き出し、道路が陥没するなど惨憺たる状況を呈していました。水道管、下水道管、ガス管が破損、水道、ガスは10日以上ストップしたままでした。
 幸い自宅は無事でしたが、水道の出ない生活は大変でした。地震に備え、日ごろからペットボトルの水や、電池などを備蓄しておくことが重要だと、つくづく思いました。 (二川 和弘)
 

 大津波の猛威をテレビ画面で見ながら、前日の牧太郎・毎日新聞専門編集委員のブログを思い出した。三陸沖では9日正午前に震度5弱の地震があり、その余震が続いていた。
 「余震?でも……不気味だ」
 この9日の地震で気象庁の地震津波監視課長は記者会見して「今後丸1日程度、最大で震度4の余震が続く恐れがある」と警戒を呼びかけたが、「大地震の前兆というより、これ以上の大きな地震はないから心配しないように」と断言したのである。
 駆け出しの長野支局で松代群発地震に遭遇した。佐藤栄作首相が現場視察に来たとき、地元松代町の老町長はこう陳情した。「もっと学問を!」。カネやモノでなく、この地震がいつ収まるのか、一日も早く科学の力で解明してほしい。地震予知を求めたのである。1966(昭和41)年5月のことだった。あれから45年である。 (堤 哲)
 

 古今未曽有の東日本大震災が日本列島を襲った時、私は鎌倉のとある裏通りで間近に迫った「ご近所コーラス」発表会のポスター貼りをしていた。掲示板にポスターを打ち付けようとした時、急に足元がふらつき目が回るような感じがした。とっさに思ったのは「これが世に言う脳梗塞の発作というものか」ということである。しばらくして眩暈も収まったのでポスターを貼り終わり、表通りの若宮大路に出て通りを横断しようとしたら信号が消えている。手で車を制しながら通りを渡り、人ごみに近づくと「マグニチュード……宮城県沖……」という言葉が途切れ途切れに耳に入り、さっき私を襲ったのは脳梗塞の発作ではなく、地震の揺れだった事にやっと気が付いた。
 兎にも角にも歩いて家に帰ったものの、停電でテレビも見られないし携帯ラジオの持ち合わせも無く、時々市の広報車が大津波警報の発令と海岸近辺からの避難を触れ回っている。「5、6㍍程度の津波なら我が家までは襲うまい」と高をくくって自宅に閉じ篭っていたが、蝋燭の明かりで食事を終えた8時過ぎになってやっと電気が通じ、テレビを通じて入ってくる激甚な被害に驚愕し心が痛んだ。
 地震の発生から既に4週間が過ぎた今日でも、被災者の多くの方々は大変な不自由を余儀なくされている。その一刻も早い救済は焦眉の急であることは言うまでもない。同時に福島原発事故の制圧は待ったなしの喫緊の課題である。地震や津波とは縁の深い土木工学を学んできた私としては、今回の事象は極めて大きな地震と想像を絶する津波の複合災害であり、原発の直接被害があの程度で済んだ事は一応評価できるものと考える。
 しかし、その後の政府や東電の対応にもどかしさを感じるのは、関係者にとって酷であろうか。この事態の帰趨について世界中の耳目が集まっている。広域にわたる大気や水や食品の汚染を懸念するオーバーな情報が世界中を駆け巡っている状況下、これ以上の事態の悪化を防ぎ制圧する事を何としてでもやり抜かねばならない。さもないと、ただでさえ巨額の財政赤字に悩む日本に対する世界の信頼は一挙に失墜し、日本は永久に立ち直れないだろう。戦争の惨禍から見事に蘇った日本国民の英知を結集すれば必ずやり抜ける事を信じている。
 元鉄道技術者としては、今回の地震によって高架橋や架線柱に相当な被害を生じたものの(この教訓を将来の計画・設計に生かさねばならぬ事は当然として)、乗客に一人の被害も出さなかった事は、ユレダスの設置をはじめとする鉄道事業者の万全の安全対策の賜でありご同慶の至りである。
 会員に多くの報道関係者を擁するペンクラブのためにあえて付言するならば、今回の大震災に関する報道姿勢は全般的に見て抑制が効いた妥当なものであると評価される。  (岡田 宏)