2008年10月9日木曜日

悲惨な状況を冷静に、正確に

柳井乃武夫さんが『万死に一生~第一期学徒出陣兵の手記』を出版

柳井乃武夫さん   


 『万死に一生~第一期学徒出陣兵の手記』(徳間文庫)は、東京帝大2年生だった柳井乃武夫さんが学徒出陣の第一陣として広島の「暁第6142部隊」に入隊するため昭和18年11月29日午後9時半東京駅発の臨時列車に乗り込むところから始まる。
 昭和19年1月14日、セブ島に上陸。軽便鉄道で20㌔ほど北のリロアンへ。第2中隊第2班に編入された。
 船内で発生したパラチフスが蔓延。柳井さんは幹部候補生試験に合格して将校教育のため内地帰還と思っていたが、紀元節の2月11日、40度を超す熱発。真性パラチフスと診断されて「万事休す。将校になることも、内地に帰ることもあきらめなければならない」。
 セブ市の入院先からリロアンに戻ったのが4月2日。一足早く退院した仲間が「甲種幹部候補生として勇躍内地に帰って行ったのはその数日前」。運命の別れ道だった。
 現地の情勢。「私たちは日本では大東亜共栄圏のことを聞かされていて、新聞を読んだ印象では、日本は各地の住民に喜んでもらっていると思っていた。アジア諸国民の幸福のために日本は米英と戦っているのだから、各国は喜んで協力していると想像していた。ところがセブへ来てみると、フィリピン人は日本軍を嫌い、憎悪すること甚だしく、とても喜ぶどころではないことがわかった」
 物資の調達、徴発が現地人の反感を買う。「補給不能のまま兵隊だけを戦地に送り出し、勝手に現地で自給しろという戦法だからこうなる。これでは皇軍も聖戦もなく、住民のうらみは買っても信頼を得ることは不可能だ」
 昭和19年9月12日、米軍機500機による空襲。7月にサイパン島の日本軍は全滅し、米空軍は8月にはサイパン、テニアン島をB29の発進基地としていた。「この空襲があってからは、わが部隊は出撃することとなり」、ポロ島(セブ島の東、レイテ島との間にある珊瑚礁の島)へ進出したが、戦闘どころか洞窟から洞窟への逃避生活を余儀なくされた。部隊は散り散りとなり、柳井さんらは「山の兵隊」になった。かつて日本軍の侵攻で島民は山に逃げてゲリラ化した。アイ・シャル・リターンで米軍が戻って、逆の立場に追い込まれたのだ。
 むろん20年8月15日の敗戦も知らない。至近距離から狙撃されたこともある。洞窟内にガソリンがまかれ、火炎放射機を浴びせられた。「万死に一生」の場面がいくつも出てくる。ハラハラドキドキである。
 最後にセブ島に逃げる。仲間は5人。丸腰だった。途中で船が転覆、三八式歩兵銃など所持品を一切失った。住民に見つかって銃撃される。2人が死体となって転がった。里芋の葉かげに伏せる柳井さん。少年に見つかった。銃を持って迫る少年。
 〈「射つな」と叫んで、私は芋畑から少年の前に飛びおりた。少年は震えて私を射たない。呆然としている。そこへ大勢の村民が銃を構えて戻って来て、私を取りかこみ…〉
 投降の場面である。収容所に入れられたのが昭和20年10月16日。〈私は10月18日だと思っていたが、陰暦で行動していたので、セブ島上陸後に勝手が違って2日の誤差が生じたのだろうか〉と柳井さん。12月6日浦賀に復員。頭の中で書いていた日記を「比島敗戦実記―山の兵隊」として大学ノートに記し終えたのが昭和21年1月20日。冷静な筆致、記憶の正確さに舌を巻く。
 作家の阿川弘之さんが推薦のことばで「初めのうちは古年兵のビンタに怯え、あとでは上陸米軍と現地民の追跡に怯え、山中にこもって毎日々々を何とかいきのびるだけの青春従軍記」、JR東日本元社長の住田正二相談役(柳井さんと東大同期)が解説で「大東亜戦争の最大の教訓は、二度とこのような悲惨な戦争をしてはならない、ということにつきる」と書いている。