2009年8月1日土曜日

戦火のサイゴンで航空交渉 ~柳井 乃武夫~

 牧久さんが『サイゴンの火焔樹―もうひとつのべトナム戦争』(ウェッジ社刊)を出版された。さすがに社会部出身のプロだけあり、外報部、政治部をも通して紙面をにぎわせた筆致は見事だ。30年前の南ベトナム崩壊事情を正確に裏表から記述している。サイゴン陥落の最後の日にも現地にとどまって、命がけで取材に送稿に奮闘した記者魂は読者の胸を打つ。これは史実そのもので、後世に残すべき好著といえる。 興奮して読み終わった私は、現地で航空交渉を行っていた当時のことを回想した。それはテト攻勢のさなかのことだった。昭和43年(1968)1月30日のテト(旧正月)を期してベトコン(越共)武装勢力がグエン・バンチュー(阮文紹)大統領統治下の南ベトナム各地で攻撃を開始したのだった。北ベトナムとの境界線の北緯17度線に近い古都ユエも不意打ちされて観光客が立ち往生したり、サイゴンでも米大使館が一時占拠されたりもした。 その直前の12月に岸信介元総理が外遊の途次サイゴンに立ち寄られ、ルオン・テシユウ運輸大臣兼ベトナム航空会長と会談された。その席上、ベトナム航空を東京に乗り入れさせるよう要請を受けた。これは3年来の要求だが一向に実現しないと言われた。先方は日本航空と商務協定を結べばよいと思ったようだが、航空協定は政府マターなのだ。 2月18日、第二次ベトコン攻勢が始まった。翌3月15日には突如「日航のベトナム上空通過を認めない」とわが運輸省航空局に入電があった。澤雄次航空局長は中曽根康弘運輸大臣に報告し、外務省は駐日ベ卜ナム大使を招致して通過許可を要請した。日航機はそれまでのダナンでのベトナム横断ができず、沖合を南下してマレーのコタバルで北上してバンコクに迂回せざるを得なくなった。 昭和14年にも日泰航空協定による大日本航空のバンコク便に対して当時の仏印当局が上空通過を禁止したことがあったが、翌年には日本軍の仏印進駐があって自然解決した。しかし、これは前例にはならない。今度は命により航空局国際課長の私が運輸事務官兼外務事務官として、戦火のベトナムに乗り込むことになった。砲声や銃声を耳にするのは、レイテ戦以来23年ぶりのことだったが、私は1968年3月28日にサイゴンの新山一(タンソンニュット)国際空港に降り立った。 牧さんの著書にも登場するマジェスティック・ホテルの404号室に落ち着くと、白服の年配のボーイさんがあいさつに来た。フランス語で「この部屋は寺内将軍の部屋でした」という。南方総軍の寺内寿一元帥がマニラからサイゴンに移ったのが1944年11月17日で、米軍のレイテ上陸直後のことだった。当時一兵士に過ぎなかった私が、わが最高司令官の居室に滞在するとは光栄なこと。往時を偲び、目を窓外に転じると、そこはサイゴン川の埠頭の広場で、輸送艦が物資の荷揚げ中。私の所属した陸軍船舶兵暁部隊の作業と重なって見えた。 テト攻勢下のサイゴン市では1、2、3区だけが政府治下にあるといわれていた。夜間は外出禁止令(カーフュー)が発令されており、窓外の対岸では信号弾、ロケット弾、曳光弾が飛び交うのが花火のようだ。銃声や砲声も聞こえ、着弾にともなって停電も頻繁にあった。ホテルでは室内はもとより、最上階のレストランや廊下にも蝋燭を並べており、停電になるとすぐ誰かが飛んできて、火をつけてくれる。そのサービスは良いのだが、蝋燭ではエレベーターもクーラーも動かない。暑さには閉口した。 ホテル前のグエン・フエ通りを行くと、すぐレ・ロイ大路に出る。繁華街の中心だ。休業中の中央停車場の前には運輸省もあるし、正面奥には大統領官邸、右にはエア・フランス、エア・ベトナム、キャラベル・ホテル、コンティネンタル・パレスなどがあって地の利を得ている。しかし便利だから安全とは限らない。この数か月後に、私のホテルのそばのグエン・フエ・ビルにロケット砲弾が打ち込まれて、日経支局長の酒井辰男氏が殉職されたことを私は牧さんの著書で初めて知った。遅まきながら、深く哀悼の意を表してペンの戦士のご冥福を祈る次第だ。 昼間の市内は、右を見ても左を見てもホンダのバイクで溢れていた。ホンダの発電機はべトコンも愛用しており、目下せっせとサイゴン包囲網の地下道掘りに使っていると消息通はいう。情報は北も南もツーツーで、噂として耳に入るが、誰がどちらを向いているかはわからない。どちらの側も、上層部は不思議とフランス語に親近感を示すが、華僑に対する不信と反感には根強いものがあり、一般には英語が浸透していた。 さて航空交渉の件は、紆余曲折を経たが、一定の成果を上げることができた。上空通過禁止は撤回され、エア・ベトナム機も羽田に乗り入れる可能性を得た。合意文書にはルオン運輸大臣と私が署名した。一段と弾着音の大きくなった4月22日、空港閉鎖前最後の便と言われて、私はベトナム航空のプロペラ機でバンコクに向かった。この間の経緯は日本航空の元法務部長で、関東学院大教授、坂本昭雄氏の著書『甦れ、日本の翼』(有信堂刊)の第2章「心に残る航空交渉」に詳しい。私なりに苦労した末、戦火のサイゴンから帰国した私を待っていたのは、5月1日付で国鉄に転勤異動の内命だった。(交通ペンクラブ会員・前日本交通協会会長) 

【編集部注】『甦れ、日本の翼』でこの航空交渉の日本側代表だった柳井さんについて、筆者の坂本昭雄さんは「これまで一緒に働いた数多い役人の中で、柳井氏は最も教えられることの多い人だった。運輸省のエリート官僚でありながら、外国生まれの外国育ちだけあって、練達な外国語と気配りとユーモアに富んだ人物で、一方、戦争中の厳しい経験から胆力が据わっていて、国際交渉に相応しい判断力と剛胆さとを備えた人でもあった」と絶賛している。