2009年8月1日土曜日

高橋浩二さんと新幹線

 高橋浩二さんは中国の青島に生まれ、旧制第五高等学校を経て昭和20年9月、東京帝国大学第二工学部土木工学科を卒業した。東大第二工学部は戦時体制下の技術者逼迫を見越して、西千葉駅近くの広大な敷地に設立されたもので、学生の多くは寮生活を余儀なくされ、戦争末期の甚だしい食糧不足に悩まされていた。高橋さんは若くして牢名主のような存在で、近くの畑から芋を失敬する切込隊の指揮官であったと聞く。 

 20年11月、運輸省に入省し、国鉄本社土木課補佐を経て34年8月、課員100人を超える東鉄施設部工事課長になったが、在任わずか8カ月の35年3月、東海道新幹線工事のために設置された新幹線局工事課補佐を命ぜられ、建設基準の作成や路線選定など、新幹線の原点から携わることとなった。 

 37年8月に東京幹線工事局主任技師に転じ、オリンピックまでの開業にとって最後の難関であった東京・神奈川地区の工事完遂の陣頭に立ち、膠着状態にあったある地区の用地買収に絡んで、多数のヤーさん風の人たちに取り囲まれ怒号を浴びせられても少しも臆することなく、沈着かつ丁重に説得を続けるなど、39年10月の新幹線開業に貢献した。 

 47年7月、高橋さんは門司鉄道管理局長を経て建設局長に任命され、さらに50年7月、常務理事へと進んだ。このころ山陽新幹線岡山―博多間は50年3月の開業を目指して工事の最盛期にあり、東北・上越新幹線は46年10月工事実施計画の大臣認可を得て工事に着手したところだった。 

 埼玉県南部から東京都心にかけての東北・上越新幹線工事は計画発表当初から、各所で極めて激しい反対運動に遭遇した。首都圏の外延化に伴って宅地化が進んでいる地域を新幹線が高架で通過する計画に対して、騒音・振動などの被害を受けるだけで何にもメリットがないとの理由からで、上尾地区、埼玉県南地区、赤羽地区、上野地区、神田地区など枚挙にいとまがなかった。そのどこでも表舞台で、あるいは舞台裏で高橋さんの姿が見えなかったことはない。 

 ほんの一例を挙げれば、埼玉県南部の与野、戸田、浦和の3市は市長も先頭に立って反対を表明し一歩も引かない構えを見せていた。高橋常務理事は国鉄部内にさえ根強かった反対の声を押し切り、自ら埼玉県庁に畑知事を訪ね、反対派の住民に取り囲まれて缶詰状態になりながらも、地下化が不可能である理由を説明し、環境規準を遵守すること、大宮―赤羽間に通勤線(現在では埼京線と呼ばれ県民の重要な足となっている)を併設する事などを約束し、解決の端緒を開いた。 

 高橋さんたちの献身的な努力の結果、予定より大幅に遅れたものの東北新幹線は57年6月、上越新幹線は同11月、大宮までの暫定開業を迎え、60年3月の上野開業によって都心乗り入れを果たす事が出来た。しかし、商店街と軒を接する神田地区を通過し東京駅に乗り入れるには、国鉄改革後の平成3年6月まで待たねばならなかった。 

 東北・上越新幹線の開業時期について真っ赤な嘘をつき通したということで「ときわクラブ」から赤いハンカチを贈られたのも、極めて厳しい情勢から見通しを立て難いこと、地元に無用な摩擦を与えるのを避けたいという配慮が働いたためではなかろうか。  

 高橋さんは国内の新幹線に始めから深くかかわっただけでなく、常務・技師長を通じて新幹線の海外進出にも非常に熱心だった。北東回廊、カリフォルニア、オハイオ、フロリダなど、アメリカ各地の高速鉄道計画に日本財団の協力も得て多くの人材を派遣しただけでなく、自らもアメリカ議会の証人台に立ち新幹線の優位性を滔々と論じた。オバマ政権下で高速鉄道計画がにわかに具体性を帯びているが、高橋さんも草葉の陰でその成功を祈っているに違いない。(交通ペンクラブ会員、元国鉄技師長、元鉄建公団総裁)