2010年2月1日月曜日

自分を褒めてやりたい

68歳 ホノルルマラソン完走記

      牧 久(元日経)






 「人生はマラソンである」といわれる。サラリーマン人生にピリオドを打つことになった昨年初夏、何故かフルマラソンに挑戦してみたい、と思った。会社生活45年余。42・195㌔を走りぬくことは、自分の人生を再発見し、終着駅を見つけることになるのではないか。そんな思いがあったことも確かである。 
 退社した6月ごろから毎日、少しずつ走り始めた。「走る」といえば聞こえはよいが、「歩く」ことに毛の生えたレベルである。それでも最初はすぐ苦しくなった。長い間、運動といえばゴルフくらい。それもカートに乗ることが多かった。3、4㌔の練習を毎日、続けるうちに苦しさは消え、走行距離は次第に伸びた。10㌔を1時間半前後で走れるようになったのである。 
 しかし、フルマラソンというのはズブの素人の私にとって、とてつもなく長い距離である。秋口には何とか20㌔は走れた。「ヤメタ方がいいよ。プロでも30㌔を過ぎると〝ガス欠〟でダウンする人もいる。君の歳での初挑戦、もつわけがない」。友人の多くは冷ややかだった。 
 東京マラソン出場を狙っていたのだが、これには7時間という制限時間がある。やはり無理かな、と思った。石塚正孝さん(元JR東海副社長、㈱ジェイアール東海エージェンシー社長、ちなみに66歳=編集部注)にそんな話をした。彼は還暦を迎えた6年前、ホノルルマラソンに挑戦、5時間台で完走したという。「ホノルルには時間制限がありませんからね、もう一度、走ってもよいと思っているんです。一緒に走りますか」。私の次女も5年前、完走している。「よし、初挑戦はホノルルだ」と決めた。 
 昨年12月13日の第37回ホノルルマラソン。登録したのは2万3248人。10㌔走もあり、その参加者も含めると3万人を超える。6割が日本人だという。クリスマス前の閑散期に観光客を集めることを狙った〝商魂〟マラソンでもある。数日前からJALのチャーター便が続々と到着、街はランニング姿の日本人で溢れかえった。 
 常夏のハワイでは太陽があがると、この季節でもすぐに気温は20度を超える。涼しいうちにという配慮からだろう、スタートは午前5時。午前3時過ぎには、スタート地点のアラモアナ公園付近はランナーたちで埋まった。未明の真っ暗な空に一斉に花火が。スタートの合図である。完走目標が「5時間半~6時間」の表示地点にいた私たちは花火を見上げながらゾロゾロと歩き始めた。スタート地点にたどり着くまで10分以上。靴にはあらかじめ小さなチップを装着、スタート板を踏んだ瞬間から計時がはじまる。10㌔、中間点、30㌔、40㌔、ゴールの計時が自動的に本部に入り、誰がどこを走っているかが瞬時にわかり、本部前に表示されるシステムだ。 
 スタートすると西に約2㌔、ダウンタウンに向かう。夜明け前のビジネス街にはクリスマス用の様々なイルミネーションが点灯され、目を楽しませてくれる。ダウンタウンを回り込むとワイキキのホテル街へ。沿道は観光客や地元の応援団で埋め尽くされている。潮騒を耳にしながら、ワイキキ海岸を通り抜けると、ダイヤモンドヘッド脇の上り坂にかかる。「心臓破り」といわれるこの坂道、なだらかな上りが約2㌔続く。このあたりから人波がばらけ始めた。 
 スタートから約1時間半。前方の水平線上に真っ赤な太陽が顔を出した。様々な仮装の人が走っている。豚や牛のぬいぐるみ。ピエロの格好をした中年の男。若者たちはファッショナブルでカッコいい。色とりどりのランニングシャツに帽子。菅笠に白装束の遍路姿の老人、紋付はかまに高下駄の若者。イタリア人のグループが国旗を先頭に走る。「徳島大学マラソン連」のプラカードを持った学生の一群も。まるでお祭りである。 
 ダイヤモンドヘッドを左に回るとカラニアナオレ・ハイウエーへ。この日は全8車線の片側4車線を完全に止めた。東に向かう2車線が往路、半分が復路である。直線で7㌔半。早くも復路をゴールに向かうランナーが続々走ってくる。〝解放〟されたハイウエーは歩行者天国ならぬマラソン天国である。普段は「クルマ道」であるハイウエーが「人の道」となった。みんな道いっぱいに広がり楽しそうだ。道路は人が「歩き」、人が「走る」ためのものだったことを実感する。 
 ハイウエーを抜けると、オアフ島の東端、ハワイカイに出る。小さな入り江がいくつもあり、朝日を反射してまぶしい。付近の高級住宅にはそれぞれ専用のボート桟橋があるという。ハワイカイの小高い丘を一回りして海岸線に出ると、再びハイウエーに戻る。中間地点だ。「スタートから3時間」の表示が見えた。「このまま走れば6時間を切れるかも」。希望がわいてきた。 復路のハイウエーを下りると、ワイアラエ・ビーチ方向へ左折。カハラの高級住宅街に入る。豪邸は咲き誇るブーゲンビリアやハイビスカスの生垣に包まれている。どの家も門前にテーブルや椅子を持ち出し、ビール片手の観戦だ。ケーキやアメ、バナナ、パイナップルなどを用意し、ランナーに振舞う家も多い。四国遍路の〝ご接待〟を大掛かりにしたようなものだ。明るい声援に重い足も自然に動き出す。 
 再びダイヤモンドヘッドにかかる40㌔付近で、すぐ前を石塚さんが走っているのに気がついた。彼も気づいたようだが、お互いに声を交わす余裕はない。それからは「抜きつ、抜かれつ」のデッドヒート、と言いたいところだが、人目にはヨタヨタ、フラフラの状態だっただろう。2人は5時間44分36秒の同着でゴールにたどり着いた。 〝談合の結果〟でないことは別表のラップタイムをみれば明らかだ。ちなみに私の次女は4時間30分44秒。1時間以上も前にゴールしていた。 
 この日の完走者は2万316人。トップはケニアのイブチ(招待選手)で、2時間12分14秒。私たち2人は1万1149位。60歳代のランナーは1413人いたがうち705位。最高齢者は89歳で、80歳台のトップは5時間で完走した。最後の走者は12時間58分6秒。日が沈んだ後からのゴールだった。 
 日本は今、マラソンブームといわれる。各地でフルマラソンの大会が開かれ、今春の東京マラソンには27万人の申し込みがあったという。健康志向もあるだろう。だが、走り終えて感じたことは「苦しさの先にある何か」を人々は求めているのではないか、ということだ。戦後の高度成長で、日本人は苦しさを忘れ、贅沢な飽食の時代が続いた。そんな時代が挫折した日本。マラソンはお金も技術も要らない。必要なのは自分の意志と忍耐力である。自然回帰願望がマラソンブームの底にあるのではないか、と思えてならない。 
 マラソンには2時間で走る超特急もあれば、急行、鈍行もある。上り坂、下り坂、時には〝まさか〟のハプニングもある。「もう止めよう」と思うこともしばしばだ。「苦しくなった時、休んではいけません。休むとイヤになってしまいます。苦しいときは屈伸運動を数回してゆっくり走り続けなさい。それが完走の秘訣です」。前日のコース下見のガイドの言葉である。私の人生も特急には乗れなかったかもしれないが、休むこともなく、それほど組織に迎合することもなく、そこそこ中庸な人生を走り終えることができたのではないか。マラソンの結果と同じだったような気がした。