新年互礼会は午後7時まで2時間に及んだ。歓談の最後に国際鉄道連合(UIC)会長の石田義雄JR東日本副会長が「フランス国鉄が欲しいと言ったのは日本の鉄道技術ではなく、清掃の女性など現場で働いている人たちでした。ハードでなくてソフト。日本人の徳性を大事にしたい」と話して、お開きとなった。
100号へメッセージ
返信用はがきにあったメッセージを紹介します。
◇上京するには体力が伴わず欠席のしっぱなしです。長寿番付のベスト10入りのようですが、一度機会があればと思っています。盛会をお祈りします。 (助川文郎)
◇御無沙汰しております。長寿先輩にあやかりたい新年を迎えました。小生、喉を手術をしてから声を失い、病院通いが日課となっています。それでも朝の散歩には努めており、昨年は「長崎」へ、現在は北海道を目指して北上中で、東京は10月に通過したことになります。
皆様の御健康を祈念しています。 (草木陽一)
◇私は国鉄末期の10年あまりの間、専ら運賃値上げの担当者でした。鉄道の仕事でこんなに面白くない、つらい仕事があるとは全く考えてなかったので、道を誤ったのかと何度も考えました。しかし、この「値上げ」のお蔭でペンクラブ会員の報道関係の皆さんとお付き合いできるようになり、それは今日に続いて、そこから私は心の糧を得ることができました。不思議なご縁だと思います。会報も100号を超え、さらに発展されることを祈ります。 (須田寛)
◇「交通ペン」100号発刊、おめでとうございます。200号発刊を目指して、交通ペンクラブの益々のご隆盛をお祈りします。 (渡辺克凡)
◇交通ペンクラブ及び会員各位の健勝、ご発展を心よりお祈りいたします。 (長森利春)
◇輝かしき100号記念、おめでとうございます。今後ますますの発展をお祈りいたします。 (米田勉)
◇明けましておめでとうございます。あわせて「交通ペン」第100号の発行、お祝い申し上げます。毎号楽しく拝読させていただいております。今後とも誌面を通じて、現役広報マンに“刺激”を与えていただければ幸いです。 (中村芳明=JR東日本企画)
◇前略、新年会への御誘いありがとうございます。独り歩きは無理になりました。 皆様に宜しく御伝え下さい。 (有賀宗吉)
◇「ときわクラブ」を旅立ってから40余年。注入されていた鉄分も残り少なくなってきた。それもサビつきがひどい。八十路の坂は何とか乗り越えたものの足腰のガタつきは急加速中。最近は鉄路よりも戸口から戸口への車を好む。間もなく車イスか? 交通ペン会報百号バンザイーイ! (赤澤弘)
◇現役時代、正月原稿で「夢の超特急リニアで東京―大阪1時間」という記事を書いた。夢のつもりで書いた話が、今や現実になって来た。一番列車が走るまで生きていなくっちゃー。 (久谷與四郎)
◇100号おめでとうございます。いよいよの御発展を願っております。 (斎藤雅男)
◇ことし8月25日、満95歳になります。いろいろこれまで病気をしましたが、90歳台になってから元気で暮らしています。酒は日本酒1合毎日飲んでいます。 (厚川正夫)
◇会報100号おめでとうございます。継続は力です。 (谷哲二郎)
◇世界、日本社会、個々の人間、すべてに影響を及ぼす構造変化は、人類史上何度も起きたことですが、現在の変化の規模、意味合いはかつてなく大きなものでしょう。 メディアはインターネットの登場で、グーテンベルク、電波の利用以来の変革、鉄道はエネルギー、環境要因に加えて政権交代も変革要因に加わって、やはり大変革でしょう。そんな中で、記憶力の衰えと闘いながら、まだ多少理解力がある間は、歴史の行方を定めたいと思っています。 (隈部紀生)
◇毎号手にするたびに編集の堤さんのご苦労に感謝しています。改めてありがとうございます。また創刊当時の?さんの頑張りを思い出します。私の勤務先だった日本民営鉄道協会へ来てはお茶を飲みながら鉄道の良さを話していました。絆を感じる紙面にお二人の気持ちがうかがえます。 (平野雄司)
◇鉄道ブーム!
レールに愛を覚える人、
驛に胸が疼く人、
切符に心が躍る人、
配線に頭が狂う人。
(諸岡達一)
◇時代は急速に変わりつつあります。しかし、変化がすべて良いとは限りません。残すべきものを残す。伝承する――大先輩健在の交通ペンの存在価値はまだまだ大きいと思います。 (牧久)
◇石田禮助さんが国鉄総裁に就任されたのは昭和38年5月、喜寿の年でした。その時秘書を命ぜられた30歳の小生もいつの間にか喜寿となり、これからは石田さんから教わった老年の意気地のようなものを大切に過ごしたいものと思っています。 (岩崎雄一)
◇100号おめでとうございます。歴代編集担当のご苦労に感謝! 鉄道屋はとかく鉄道の殻に閉じこもってしまうので、ペンクラブの集まりは外に開かれた数少ない世界。若手を誘って存続発展させて下さい。 (中島啓雄)
◇ますます化石人ぽくなってきた。パソコンなし、携帯電話なし、デジカメなし、手書きオンリーなので原稿の注文なし、もちろん金もなし。でも、ないないづくしでも、とくに不満はなし。のんびりあせらず、達観して過ごそうと思う。
といいながら、先日はカラオケで調子に乗り過ぎてぶっ倒れたし、タクシー運転手に1000円札と5000円札を間違えて渡してしまった。度し難い酔っ払い人生だ。 PS、運転免許を返上したので、車の運転もなし。旅はもっぱらJR。 (松浦和英)
◇最近、学校友達に頼まれて鉄道の話をすることになりましたが、さて門外漢に何を話題にしようかと思案。手元にある本や資料を見返していますが、改めて鉄道人の造り上げてきたシステムの偉大さに思いを致しています。交通ペンで楽しめるのは余慶でしょうか。今年もどうぞ宜しく。 (小澤耕一)
◇交通ペンクラブ会報100号、おめでとうございます。国鉄改革から早いもので23年、私自身、国鉄とJR貨物の経験が同じ長さになった。いずれにせよ、46年間鉄道一筋に生きてきたことになる。19世紀は鉄道の時代、20世紀は自動車の時代、21世紀は環境問題等あり、鉄道見直しの時代である。これが世界のすう勢ではないだろうか。 (伊藤直彦)
◇J―フォンの責任者をしていた頃、故馬渡(一眞)さんから「最近、元気な会社の人が少なくなってきました。ペンクラブに出席しませんか?」とお誘いを受けました。歴史は新しいのです。今も感謝しています。 (林義郎)
◇交通ペンの第100号発行、誠におめでとうございます。これ迄関係された堤様はじめ皆様方の御尽力に心から感謝申し上げます。JRが発足してもう20余年となります。「未だに」というよりは「今こそ」、JR各社にとって「競争と協調」よりは「協調と競争」が大事な時期だと思います。交通ペンは今日迄そういう点で大きな役割をされてきたことに敬意を表すると共に、東京駅丸の内本屋が復原の頃には消滅するやにいわれていることは大変心淋しいことです。 (柳田眞司)
◇明けまして御目出度存じます。今年も元気で頑張ろうと思っています。交通ペン100号、お祝い申し上げます。関係者の御苦労に感謝します。今後も宜しくお願いします。 (仁杉巖)
◇我々はどこから来たのか。我々は何者か。我々はどこへ行くのか(ゴーギャン)。
時折、千の風気分で見渡すと、この世は興味津々。少々不謹慎な云い方ですが、何を見ても聞いても新鮮で面白い。どんなトラ年になるでしょうか。ことしも出会いを大切に、楽しみにしています。 (曽我健)
◇交通ペンクラブのますますのご隆盛ご発展を心からお祈り申し上げます。誠にご苦労様ですが、曽我さん、堤さんのお二方には栄えある50周年記念まで頑張って下さるようお願い申し上げます。 (山本佳志)
◇新しいエトは「庚寅(かのえとら)」。故安岡正篤師によれば、庚は「草木が芽ばえる“はじめ”の意」、寅は「同志助け合い、つつしむの意」という。されば新年は「旧来のからを破って前進するが、ともに慎み、扶け合わなくてはならない年」となる。
60年前、昭和25年、1950年の“庚寅”では、戦争の半世紀から平和への半世紀に大きく転換した。しかし、朝鮮動乱、ベトナム戦争と、戦火は消えなかった。一国のリーダーが八方美人の空言をくり返す限り、信用も信頼もなくなる。早くも次なる改革者にバトンタッチの年になろう。 (鈴木隆敏)
◇毎年暮れに送られてくる交通ペンクラブの新年会の案内に「長寿番付」が載るようになってもう何年になるだろうか。掲載が始まって数年後、私もその末席、つまり10番目に名が出るようになった。大分経って9番目に上がったが、その後はまた動かない。
私が一つだけ上がったのは、ほかでもないこの交通ペンクラブをつくった勢種彦さんが亡くなられたからで、他の番付上位の方々は皆さんお元気で頑張っておられるわけだ。何とも素晴らしい。この番付は、相撲と違って下がることはないが、上がるのも望ましくない。少しでも長く同じ所に留まっていれば目出たし目出たしだ。まだ番付に載らない会員諸氏の中にも、大正生まれ、昭和初期生まれが続々と? 続いておられるらしい。この方々が番付に載るのが、一日でも遅いことを願って止まない。
私が入っている他のいくつかの会では、たいてい私が最年長。表向きは敬意を表されているみたいだが、本音は「敬遠」ではないかと勘繰ったりしている。当会では、そんな勘繰りをしなくていいのも有難い。「交通ペン」は100号を迎えたが、こんな具合で、やがて会員の中から100歳の方が次々と現れるのも、夢ではないように思われる。 (河合恭平)
◇NHKの衛星テレビで放映している「にっぽん木造駅舎の旅」を見逃さないようにしている。先日、大阪と和歌山を結ぶ南海電鉄の浜寺公園駅(堺市)が登場、昔と変わらぬ華麗で荘重な駅舎が見事に映し出され、感慨無量だった。
番組などによると、この駅舎は1907(明治40)年、白砂青松の優美な海岸で知られた浜寺海水浴場の玄関口として建てられた。設計したのは、赤レンガのJR東京駅や日本銀行を設計した辰野金吾と、当時大阪で活躍した建築家、片岡安だという。平屋建ての洋風建築で、玄関の柱は鹿鳴館のテラスの柱を彷彿させる重厚な構え。1998(平成10)年、国の登録有形文化財に登録された。実は、私は76年前、この駅近くの浜寺諏訪の森の住宅地で生まれた。浜寺公園駅の木造駅舎を見ながら毎日、駅そばの双葉幼稚園に通ったことを覚えている。 (二川和弘)
2010年2月1日月曜日
ハードよりソフトを大事に
ラベル: 100号