2009年8月1日土曜日

交通協会に「ふるさとの駅」寄贈



 曽我代表幹事、思い出の詩

 

2009年度交通ペンクラブの総会が七夕の7月7日午後5時から日本交通協会大会議室で開かれた。席上、曽我健代表幹事が長年、お世話になったお礼として、日本交通協会の三坂健康会長に詩人、鈴木比呂志さんの「ふるさとの駅」の扁額を贈った。
  

   ふるさとの駅 
   ふるさとの駅には 
   やさしい 母の匂いがする 
   旅から 帰ってくると 
   その ふところに 抱かれたくなる
 

 この詩の作者で、書家でもある鈴木比呂志さんが、NHKニュースキャスター時代の曽我健さんに贈った作品。群馬県富岡市の上信電鉄上州一ノ宮駅が最寄り駅の鈴木さんは1959(昭和34)年から、待合室に駅長がつくった「詩の壁」という展示空間に、模造紙に毛筆で詩を書いて貼り出し、乗客の心を慰めた。 
 朝日新聞の「天声人語」や曽我さんの番組でも紹介された。その詩碑が上州一ノ宮駅のホームに建っている。 鈴木さんは1921(大正10)年生まれ。NHKラジオ歌謡のレギュラー詩人として活躍。作曲家の山田耕筰氏らとともに「松井田高校」をはじめ500を超える校歌や抒情詩を数多く作詞した。古典にも造詣が深く、源氏物語の現代詩訳『源氏その愛と憂愁』『光源氏と王朝の女人たち』(いずれも講談社刊)を出版している。 
 交通ペンクラブの「ふるさとの駅」は、かつては旧国鉄本社のときわクラブ、今は日本交通協会。額は「交通ペンサロン」が開かれるラウンジの壁に飾られることになっている。

七夕総会にぎやかに

 七夕総会の参加者は47人。最長老は元読売新聞の魚住明氏で7月30日に91歳の誕生日を迎えた。昨年度に著作を出された会員が4人。「やっとペンクラブらしくなりましたね」とある会員からいわれた。ロバートソン黎子夫妻がワシントンに戻られる歓送会も兼ね、JTBの女性広報室長も初参加して、にぎやかな一足早い暑気払いとなった。 


4人の会員作家が誕生 


 曽我健代表幹事がまず収支報告。次いで4人の作家が誕生したことを報告した。元NHKの古屋成正(ペンネーム・松原誠)氏が『碧眼の叛逆児天草四郎』(日本放送出版協会刊)、元日本交通協会会長の柳井乃武夫氏が『巴里の街角から』(交通新聞サービス刊)、元産経新聞の鈴木隆敏氏が『新聞人福澤諭吉に学ぶ――現代に生きる「時事新報」』(産経出版刊)、元日本経済新聞の牧久氏が『サイゴンの火焔樹』(ウェッジ刊)をそれぞれ出版した。 


 次いで2011年に東京駅が創建時の姿に復元開業するのに合わせ「交通ペンクラブ解散」を改めて宣言。来年の総会でフェードアウトの具体策を提案する。 

 来賓のあいさつはJR東日本副会長で、UIC(国際鉄道連合)会長の石田義雄氏。「せっかくの交通ペンクラブをあわてて解散しなくてもよいのでは」と話した後、世界が新幹線時代に入ったことに触れ「UICの会長に昨年なりました。日本の新幹線を世界に売り込めといわれますが、そう簡単なことではない。フランス国鉄の幹部が視察に来て、一番欲しいものはといったら『JR東日本の社員を輸出してくれないか』といわれた。よりレベルの高い鉄道事業の運営を目指します。引き続きよろしくお願いします」とあいさつをした。 

 続いて元JR西日本会長の井手正敬氏がやはり「解散は時期尚早」と、交通ペンクラブの存続を訴えて乾杯の音頭を取った。 

 しばらく歓談のあと、4人の作家が壇上に。作家の松原誠氏は「宝塚の舞台にもふさわしいと思って宝塚に3冊送りました。NHKFMでも放送しました」。柳井氏は「国鉄広報部長の経験者で一番の年長になります。思い出話が尽きません」、鈴木氏は「慶應義塾150周年の展覧会が8月から横浜で開かれます。招待券を差し上げますので、会場で本をお買い上げいただければ幸いです」、牧氏は「日経を辞めて、恥ずかしながらジャーナリストという肩書の名刺をつくりました。どうしてもあの続編を取材しなくてはと思っています」と、それぞれが著作への思い入れを語った。






ワシントンで新幹線の売り込みを 

 引き続きロバートソン黎子、トーマス・ロバートソン夫妻が壇上に。「ワシントンに帰るといっても、航空券は片道だと40何万円もするので、往復のチケットを買って行き来することになります。また例会に出席するかも知れません。きょう七夕は結婚記念日。お誘いをありがたくお受けしました。オバマ大統領が新幹線の建設をいっています。ワシントンのプレスクラブに入って、日本の新幹線の売り込みが出来たらと思います」と黎子さん。ロバートソンさんは「台湾の新幹線を乗りに行ったツアーが大変印象深かった。ワシントン―ニューヨーク間に新幹線ができたらいいですね」と語った。 

 そこに飛び込んできたのが、JTB初の女性広報室長、波潟郁代さん。「すいません、会議が長引いたものですから」。昭和63年入社というから国鉄が分割民営化した後の入社だ。早速先輩たちが取り囲み記念撮影。岩本龍人(元取締役東北本部長)、岩崎雄一(元代表取締役専務・元副会長)、柳井乃武夫(元広報担当常務)の各氏。代表幹事の曽我健氏は大学(新潟大学)の先輩にあたる。さらに男社会の「交通ペンクラブ」で女性の会員が3人も集まったのは史上初? と吉沢眞先輩を真ん中に写真を撮ろうとしたら、脇にいた男性陣も加わったのが上の写真だ。若い女性がひとり参加すると、この騒ぎだ。歓談は午後7時半過ぎまで続いた。

30年前の戦いの意味を問う

 元日経新聞の牧久さんの『サイゴンの火焔樹 もうひとつのベトナム戦争』(ウェッジ刊)の出版記念パーティーが6月22日、東京・内幸町の日本記者クラブで開かれた。交通ペンクラブの面々を含め350人にものぼる出席者で、発起人が壇上に勢ぞろいした開会時は、入口から人があふれるほどだった。 交通ペンクラブの曽我健代表幹事が2番目にあいさつして、牧さんがときわクラブにいた駆け出し記者時代の思い出を語り、続いて「諸君!」編集長の斎藤禎日本経済新聞出版社会長が「ベトナム戦争終結10年の企画でサイゴン陥落後の各紙の記事を縮刷版で読み比べましたが、牧特派員電が一番よく実態を報告していた」と、「諸君!」85年6月号の「サイゴン1975.4.30 (サイゴン陥落10年)」を牧さんに執筆依頼した経緯を話した。 会場には、日経の鶴田卓彦元会長、杉田亮毅会長らも詰めかけ、さながら日経のOB会。中川秀直・自民党元幹事長は「社会部のとき、牧さんに厳しく鍛えられました」とあいさつした。 
最後の最後にお礼を述べた牧さん。「きょうで日経新聞をやめました。45年の日経生活でした」と、爆弾発言。東京五輪の64年に入社して副社長からテレビ大阪会長となり、07年から日経の顧問になっていた。「30年ぶりにベトナムを再訪して、当時の助手らと再会。スパイ容疑がかけられたり、国外に脱出したりで、あの革命は何だったのだろう、というのがこの本を書くきっかけでした」。 
 当時毎日新聞のサイゴン特派員だった古森義久氏(産経新聞ワシントン駐在編集特別委員)は産経新聞の書評(6月28日)で「闘争の主役だったはずの南ベトナムの革命勢力が勝利後に圧殺された事実や、旧政権側に生きた市民たちが新社会では排され、削(そ)がれていった事実をも具体的な事例を重ねて告げていく。その結果、ベトナム戦争全体の実像が立体的に姿を現す」とつづった。 日経社会部の後輩で月刊「ファクタ」の阿部重夫編集長は「頑としてサイゴンに居残り続け」「身の危険を顧みない記事にはタブーのはずの臨時政府批判もあって生々しかった」と、牧特派員の記事を評価、この本については「フトマキさん(社会部時代の愛称)、あなたは『ベトナムの敗者』の証人だったのですね」とブログに書いている。

”日本一”だった新聞を紹介


 鈴木隆敏さんの『新聞人福澤諭吉に学ぶ─現代に生きる「時事新報」』(産経新聞出版)の出版記念パーティーが6月17日東京・銀座の交詢社で開かれた。 昨年11月から12月にかけ産経新聞に24回にわたった連載をまとめたものだが、連載のきっかけとなったのは、鈴木さんが日本新聞協会機関誌『新聞研究』2008年4月号に「時事新報は生きている─現代の新聞に与える示唆」を書いたことによる。福澤諭吉が1882(明治15)年に創刊した「時事新報」の題字は消えているが、会社はまだ生きていて、産経新聞社会長の清原武彦氏が代表取締役、鈴木さんは監査役で、年に1度株主総会も開かれていると意外な事実を発表した。 


 それが連載につながったもので、パーティーには福澤諭吉の曾孫にあたる三菱地所相談役の福澤武さんや、安西祐一郎・前慶応義塾塾長、交詢社理事長の鳥居泰彦・元塾長らが出席。交通ペンクラブからは山岡通太郎、日本交通協会理事長の前田喜代治両氏が顔を見せ、JR東日本の薬師晃広報部次長が大塚会長、清野社長からの花束を贈呈した。意外なところでは旧国鉄63年入社の入山映・元笹川平和財団理事長の姿も。 


 鈴木さんと慶大同期の清原会長は「せっかくだから本紙に連載したらと持ちかけた」とあいさつ。鈴木さんの妻宏子さんは「一日中パソコンの前に座っていたこともある」と原稿を書くのに悪戦苦闘していたことを暴露。鈴木さんも「連載を始めてすぐ体調を崩して3日間入院しました」と明かした。連載がストレスになっている、と主治医に指摘されたという。 


 鈴木さんによると、「時事新報」は発行部数とともに、その内容と言論性の高さによって日本一の新聞だった。創業5年目の1886(明治19)年、第1面に広告を満載し、「日本一の時事新報に広告するものは日本一の商売上手である」という広告のコピーまでつくった。 


 事業面も活発で、初めて美人コンテストを行い、現在毎日新聞に継承されている大相撲の優勝掲額やクラシック音楽の登竜門・日本音楽コンクールなども時事新報が始めたものだ。

戦火のサイゴンで航空交渉 ~柳井 乃武夫~

 牧久さんが『サイゴンの火焔樹―もうひとつのべトナム戦争』(ウェッジ社刊)を出版された。さすがに社会部出身のプロだけあり、外報部、政治部をも通して紙面をにぎわせた筆致は見事だ。30年前の南ベトナム崩壊事情を正確に裏表から記述している。サイゴン陥落の最後の日にも現地にとどまって、命がけで取材に送稿に奮闘した記者魂は読者の胸を打つ。これは史実そのもので、後世に残すべき好著といえる。 興奮して読み終わった私は、現地で航空交渉を行っていた当時のことを回想した。それはテト攻勢のさなかのことだった。昭和43年(1968)1月30日のテト(旧正月)を期してベトコン(越共)武装勢力がグエン・バンチュー(阮文紹)大統領統治下の南ベトナム各地で攻撃を開始したのだった。北ベトナムとの境界線の北緯17度線に近い古都ユエも不意打ちされて観光客が立ち往生したり、サイゴンでも米大使館が一時占拠されたりもした。 その直前の12月に岸信介元総理が外遊の途次サイゴンに立ち寄られ、ルオン・テシユウ運輸大臣兼ベトナム航空会長と会談された。その席上、ベトナム航空を東京に乗り入れさせるよう要請を受けた。これは3年来の要求だが一向に実現しないと言われた。先方は日本航空と商務協定を結べばよいと思ったようだが、航空協定は政府マターなのだ。 2月18日、第二次ベトコン攻勢が始まった。翌3月15日には突如「日航のベトナム上空通過を認めない」とわが運輸省航空局に入電があった。澤雄次航空局長は中曽根康弘運輸大臣に報告し、外務省は駐日ベ卜ナム大使を招致して通過許可を要請した。日航機はそれまでのダナンでのベトナム横断ができず、沖合を南下してマレーのコタバルで北上してバンコクに迂回せざるを得なくなった。 昭和14年にも日泰航空協定による大日本航空のバンコク便に対して当時の仏印当局が上空通過を禁止したことがあったが、翌年には日本軍の仏印進駐があって自然解決した。しかし、これは前例にはならない。今度は命により航空局国際課長の私が運輸事務官兼外務事務官として、戦火のベトナムに乗り込むことになった。砲声や銃声を耳にするのは、レイテ戦以来23年ぶりのことだったが、私は1968年3月28日にサイゴンの新山一(タンソンニュット)国際空港に降り立った。 牧さんの著書にも登場するマジェスティック・ホテルの404号室に落ち着くと、白服の年配のボーイさんがあいさつに来た。フランス語で「この部屋は寺内将軍の部屋でした」という。南方総軍の寺内寿一元帥がマニラからサイゴンに移ったのが1944年11月17日で、米軍のレイテ上陸直後のことだった。当時一兵士に過ぎなかった私が、わが最高司令官の居室に滞在するとは光栄なこと。往時を偲び、目を窓外に転じると、そこはサイゴン川の埠頭の広場で、輸送艦が物資の荷揚げ中。私の所属した陸軍船舶兵暁部隊の作業と重なって見えた。 テト攻勢下のサイゴン市では1、2、3区だけが政府治下にあるといわれていた。夜間は外出禁止令(カーフュー)が発令されており、窓外の対岸では信号弾、ロケット弾、曳光弾が飛び交うのが花火のようだ。銃声や砲声も聞こえ、着弾にともなって停電も頻繁にあった。ホテルでは室内はもとより、最上階のレストランや廊下にも蝋燭を並べており、停電になるとすぐ誰かが飛んできて、火をつけてくれる。そのサービスは良いのだが、蝋燭ではエレベーターもクーラーも動かない。暑さには閉口した。 ホテル前のグエン・フエ通りを行くと、すぐレ・ロイ大路に出る。繁華街の中心だ。休業中の中央停車場の前には運輸省もあるし、正面奥には大統領官邸、右にはエア・フランス、エア・ベトナム、キャラベル・ホテル、コンティネンタル・パレスなどがあって地の利を得ている。しかし便利だから安全とは限らない。この数か月後に、私のホテルのそばのグエン・フエ・ビルにロケット砲弾が打ち込まれて、日経支局長の酒井辰男氏が殉職されたことを私は牧さんの著書で初めて知った。遅まきながら、深く哀悼の意を表してペンの戦士のご冥福を祈る次第だ。 昼間の市内は、右を見ても左を見てもホンダのバイクで溢れていた。ホンダの発電機はべトコンも愛用しており、目下せっせとサイゴン包囲網の地下道掘りに使っていると消息通はいう。情報は北も南もツーツーで、噂として耳に入るが、誰がどちらを向いているかはわからない。どちらの側も、上層部は不思議とフランス語に親近感を示すが、華僑に対する不信と反感には根強いものがあり、一般には英語が浸透していた。 さて航空交渉の件は、紆余曲折を経たが、一定の成果を上げることができた。上空通過禁止は撤回され、エア・ベトナム機も羽田に乗り入れる可能性を得た。合意文書にはルオン運輸大臣と私が署名した。一段と弾着音の大きくなった4月22日、空港閉鎖前最後の便と言われて、私はベトナム航空のプロペラ機でバンコクに向かった。この間の経緯は日本航空の元法務部長で、関東学院大教授、坂本昭雄氏の著書『甦れ、日本の翼』(有信堂刊)の第2章「心に残る航空交渉」に詳しい。私なりに苦労した末、戦火のサイゴンから帰国した私を待っていたのは、5月1日付で国鉄に転勤異動の内命だった。(交通ペンクラブ会員・前日本交通協会会長) 

【編集部注】『甦れ、日本の翼』でこの航空交渉の日本側代表だった柳井さんについて、筆者の坂本昭雄さんは「これまで一緒に働いた数多い役人の中で、柳井氏は最も教えられることの多い人だった。運輸省のエリート官僚でありながら、外国生まれの外国育ちだけあって、練達な外国語と気配りとユーモアに富んだ人物で、一方、戦争中の厳しい経験から胆力が据わっていて、国際交渉に相応しい判断力と剛胆さとを備えた人でもあった」と絶賛している。

遺骨収集の野口さんと対談

 柳井乃武夫さんとアルピニスト野口健さんの対談が、7月下旬に発売された月刊誌「問題小説」8月号(徳間書店発行)に掲載された。 野口さんは、ヒマラヤ登山の「マイナス30度の強風の吹きすさぶテントの中で」生きて帰れたら、遺骨収集にあたろうと決心する。生死の間で、祖父から聞いた太平洋戦争末期の南洋の島で戦死していった兵士の話を思い出したのだ。 昨年3月、フィリピン・セブ島に渡って、遺骨収集作業を行った。そして柳井さんの著書『万死に一生~第一期学徒出陣兵の隊手記』(徳間文庫)に出合った。ことし3月、3回目のフィリピンへ。柳井さんたちの戦闘現場、セブ島、レイテ島、ポロ島で1406体の遺骨を収集し、遺骨とともに帰国した。 つい最近まで民間団体による「遺骨収集」は許可されていなかった。「灼熱地獄のジャングルをさ迷い、必死の思いでご遺骨を発見してもどうにもすることができなかった」と野口さんは口惜しい思いをブログに書いている。これを読んだNPO法人「空援隊」(本部・京都、倉田宇山代表)が協力を申し出た。この団体は「何が何でも遺骨を祖国に還す」とセブ島に現地事務所まで作って遺骨収集をしているのだ。今では厚生労働省もこの空援隊の情報をもとに政府の収集団を派遣しているという。 対談の内容は、雑誌が発売前なので不明である。野口さんから拝借した写真を掲載したい。

高橋浩二さんと新幹線

 高橋浩二さんは中国の青島に生まれ、旧制第五高等学校を経て昭和20年9月、東京帝国大学第二工学部土木工学科を卒業した。東大第二工学部は戦時体制下の技術者逼迫を見越して、西千葉駅近くの広大な敷地に設立されたもので、学生の多くは寮生活を余儀なくされ、戦争末期の甚だしい食糧不足に悩まされていた。高橋さんは若くして牢名主のような存在で、近くの畑から芋を失敬する切込隊の指揮官であったと聞く。 

 20年11月、運輸省に入省し、国鉄本社土木課補佐を経て34年8月、課員100人を超える東鉄施設部工事課長になったが、在任わずか8カ月の35年3月、東海道新幹線工事のために設置された新幹線局工事課補佐を命ぜられ、建設基準の作成や路線選定など、新幹線の原点から携わることとなった。 

 37年8月に東京幹線工事局主任技師に転じ、オリンピックまでの開業にとって最後の難関であった東京・神奈川地区の工事完遂の陣頭に立ち、膠着状態にあったある地区の用地買収に絡んで、多数のヤーさん風の人たちに取り囲まれ怒号を浴びせられても少しも臆することなく、沈着かつ丁重に説得を続けるなど、39年10月の新幹線開業に貢献した。 

 47年7月、高橋さんは門司鉄道管理局長を経て建設局長に任命され、さらに50年7月、常務理事へと進んだ。このころ山陽新幹線岡山―博多間は50年3月の開業を目指して工事の最盛期にあり、東北・上越新幹線は46年10月工事実施計画の大臣認可を得て工事に着手したところだった。 

 埼玉県南部から東京都心にかけての東北・上越新幹線工事は計画発表当初から、各所で極めて激しい反対運動に遭遇した。首都圏の外延化に伴って宅地化が進んでいる地域を新幹線が高架で通過する計画に対して、騒音・振動などの被害を受けるだけで何にもメリットがないとの理由からで、上尾地区、埼玉県南地区、赤羽地区、上野地区、神田地区など枚挙にいとまがなかった。そのどこでも表舞台で、あるいは舞台裏で高橋さんの姿が見えなかったことはない。 

 ほんの一例を挙げれば、埼玉県南部の与野、戸田、浦和の3市は市長も先頭に立って反対を表明し一歩も引かない構えを見せていた。高橋常務理事は国鉄部内にさえ根強かった反対の声を押し切り、自ら埼玉県庁に畑知事を訪ね、反対派の住民に取り囲まれて缶詰状態になりながらも、地下化が不可能である理由を説明し、環境規準を遵守すること、大宮―赤羽間に通勤線(現在では埼京線と呼ばれ県民の重要な足となっている)を併設する事などを約束し、解決の端緒を開いた。 

 高橋さんたちの献身的な努力の結果、予定より大幅に遅れたものの東北新幹線は57年6月、上越新幹線は同11月、大宮までの暫定開業を迎え、60年3月の上野開業によって都心乗り入れを果たす事が出来た。しかし、商店街と軒を接する神田地区を通過し東京駅に乗り入れるには、国鉄改革後の平成3年6月まで待たねばならなかった。 

 東北・上越新幹線の開業時期について真っ赤な嘘をつき通したということで「ときわクラブ」から赤いハンカチを贈られたのも、極めて厳しい情勢から見通しを立て難いこと、地元に無用な摩擦を与えるのを避けたいという配慮が働いたためではなかろうか。  

 高橋さんは国内の新幹線に始めから深くかかわっただけでなく、常務・技師長を通じて新幹線の海外進出にも非常に熱心だった。北東回廊、カリフォルニア、オハイオ、フロリダなど、アメリカ各地の高速鉄道計画に日本財団の協力も得て多くの人材を派遣しただけでなく、自らもアメリカ議会の証人台に立ち新幹線の優位性を滔々と論じた。オバマ政権下で高速鉄道計画がにわかに具体性を帯びているが、高橋さんも草葉の陰でその成功を祈っているに違いない。(交通ペンクラブ会員、元国鉄技師長、元鉄建公団総裁)

国内最速の新幹線


東北新幹線は来年12月に東京―新青森間が開業するが、国内最速の時速320㌔で走る新型車両(E5系=写真)が宮城県利府町のJR東日本新幹線総合車両センターで公開された。ときわ(常盤)グリーンが特徴で、営業運転は2011年3月から。最高速度は当初300㌔、13年3月までにはフランスのTGVと同じ時速320㌔運転となる。

鉄道展

 鉄道マニアの会員・米山淳一氏(元日本ナショナルトラスト事務局長)が企画コーディネートした鉄道展を夏休みに合わせて京都と東京で開催。 

【大鉄道展】8月23日までJR京都駅のジェイアール京都伊勢丹7階の美術館「えき」KYOTOで。ことし全通120年を迎えた東海道線や新幹線、関西の鉄道の歴史などを紹介。主催は読売新聞大阪本社。 

【大鉄道博】8月1日から31日までグランドプリンスホテル新高輪で。見て・触って・体験しよう!がキャッチフレーズで、ハイビジョン映像を使った鉄道運転シミュレーションや、HOゲージやプラレールのジオラマが会場につくられ、体験できる。

故藤田湘子会員の全句集

 『藤田湘子全句集』が角川書店から4月に刊行された。遺句集「てんてん」までの11句集を集大成。「交通ペン」に掲載された句も入っている。湘子さん=写真=の俳誌『鷹』主宰の小川軽舟さんが毎日新聞5月31日付で紹介したその代表作――。

 ・愛されずして沖遠く泳ぐなり
 ・うすらひは深山へかへる花の如
 ・芋の葉の大きな露の割れにけり
 ・真青な中より実梅落ちにけり
 ・湯豆腐や死後に褒められようと思ふ
 ・あめんぼと雨とあめんぼと雨と

メトロポリタンプラザ21世紀会

 JR池袋駅西口にメトロポリタンプラザビル(地上22階)が92年6月に開業して今年で17年。ホテルメトロポリタン、東京芸術劇場と西口開発の「3点セット」といわれたが、ダサイといわれた池袋が新宿・渋谷に並ぶ副都心に成長、豊島区が文化庁長官からことし「文化芸術創造都市」の表彰を受けた。 
 「メトロポリタンプラザ21世紀会」は7月10日発足。会長は当時の池袋ターミナルビル社長・竹内哲夫氏、名誉会長に中島二三夫現社長。発起人が吉村雅司氏らで、会員に毎日新聞OBの大澤栄作、堤哲両氏ら50人ほど。「開業に合わせ『毎日グラフ』で池袋を特集、2千人にお渡しした」と大澤氏。