2009年5月1日金曜日

日本ナショナルトラストが設立40周年

ともかく知名度アップを

大塚会長 観光立国の追い風受けて

 (財)日本ナショナルトラスト(JNT)の設立40周年記念の式典とシンポジウムが4月20日、東京上野の東京国立博物館平成館大講堂で開かれた。明治百年の1968(昭和43)年に設立、自然景観の保護や地域遺産を観光資源として利活用するなど地道な活動をしてきたが、お手本とした英国のナショナルトラストは遥かに遠い存在。観光立国をめざして昨年10月には観光庁が新設され、「ナショナルトラスト運動の推進」が施策のひとつにあげられている。JNTに追い風が吹き始めた。  
大塚陸毅会長(JR東日本会長)は「財団の社会的役割はますます重要になっている。ともかく知名度をアップして、会員を増やそう」と呼びかけた。                               

自慢の長鼻ちょっと短く


 山梨リニア実験線に新しい試験車両がお目見えし、4月3日から試験走行が始まった。実用化に向け先頭車両の先頭部の長さを23㍍から15㍍に短縮するのと同時に、車体の形状も円形から角形に改良した。JR東海は昨年5月に実験線を42・8㌔へ延ばす工事を始めた。完成する2013年度末から12両編成による時速500㌔での長距離走行実験を続ける。

JNT 「飛躍の予感ある」

 シンポジウム 厳しいが温かい指摘

 
 シンポジウムのテーマは「未来へとつなぐ地域遺産―美しい自然と貴重な歴史環境をまもるナショナル・トラスト活動のこれから―」。 
 基調講演はアレックス・カー氏=写真。1952年生まれの米国人。64年に初来日、エール、オックスフォード両大学で日本学と中国学を学び、慶應義塾大学に留学中の73年に徳島県祖谷の山村に茅葺き民家を購入、篪庵(ちいおり)と名づけて住めるように改装、屋根もふき替えた。現在では株式会社「庵」を設立して、京都の町家を宿泊施設などに再生させている。四国でジェイアール四国アーキテクツ(東矢英二社長)が展開している事業と同じだと思っていたら、「提携しています」と話した。
 「美しい日本―歴史的建造物の活用と日本ナショナルトラストへの期待」の講演は、終始耳の痛いものだった。過疎地に放置されている日本家屋。どうしてよみがえらせないのか。篪庵(4間×8間)は土地120坪(約396平方㍍)とともに38万円で購入、囲炉裏を囲んで食事がとれるようにしたり、寝泊りできるようにしている。「文化遺産を破壊、捨て去っているのですよ」と流ちょうな日本語で。 
 自然の景観を壊しているのが、道路建設などの公共事業だ。鉄やコンクリートの構造物が山水画のような景色を台無しにする。看板広告や、地上の電柱や電線も景観を損なっていると、指摘した。 
 「日本の田舎をすくいあげるのは最後は観光だと思う」と述べ、JNTについては「飛躍の予感がある」と活動に期待を寄せた。 
 この後のシンポジウムで、JNTについて厳しい意見が出た。「観光資源保護財団」が設立時の名称で、堀木鎌三氏(2代目会長)が旧鉄道省の後輩梶本保邦氏に財団づくりを託した。梶本氏は5代目会長で、6代目は杉浦喬也氏、現大塚会長が7代目会長となる。 
 英国ナショナルトラストの会員は現在356万人。JNTは個人2000人、団体90に過ぎない。英国では大きな邸宅に宿泊できたり、レストランがあったりで、年間の収入が1000億円、JNTは1億円程度(水嶋智観光庁観光資源課長)。 
 これに対し、西村幸夫東大教授は「英国ナショナルトラストの誕生は1895年。その40年後、1935年は現在の日本の会員と変らないだった。創設から60年以上経って一気にテイクオフした。くじけないで会員増をめざしてほしい」と話した。 
 知名度アップのためのアイデアも出され、前文化庁文化財監査官の苅谷勇雅氏は「JNTブランドの商品をつくり、プロパティーやヘリテージセンターに置いたらどうだろうか」と提案した。「JNTの出番ですよ」は会場を埋めた400人の共通認識になったと思われる。シンポジウム終了後、上野精養軒で開かれた意見交換会で、JTB会長の佐々木隆氏(財団評議員)は「オバマ大統領誕生は草の根の献金でした。私も初めて財団に個人的な寄付をしたいと思います」といって乾杯の音頭をとり、喝采を浴びた。

前途洋々 「第3の柱」

4,000万枚突破した「suica」と「PASMO」

 「Suica」と「PASMO」の発売枚数が4月5日で4000万枚を突破した。JR東日本は、このスイカ事業を本来の鉄道事業、駅と鉄道に関連した生活サービス事業に次いで「第3の柱」と位置づけている。「改札」の変革から思わぬ発展へ、である。 
 スイカのサービスが始まったのは、2001年11月18日だった。新宿駅南口でオープニングセレモニーが行われ、東京圏424駅で一斉に導入された。 
 その後、04年3月22日に電子マネーサービスを始め、07年3月18日からは「PASMO」が登場し、首都圏ではカード1枚でJRも私鉄も都営も改札が「タッチ・アンド・ゴー」となって、便利になった。 
 で、08年1月に「Suica」と「PASMO」の発売枚数が3000万枚を超えた。その伸びはさらに加速して、4月5日現在で4003万枚(Suica2812万枚、PASMO1191万枚)となっている。 
 「改札」の変革から思わぬ発展へ、という表現は2月2日、交通協力会が主催した交通シンポジウム「鉄道の将来展望―技術と経営はどうあるべきか」の中で、JR東日本の大和田徹常務のスライドにあった。 
 改札係の駅員がカチャカチャと芸術的な音を響かせながら乗客の切符を切っていたのは、そう昔ではない。そういえば切符を乗客に持たせたまま入鋏する、改札係の「持たせ切り」が問題になったこともあった。 
 自動改札は私鉄が先行していて「国鉄のような広いネットワークを持つ鉄道では自動改札は無理だ」というのが常識になっていた。山之内秀一郎著『JRはなぜ変われたか』によると、自動改札の導入はキセル防止になるのではないか、その損失額を年間300億円、売上にすると6000億円を失っていると試算。「自動改札は採算のあう設備投資」となったというのだ。 
 JR東日本が始めたのは90年。しかし、定期券の乗客はいちいちケースから出さなくてはならない、今から思えば大変不便なものだった。むろんすでにスイカの開発は進められていた。その功労者は三木彬生(現神奈川臨海鉄道㈱特別顧問)、椎橋章夫(JR東日本執行役員IT・Suica事業本部副本部長)氏らだが、詳しくはJR東日本のHPの研究開発ストーリー「Suica誕生」をお読みいただきたい。 
 香港では97年9月からオクトパスを導入していた。カードにICチップが内蔵されていて、地下鉄もバスも自動改札装置にかざすだけで通過できるうえ、ショッピングにも利用されていた。今のスイカと同じ機能を持っていたのである。 
 香港に負けてはいられないというものの、ICカードは磁気券と比べ一桁高かったという。実用化に向け弾みがついたのは「1枚500円のデポジットをお預かりする」というアイデアにあったと、山之内さんは書いている。 
 大和田常務の発表によると、スイカ事業は「グループ経営ビジョン2020―挑む―」で経営の第3の柱として確立させる、とある。スイカは乗車券の機能や、駅ナカで買物をするときの電子マネー機能、クレジットカードや携帯電話との一体化のほか、個別認証機能を持つことからオフィスビルへの入退館、商店のサービスポイント制などにも活用できる。そのうえチップにはまだ他に機能を載せる「空き」があり、「さらなるビジネス展開」も可能という。 
 駅の券売機もそうたくさん必要なくなり、駅構内のスペースの再編で新たなサービスを提供することが可能だ。将来的には駅空間全体がモデルチェンジされる。 
 そして「ライフスタイルに革命」をもたらし、「Suicaシステム」が社会インフラ化される、と大和田常務は胸を張った。

常世田三郎さんを偲んで

格闘家集団の中の心優しきレスラー  吉村 俊作

「七社会」 
 トコちゃん常世田三郎が東京新聞朝刊発行要員として千葉新聞から移籍し、社会部の警視庁担当になったのは1956年の春である。当時「七社会」の東京新聞は、あとにもさきにも類のない武闘派の集まりだった。 
 キャップ(浅野章=後に社会部長)、サブキャップ(河井克夫=同発送部長)を除く8人のメンバー中、5人が大学体育会格闘系の出身。海野幸秀(故人=慶大ボクシング部)、香原勝文(同=日大ラグビー部、空手部)、桜川史郎(福井大柔道部)、村本信孝(専修大空手部)。桜川の講道館四段以外は自称ないしは眉唾……もあったらしいがもう一人、トコちゃんのレスリングは正真正銘の本物だった。 
 トコちゃんは中大レスリング部フェザー級のホープ、メルボルン五輪の有力候補だった。出場はできなかったが、メルボルンで中大レスリング部はフェザー級笹原正三、ウェルター級池田三男が共に金メダル。フライ、ウェルターの4、5位にも入賞という輝かしい記録を樹立している。 
 ともあれ東京新聞の5人組は、堂々たる押し出しに鋭い目付き。格闘技に特有の変形耳あり、「因縁試合の反則パンチでつぶされた」という隻眼あり。締め切り後に3、4人が連れ立って新橋に飲みに出掛けると、チンピラ達が道を譲ったという伝説がある。桜川が振り返る。 
 「『もはや戦後ではない』という流行語があったが、裏を返せば盛り場のあちこちに未だ戦後が残っていた。道の真ん中にドラム缶を持ち出し焚き火をしているヤクザ風がいてサラリーマンがこわごわ通っているから『おい、危ないから消しなさい』と注意したら、一瞬ジロリとこっちを見たが、歩が悪いと思ったのか黙ってバケツの水をザブリ。武勇伝なんていうほどじゃないがね」 

シェイクハンド固め 
 土橋あたりですれ違った女連れの屈強な若者(後で有名大学の重量挙げ選手と判明)をぼこぼこにした実話、銀座裏での派手な立ち回り等々。荒っぽいエピソードがあるが、トコちゃんはこのテの話のどこにも登場しない。 
 東京新聞の品川移転後、東口のとある小料理屋でこんな場面を目撃した社員がいる。閉店間近、見なれない客が入ってくるなり「女将、女を出せ!」と騒ぎ始めた。筋肉隆々の二の腕に入れ墨が覗いていて、店内は一瞬静まり返った。 
 すっと立ち上がって男の隣に座ったのが常世田さんだった。「まぁ、いっぱい注がせて下さい」なんて言いながら男の手を取って「立派な腕だ。ご商売は? 沖仲仕さんか、流石だ。お近づきのしるしに握手しましょう」 
 次の瞬間、男が悲鳴を上げた。 「おい痛い!離せ、離してくれ、頼むから離して下さい。女将、勘定……」 
 女将に耳許で何事か囁かれ、ぎょっとトコちゃんを見やった男がほうほうの体で帰った店内は、見事な“フォール勝ち”に大拍手。 
シャイな人情家 
 3支局(立川、千葉、横浜)の支局長、社に上がってから二つの部(社会事業、校閲)の部長時代を通じて、人情家トコちゃんは部下に慕われた。長い付き合いだったJR広報マン氏の退職後、競馬好きの彼に中央競馬の入場券を人知れず贈り続けた一面もある。
 「吉村、頼むからもうやめてくれ」 そうするよ、トコちゃん。では最後に質問を一つだけ。ときわくらぶ名物記者一世一代の特ダネは何だった?強烈な握手を喰らう前に言ってしまおう。常世田三郎という存在そのものが稀にみる特ダネだったのだ、と。=敬称略、お礼参り無用(元東京新聞)

「トコちゃん」と「フルさん」

常世田さんの告別式にて   曽我健


 髪は少々薄くなったがちょっとあごを突き出して、半分照れくさく半分得意気な表情。祭壇にはいくつになってもいたずらっ子のような常世田さんの写真が飾られていた。いい笑顔だった。 
 「あのねぇ、みなシャン」今にも例の角栄節が聞こえてきそうな気がする。 小田原から駆けつけた浄土宗城源寺の古林肇道住職が導師を務め、一人で木魚を叩きながら「なむあみだぶつ、なむあみだぁ」と経を読んだ。 
 住職は元はと言えば毎日新聞記者。もう40年も昔になるが常世田さんとは国鉄ときわクラブで机を並べ記事を書き、麻雀で遊んだ。幼馴染のように「トコちゃん」「フルさん」と呼び合って、傍目から見てもいい仲間だった。交通ペンクラブ発足のときからの会員でもある。 
 クラブ1年生の私から見れば常世田さんは百戦錬磨の大先輩で、神出鬼没、自由奔放、それでいてさりげなく細やかな気配り、みんなに一目置かれていた。仕事を愛し、和して同ぜず、決して群れず、勝負事は抜群の強さだが淡々と溺れることなく、今振り返るとその頃から人生を達観しているようなところがあった。その辺でも僧籍の「フルさん」と気持ちが通じていたのかもしれない。 
 まさか常世田さんが声をかけたわけではないのだろうが、脳出血で意識不明になった1月3日、同じ日に古林さんも本堂で動けなくなり救急車で運ばれたという。脳梗塞で3週間の入院、出血場所の違いが生死を分けたが不思議な縁を感じる。 
 その古林住職が万感の思いをこめて告別式で「トコちゃん」に送った餞別の言葉を再録させてもらう。フルさんは通夜の席でこんな話もした。 
 「トコちゃんはどこへ行ったのか。浄土宗の教えでは西方浄土、極楽浄土。私はないと思っているのだが、あってもおかしくないとも思っている。美しい夕日を拝んでごらんなさい。お釈迦さまがいる。トコちゃんは順応性があるから私たちのところへ帰ってくる。思い出の中に永遠に生きている」 
 住職には珍しく時々言葉に詰まり、少し涙声だった。    (元NHK)
古林肇道住職の弔辞
   究竟大乗浄土門  諸行往生称名勝  我閣万行選仏名  往生浄土見尊体 
 
 人生は苦の海なり。涙の谷なり。咲く花に散る時あり、満てる月に欠くる時あり、生あるものに死あり、楽あるものに苦あり。会う者は常に離れ、盛んなる者の衰うるは人生の常相なり。我等ひとしくこの世に生まれるもやがて白髪、老の身となり、或は病に侵されて遂に死出の旅路の人となる、誰か百歳の齢を保つことを得んや。  
  ここに新華台あり俗名 常世田三郎、  贈る戒名を聞譽通達三心居士と号す。 
 居士は千葉県佐倉の出身、若くしてマスコミを指向し、東京新聞に入社、社会部記者として活躍。特に多年にわたる鉄道記者として辣腕を発揮し「東京新聞に常世田あり」と他社の一目置くところなるも奢らず。性快活にして、田中角栄元総理の物真似を好くし人を和ます。 
 定年退社後は、栄光の過去をさらりと捨て、ほどほどの酒と競馬を楽しんで飄々たり。 
 近年、暖冬とは言え、寒暖定まらざるこの冬、五体不調を訴え、桜便りチラホラ聞こえる三月二十四日午後、突如吹き来たれる一陣の風に誘われ、散るが如くに静かに一人逝く。 
 「鳥鳴き、魚の目に涙」別れは悲しく切なけれども、この深き悲しみは、死に甲斐ある死、生き甲斐ある生を悟る極意たり。そは、居士七十七歳の生涯をもって我らに教示さるところなり。 
 本日、決別の日に当たり、香語を綴り、一句を贈り、餞別とせん。  
  足跡の残らば残れ  足跡の  消えなば消えね  一人旅逝く                                
                                                   十念

大盛況です「大鉄道展」

今年は「ながさき鉄道物語」で出発進行   米山淳一

 東京と九州を結ぶブルートレイン「はやぶさ・富士」は鉄道を愛する熱烈な人々に見送られ、歴史の幕を閉じた。今や鉄道に深い愛着のある方ばかりか、広く一般の人々も鉄道に関心を寄せる時代だ。新幹線を待っていると「次はN700ね」などと若い女性同士の会話まで聞こえて来る。 

 縁あって平成19年夏に江戸東京博物館で開催した「大鉄道博覧会」から、鉄道を題材とした展示会をプロデユースする仕事にかかわることになった。 

 鉄道を生活文化の視点から見つめ直し、鉄道の素晴らしさ、魅力を多くの方々に実感していただくことを目的に楽しいイベントに仕上げることを目指してきた。平成20年度は岡山デジタルミュージアムほか3カ所で開催。今年度は長崎歴史文化博物館(4月18日~6月15日)をはじめ、天満屋(高松市・4月23日~5月6日)、伊勢丹美術館「えき」(京都市・7月16日~8月23日)、高輪グランドプリンスホテル(東京・8月1日~31日)での開催が決まった。 

 4月18日(土)、長崎駅長の出発進行の掛け声で、JR九州長崎支社長の水野正幸氏ら来賓がテープカットを行い、今年度の大鉄道展のトップを切って「ながさき鉄道物語」が始まった。初日は千人を超える盛況。長崎における鉄道の歴史は古く、1865(慶応元)年、トーマス・グラバーが英国製の蒸気機関車アイアンデューク号を大浦海岸で走らせている。新橋―横浜の官設鉄道の開通より7年も早いことが長崎市民の誇りであり、鉄道への関心も高い。 

 館内の展示は、1888(明治31)年に全通した長崎本線や長崎電気軌道、島原鉄道、松浦鉄道など地域の鉄道史や車両、施設などの魅力を余すことなく紹介している。特に東京への道と題したブルートレインコーナーは人気。その豪華さから動くホテルと呼ばれ、九州の人々にとって大切な列車だった。長崎県民は「さくら」に今も熱い思いを寄せる。このほか、特急「つばめ」に使用された1等展望車の実物大複製。つばめ・はとガール、旅客車の設計者・星晃氏コーナー、模型ジオラマなどの巡回展示物が花を添える。また、JR九州の主要駅長の町づくりや観光宣伝の出前トークもあり、盛りだくさんだ。 

 今後、夏休みに向けて地域ごとにテーマを設け開催が続くが、子どもからお年寄りまで3世代にわたり安全、快適で環境に優しい鉄道に親しんでいただける機会となれば幸いである。(地域遺産プロデューサー・元財団法人日本ナショナルトラスト事務局長)

最高得点


 産経新聞の連載をまとめて『新聞人福澤諭吉に学ぶ――現代に生きる「時事新報」』(産経出版刊=写真)を出版した鈴木隆敏氏(69歳、むろん慶大出身で、産経OB)。日本記者クラブの「2008年予想アンケート」で、10問中8問を正解して、最高得点者8人のなかに入った。2度目の最高得点獲得というからスゴイ。

大統領と会見

 交通ペンクラブ会員で文教大学大学院教授の中村恭一氏(66歳、元毎日新聞)は、独立1周年を迎えたコソボ共和国の大統領府に招かれ、3月24日ファティミール・セイデュー大統領と会見した=写真。 

 コソボは昨年2月に独立。岐阜県ほどの広さの国土に200万人が住む。国民の3分の1は15歳以下という若々しい国だが、欧州の最貧国のひとつ。 中村氏は1999年6月、コソボ紛争終結直後に国連が設置した平和維持活動(PKO)国連コソボ暫定行政機構の広報責任者として赴任、1年数カ月にわたってコソボの民主化と復興に尽力した。2001年に文教大学国際学部教授になったあとも、ほぼ毎年同大学の学生とともにコソボを訪ね、支援活動や日本とコソボの友好促進に努めてきた。 大統領は、紛争終結後からの日本政府並びにNGOによる復興支援活動に対して感謝の意を述べた。さらに文教大学生とコソボ同世代の青年たちによる人権問題セミナーや復興支援活動への参加に対してお礼を言って、中村氏と握手をした。 日本では昨年9月に「日本コソボ友好協会」が設立されたが、コソボでも会談翌日の3月25日に「コソボ日本友好協会」の設立会議が首都プリシュティナで開かれ、セイデュー大統領とともに中村教授も名誉会員となった。

会員消息

 ◇JR東日本相談役・日本野球連盟会長の松田昌士氏(73歳)は、3月10日、母校の北海道大学から名誉博士号を授与された。国際文化交流その他の活動を通じ、北大の教育・研究の進展に寄与した功績が顕著だったこと。 松田氏は1959年法学部卒、大学院に進んで61年、法学研究科を修了して旧国鉄に入社した。北大では懇話会委員、運営諮問会議委員、経営協議会委員を務め、観光に関する大学院組織の設置を提言したほか、工学研究科及び観光学高等研究センターの寄附講座を設置、連合同窓会の初代会長を務めた。

 ◇JR東日本副会長の石田義雄氏は、4月1日付で国際鉄道連合(UIC、本部パリ)の会長に就任した。UICは1922年に発足した最大の国際鉄道機関。日本人の会長は初めて。石田氏は1967年東工大機械を卒業して、旧国鉄に入社した運転屋さん。