2009年11月20日金曜日


第209回=11月20日(金)
「週刊誌から見た政権交代」  


サンデー毎日編集長(毎日新聞元政治部記者)

山田道子氏

2009年11月1日日曜日

0系車両が鉄道博物館に

開業当初を懐かしむ
 

 だんご鼻の0系車両が10月21日、さいたま市の鉄道博物館で展示・公開された。1964(昭和39)年10月1日開業に合わせて作られた東海道新幹線の新大阪方の先頭車。JR西日本から譲り受けた。
長さ25・15㍍、幅3・38㍍、高さ3・975㍍。重さ57・6㌧。車内はもとより、床下機器、台車なども見られるように展示されている。 
 
 オープニングセレモニーで、東日本鉄道文化財団理事長の大塚陸毅JR東日本会長が「東海道新幹線が開業した昭和39年10月1日は世界の鉄道を変えた歴史的な日だった。0系は鉄道の高速時代を切り開いた。斜陽だった鉄道を世界中で復権させた」とあいさつ。覆っていた白布を清野智JR東日本社長、清水勇人さいたま市長、関根徹館長が引き、大塚理事長がくす玉を割って、ピカピカに磨き上げられたアイボリーホワイトの先頭車両を披露した。 午後4時15分から一般公開。鉄道マニアが列をつくり、開業当初の東京―新大阪4時間運転時代を懐かしんだ。










★次号は100号記念号 会報「交通ペン」が来年2月1日発行の次号で100号を迎えます。創刊号は1982年1月22日ですから、28年で到達したことになります。 2010年の新年会で盛大なお祝いをして、楽しい100号記念号にしたいと思います。ご支援・ご協力をお願いします。

再現 新幹線出発式

 0系新幹線先頭車の展示に伴って、1964(昭和39)年10月1日午前6時発の一番列車を前に、東京駅で行われた出発式の情景が再現された。45年前のこの出発式に列席していた交通ペンクラブ会員がいた。 
 モノクロ写真を見てください。テープカットしている石田礼助国鉄総裁の左後ろの髪黒々の若者は岩崎雄一氏(1955年国鉄入社)。31歳。石田総裁の秘書をしていた。
 「石田さんは十河さんがテープカットをすべきだと言っていました」と岩崎氏は証言するが、その十河信二前総裁も島秀雄前技師長も出発式に招待されなかった。 
 岩崎氏の左は藤井松太郎技師長で、その後に顔が見えるのが建設局長・仁杉巖氏(1938年運輸省入省)、当時49歳。「名古屋と東京の幹線工事局長で東海道新幹線を建設した。よく出来たな。間に合ってよかったという気持ちだった」と仁杉氏。 
 もう一人、写真には写っていないが、三坂健康氏(1953年国鉄入社)、当時35歳。 
 「旅客課の総括補佐で、前日から徹夜作業でした」。三坂氏は十河総裁の秘書をしており、翌日代々木のマンションを訪ねると、十河は「テレビで見たよ。(東海道新幹線が)出来ればいいんですよ」と話した。しかし、さすがに寂しそうだったという。 
 このモノクロ写真は、岩崎氏が会長をしている(社)全国鉄道広告振興協会に飾ってあったのをコピー機でスキャニングしてもらった。「一列目で存命は私ひとりではないですか」と岩崎氏は感慨深げだった。

新幹線・リニアを売り込もう

在日大使館員らを招きシンポジウム  JR東海が11月16日

アメリカをはじめブラジル、ベトナムなど世界中で高速鉄道の建設計画が持ち上がっている。1964年に開業以来、死亡事故ゼロを続ける東海道新幹線の運営会社・JR東海は、在日大使館員らを招いて高速鉄道シンポジウムを開く。新幹線N700系の性能や、開発中のマグレブ(超電導リニア)を知ってもらい、海外に売り込もうという作戦だ。 

 シンポジウムは11月16日、名古屋マリオットアソシアホテルで開く。葛西敬之会長もレクチャラーとして、国際仕様「N700―I Bullet」を紹介するなど、東海道新幹線システムの高速性、安全性と正確性、エネルギー効率性などをアピールする。終了後の深夜に米原―京都間を通常走行の速度を上回る時速330㌔で走らせ、参加者に体験乗車してもらうことにしている。 


 ちなみに東海道新幹線の営業車両による従来の最高速度は、91年に300系車両が同区間で記録した時速325・7㌔。営業車両による国内最高速度は、03年にJR東日本のE2系1000番台が上越新幹線の浦佐―新潟間下り線で記録した362㌔。 


 超電導リニアによる中央新幹線について、JR東海は南アルプスをトンネルで抜ける最短距離の南アルプスルートの場合、東京―大阪間438㌔、所要時間67分、工事費8兆4400億円で、2045年開業を想定。 


 このデータはJR東海が10月13日に発表したもので、木曽谷ルート(486㌔、所要73分)、伊那谷ルート(496㌔、所要74分)と比較して南アルプスルートの優位性を強調している。 


 リニア中央新幹線は、2025年に東京―名古屋間290㌔で開業、所要時間は40分を予定している。投資額は5兆1千億円。

「特急“燕”とその時代」展

「燕」のスピードアップ秘話  鉄道記者が焚き付けた

 1930年10月1日午前9時、東京駅を発車した特急「燕」は大阪駅に午後5時20分に到着した。所要時間8時間20分。それまでの特急「富士」が10時間52分かかっていたのを一挙に2時間半も短縮した。 
 旧新橋停車場鉄道歴史展示室で11月23日まで 「特急“燕”とその時代」展が開催されている。「燕」の発案者は、当時鉄道省運転課長の結城弘毅(1878―1956年)だったが、結城課長にスピードアップを焚きつけたのは鉄道記者の先輩・青木槐三さん(写真・1897―1977年)だ、と「誕生のエピソード」にあった。 
 青木の書著『国鉄』(64年刊、新潮社)によるとその経緯はつぎのようだ。1929(昭和4)年夏、結城が大阪から運転課長に転任してきた。「外国に比較して日本列車のスピードがノロイことを挙げて、スピードアップを提唱した」 
 これに対し結城は、現在の蒸気機関車C51を使い、東京―大阪間をノンストップで飛ばせば8時間に短縮できる、と答えた。 
 「新聞に書いてもいいか」「差し支えない」 
 東京日日新聞(現毎日新聞)の特ダネとなった。 
 SLは1㌔走るのに100㍑の水を使うといわれ、一番の問題は給水だったが、30㌧積みの水槽車を新造して連結、箱根の山を越すときは補助機関車をつけた。乗務員の交代も炭水車(テンダー)と水槽車に渡り板と手すりをつけて、走りながらだった。 
 最高時速95㌔、表定速度68・2㌔。試運転のときは、EF50形電気機関車の牽引で最高時速102㌔を出した。評定速度は、それまで最速の特急「富士」より16・6㌔もアップした。 
 同展の図録には、鉄道記者・青木の功績として、鉄道博物館に保存されている重要文化財「1号機関車」が九州の島原鉄道に払い下げられているのを知って、これを国鉄に里帰りさせるために動いたことが記されている。「彼はその後も交通ジャーナリストとして活動し、鉄道界に理解と協力を惜しまなかった人物である」と書かれているが、東海道新幹線実現のために、十河信二総裁と島秀雄技師長の「応援団」として大活躍したことも付記したい。




2010年 有楽町駅 開業100年

 有楽町駅が来年開業100年を迎える。「交通ペン」25周年記念号(2007年7月発行)に、元毎日新聞・諸岡達一会員の「有楽町界隈 新聞街のバラード」を掲載したが、改めて開業時を振り返ってみたい。

 有楽町停車場の開業は、1910(明治43)年6月25日だった。 
 「日本帝國鐵道史は今六月廿五日高架線鳥森有楽町(報知社裏)間の開通によって新に價値ある頁を加へた、新線路は短い、然し其長蛇の様な煉瓦壁上を轟ッと走る汽車の響は正に現代新文明が擧げた雄々しい勝鬨である」 
 これは「報知新聞」6月25日付1面の記事である。 
 1面の真ん中に山ノ手線々路図(上図)を載せ、東海道線新橋(現在の汐留貨物駅)―浜松町駅間から枝分かれして、烏森(現新橋駅)―有楽町まで延びたかを示している。 
 社会面には煉瓦アーチづくりの有楽町駅のイラストが載っている(左ページ)。通行人の服装を除けば、現在と全く変わっていないように思う。 
 新橋―上野間を高架鉄道で繋げて山手線を環状線として完成させること、その間に中央停車場(現東京駅)を建設することになり、ベルリンの高架鉄道にならって1900(明治33)年に着工した。日露戦争(04年開戦)のため工事は一時中断した。煉瓦を積み上げたアーチづくり。終点有楽町駅は、駅長室や事務室はアーチの下にあって面積約40坪(132平方㍍)。ホームは「梯子段を上った高い所にあって、濱松町のと同じ長さ三百尺である」。 
 実は、開業時のホームの原形が今も残っているのである。有楽町駅の1・2番線ホーム。京浜東北線の北行と、山手線の内回りホームだが、その5号車から9号車にあたる5両分、長さはちょうど100㍍。ここに12本の鉄桁がホームをまたいで渡してあるが、これが使い古しのレールなのである。現在のレールと比べるとかなり細い。明治5年の鉄道開業時に使われていたものではないか、と専門家は言っている。 
 有楽町駅も空襲で被害を受けた。1945(昭和20)年1月27日、疎開をするための乗車券を求める列に爆弾が落ち、客87人と駅員9人が死亡した。駅舎も燃えたはずである。しかし、ホームの鉄骨は残ったのだ。 
 報知新聞の社屋は、現在「ビックカメラ有楽町店」(読売会館)になっている。その通りを隔てて西側に、銀座から引っ越してきたのが「東京日日新聞」(現在の「毎日新聞」)。有楽町駅開業の前年、1909(明治42)年だった。1927(昭和2)年に朝日新聞が現在の「マリオン」のところにやってきて、「有楽町新聞街」が形成されたのである。 
 当時、報知新聞は首都3大紙の一つに数えられていた。あとの2紙は福沢諭吉の「時事新報」と徳富蘇峰の「国民新聞」である 。「読売新聞」に吸収された報知の題字は「スポーツ報知」 として残るが、残り2紙の題字は消えている。栄枯盛衰である。 
 さて、開業のにぎわいをもう少し追いたい。報知新聞の記事には〈千燭光の大アーク灯と数千の紅い提灯に火が入り「晝を欺く電飾」、「明煌々の本社裏」〉とある。    
 一番列車の模様は「東京日日新聞」が詳しい。「午前五時四十分有楽町発九十人乗りボーギー車を以て第一とし同車は運転手土棚倉蔵、車掌久保野久四郎にて十八哩八分なる線路を走りて上野停車場に向かひ以下十五分毎に発車して予定の如く終日七十三回運転したるが、是より先午前四時頃より第一号の乗車券を獲(え)んとして停車場前に詰懸けたる物好きも見受けたり」 
 いつの時代にも鉄ちゃんはいたのだ。上野まで18?余りは約30㌔の計算だが、大崎から渋谷・新宿・池袋・田端・上野だから間違いない。「烏森まで三銭、品川まで九銭で乗り試ししたり、二銭で入場券を買ってホームにあがるものあり」「八時から九時までの一時間に乗客三千二百人、降客三千人で、一車の定員九十人に百四十~五十人も押し込み、泣くやら怒鳴るやら、車中押潰さる程の満員なり」ともある。 
 もう一度「報知新聞」に戻る。中央停車場は3年内に完成とある。3階建て総坪数2900余。中央は皇室専用、南口は乗客、北口は降客専用で「本年秋ごろには現場の中空には鉄柱の聳ゆるを望み得る」としている。高架鉄道は工事費が高い。「銅貨を積んだ一大長壁」とも解説している。これまでに使った資材は3500万個以上、松材3万本、石材10万切で、工事費はすでに5百万円以上かかっている。用地費を合わせ高架線1尺をつくる費用が400円から420円、1寸が60円と計算している。 
 この批判に対し、野村龍太郎鉄道院技監・副総裁代理の談話が載っている。「交通機関の発達につれて高架鉄道の要求されるのは自然の勢いである」「(高架線が)上野迄達すると幹線の連絡が出来、交通上非常に便利となる。其時、中央停車場は市街の中心点となって高架線は実際の活用をなし、交通機関は一段の完成を告げる次第である」 
 中央停車場の開業が1914(大正3)年。その先、神田―秋葉原―御徒町が完成して山手線がぐるり1周の環状運転を始めたのは1925(大正14)年11月だった。「それまでは東京駅から上野駅へ行く交通手段は市電の乗り継ぎしかなかった」と諸岡原稿にある。          (編集部)

十河信二さんの思い出 故高橋久雄氏の寄稿から

 9月23日に亡くなった高橋久雄氏(元東京新聞社会部長)は、交通ペンクラブ創設からの会員で、東海道新幹線をつくった十河信二国鉄総裁の最後の記者会見に出ている。その模様を「交通ペン」創刊号(82年1月22日)と『十河信二(別冊)』(88年6月刊、十河信二傳刊行会)に書き残している。東海道新幹線0系車両が鉄道博物館で公開されたこともあり、一部を再録した。

 「老兵の消えてあとなき夏野かな」 
 これはさる(昭和)三十八年五月十七日午後、総裁最後の記者会見で国鉄を去る心境を問われた十河さんが披露した一句である。ちょっと寂びし過ぎるかな、ともう一句「二万㌔、鉄路伝いに春の雷」と詠んでみせたが、これはかなり以前の作ではないか。俗の俗の私には、俳句の出来栄えなぞ到底分からぬが、「老兵の消えて……」にはズキン、と胸を刺された。 
 十河さんはこの一カ月ほど前からカゼをこじらせて休んでいた。アレルギーと下痢に悩まされたというが、お別れ会見に顔を見せた十河さんにはさすがにやつれが目立った。私はこの時ほど十河さんに老いを感じたことはない。 
 十河さんは療養中、職務を果たせず申し訳ないと当時の綾部健太郎運輸相に電話で詫びている。これがスッパ抜かれると、世間では任期切れを前にした辞意表明と受け取られ、退陣のうわさだけが一人歩きを始めた。そして休養中から早々と後任総裁の下馬評へと発展してゆく。 
 二期八年の総裁の座を下りて国鉄本社玄関を離れたのは、会見から二日後の十九日夕刻近かったが、新聞が長い間「夢の超特急」と呼んだ東海道新幹線の開業は五カ月後に迫っていた。せめてテープカットまで再任を、との一部の声は膨らむこともなく、大海にのまれてしまった。総裁在任中、〝国鉄は私の恋人〟といってはばからなかった十河さんにとって「老兵の消えて……」は無念の一句だろう。 
 あのチョビひげにチョボぐち、拡大鏡のように強いメガネの奥の閉じかかった眼、ぼう洋とした十河さんの面影をたどると、いつもこのお別れ会見のシーンが鮮明によみがえってきて、心が重くなる。 
 心の重い思い出はもうひとつある。それから三カ月たった八月二十四日朝、国鉄は新幹線の開業に備えて東京―新大阪間に営業ダイヤによる初の試運転列車を走らせた。招かれた十河さんは車中で記者団から感想を求められると、「遠足に出かける小学生みたいだねェ」とポツリ口を開いて笑いかけた。しかし笑いにはならなかった。 
 やがて列車がスピードをあげると、記者の輪ができたのは後任総裁の石田礼助さんだけで、十河さんはただ一人、ぼんやり窓外をみつめていた。いったい、どんな感慨なのだろう。飛んでゆく田園風景と、開業を待たず追われるように引退した十河さんの胸の内がオーバーラップして、いいようのない寂しさに打たれた。(中略) 
 東京駅新幹線ホームに十河さんのレリーフが飾られたいきさつを私はよく知らない。しかし開業以来無事故の新幹線発着を見守るレリーフの表情は、開業を一日千秋の思いで待っていた総裁時代と少しも変わらぬではないか。レリーフに見入ると、いつもそんな感慨にひたっている。                           (『十河信二(別冊)』)      
◇ 高橋さんは十河さんの「千駄ヶ谷のマンションはいつもフリーパスだった」と夜討ち取材の思い出や、国鉄の広報体制を確立したのは十河さんだったことも書いている。「交通ペン」には「私の手もとには為書きしてもらった十河さんの書が二つある」とも記している。レリーフは国鉄百年を記念して、1972年10月14日建立された。

あと2年半

 2011年度末の完成を目指して創建時に戻す再建工事が進められている東京駅。丸の内側の板囲いは1914(大正3)年に中央停車場ができるまでをパネルで詳細に解説しているが、最近、オランダのアムステルダム中央駅の写真が掲示された=写真下。隣に現在の東京駅の写真を並べているが、雰囲気がそっくりだ。これでは「アムス駅を模した」といわれても致し方ないところ。両駅は2006年4月に姉妹提携、友好を深めているのだ。

親子会員

 交通ペンクラブで初の親子会員が誕生した。齋籐雅男(1946年運輸省入省、90歳)・雅之(68年国鉄入社、63歳)父子=写真。ジェーアールバス関東(株)会長となった雅之氏が個人会員として入会して誕生した。ともに運転屋さんで、父親は東海道新幹線直後の65年に新幹線支社運転車両部長となり、初期故障の続発に連日のように「ときわクラブ」でレクチャーするとともに、「常習的に起きている故障を一覧表にして番号をつけ、わかりやすい説明も付け加えた」マニュアルをつくって配布したという(同氏の『驀進』から)。 

 その息子雅之氏は広報部報道担当の補佐として「ときわクラブ」の記者に対応。02年JR東日本常務から東京モノレール社長となり、今年ジェーアールバス関東に移った。

鉄ちゃん

 10月14日は「鉄道の日」。新橋―横浜間に初めて鉄道が開業した明治5年9月12日(陰暦)にちなむが、前原誠司国土交通大臣は都内で開かれた記念祝賀会で「日本には300万人の鉄道ファンがいるといわれるが、私自身もそのひとり」と鉄ちゃんであることを表明。さらに「国会議員で最も鉄道好きなのは自分だと思っている。それなのに『高速道路無料化とは何事か』とお叱りを受けそうだが、もちろん実行に当たっては鉄道業界への影響も十分に精査して慎重に判断する」とあいさつした(交通新聞)。 
 一方、旧国鉄のOBたちは「第137回鉄道記念日の集い」を日本交通協会大会議室で開いた。

訃報

高橋久雄氏(元中日新聞)は9月23日逝去。85歳だった

ゴルフ会

 第11回交通ペンクラブ懇親ゴルフ会は10月22日、若洲ゴルフリンクスで6人が参加して行われ、元日経の牧久氏がネット75(グロス101、ハンデ26)で初優勝した。準優勝は柏靖博(元産経)3位は大澤栄作(元毎日)各氏だった。

例会

◇第209回=11月20日(金)「週刊誌から見た政権交代」
  サンデー毎日編集長(毎日新聞元政治部記者)山田道子氏 

◇第210回=2010年2月19日(金)三菱1号館美術館館長・高橋明也氏 

◇第211回=3月19日(金)千葉商科大学政策情報学部教授・宮崎緑氏

ペンサロン

◇毎月第4木曜日の午後5~7時、日本交通協会ラウンジで開いている交通ペンサロンは次回11月26日(木)。12月はクリスマスイブの24日(木)に忘年ペンサロン。会費1千円。