2008年11月26日水曜日

「交通新大陸」の幕開け 2025年中央リニア新幹線開業



葛西JR東海会長が例会で講演


 「採算プロジェクトです」。JR東海の葛西敬之代表取締役会長は、交通ペンクラブの第201回例会(9月19日)で、時速500㌔のリニアモーターカー(超電導磁気浮上式鉄道)を東海道新幹線バイパス計画で実用化することについて、極めて冷静にこう話した。2025年度中に開業予定の東京―名古屋間。その建設費は5兆1000億円にのぼるが、開業当初に経常利益700億円を見込み、「インフラ部分の投資を運賃収入で回収できる」夢の計画の実現というのである。
 JR東海のことしの仕事始めで、葛西会長は「交通新大陸」という言葉を使って、この大事業に取り組む姿勢を社員に訴えた。19世紀に生まれた鉄道が進化して、21世紀の今、時速300~350㌔の高速鉄道時代を迎えている。
 東海道新幹線のバイパスとなる中央新幹線は、レールの上を車輪で走行する「鉄道」ではなく、超電導磁石で車体を10㌢浮かして時速500㌔で走る、世界初の新技術である。これを「交通新大陸」と表現したのである。
 国家的プロジェクトを民間企業が実施する大事業である。例会での葛西会長の講演は1時間と短いものだったが、司会をしていた私は「リニア実現」を確信して、講演終了のあいさつで「あと17年。2025年まで長生きして、一番列車に乗りましょう」と叫んでしまった。
 (交通ペンクラブ事務局長・堤 哲)

時速500キロ、東京―名古屋40分


 
 リニア新幹線によほど関心が高かったのか、この日の例会は270人と過去最高の聴衆を集めた。例会は、正午からカレーライスの昼食をともにして、午後零 時半から1時間講演を聞く、というのが決められたスタイルだが、それでは会場の日本交通協会大会議室に収容しきれない。そこでテーブルを1部はずして昼食 は150人に限り、あとは椅子を並べた。昼食があたらなかった人たちに、改めてこの場を借りてお詫び申し上げます。
 演題は「東海道新幹線バイパス計画について」と控え目だったが、すでに山梨の実験線18・4㌔を42・8㌔に延伸する工事が始まっている。工事費は3550億円。
 「これが出来上がると、東京―名古屋間290㌔の7分の1が完成したことになります。コイルも取り替えて、すべてが実用化仕様になります。ここで実験しながら東西に延ばしていけばいいんです」
 東京方は品川駅につなげる方向のようだ。
 東京―名古屋―大阪間430㌔。現在の東海道新幹線は東京―新大阪間515㌔だが、直線ルートを走るので短縮される。両端の都市部は大深度地下、中部山岳地帯はトンネルで抜いて、路線の8割はトンネルとなる。「用地買収はできるだけ少なくしたいのです」
 列車は16両編成で、座席は約1000。最新のN700が1323席だから、そう変わらない。1時間に片道10本、往復で2万座席を供給する能力を持つことを技術開発目標としている。
  時間短縮効果―。東京―名古屋間の所要時分は40分。55分の短縮となる。東京―大阪間は15分の乗り換え時間を含めて1時間40分。現在の東京―名古屋 とほぼ同じ所要時間に短縮される。東京―岡山、東京―広島間も40分短縮されるから、東京から広島までは完全に鉄道の輸送分野になる。ちなみに最新の統計 では、東京―岡山間の鉄道と航空機の比率は72対28、東京―広島間は56対44となっている。
 と同時に東海道新幹線は「ひかり」中心のダイヤ編成になるため、中間駅の豊橋、浜松、静岡各駅から東京、大阪への列車が飛躍的に便利になる。むろん時間距離も大幅に短縮される。
  総投資額は5兆1000億円。これから17年間、単純平均で毎年3000億円。開業次年度2026年度の経常利益を700億円見込んでいる。葛西会長は 「東京―大阪間は、世界で最もユニークな大量、均質の輸送流動があるところ」と説明する。東京―大阪は運河で、その数は東京方で1日28万人、大阪方で 19万人。東北・上越、北陸新幹線は川の流れが大宮で集まるが、それでも1日20万人しかない。ちなみにフランスのTGVのパリ―リヨン間は11万 8000人に過ぎない。
 長期債務の残高は、開業予定の2025年度に4兆9000億円までに膨れ上がる。現在の債務水準に戻るのは、開業8年 目。もっともJR東海の長期債務の残高が最も多かった1991年度は5兆4000億円もあった。一方、経常利益は2026年度から35年度までの10年間 の平均で年1400億円を見込んでいる。

 
 
 全列車の最高時速が270㌔化されたのは2003年10月の品川駅が開業したのに伴ってだが、同時に 1時間にのぞみ7本、ひかり、こだま各2本の運転体制が確立した。品川駅建設の投資額は1000億円。品川開業により乗客は東京、品川両駅で1日計2万人 増えた。1年間でざっと500億円の増収となり、建設費を2年で全面回収したことになる。鉄道の利便性が増し、東京―大阪間のシェアは新幹線82対航空機 18だ。
 「CO2の排出量は20%が運輸部門といわれる。地球環境の点からもリニアの導入は有効だ。鉄道は19世紀から2世紀にわたって進化を続けてきたが、21世紀はリニアが経済発展の引き金になるのではないか」と葛西会長は締めくくった。

山之内秀一郎さんを偲ぶ(1)


 JR東日本会長、宇宙航空研究開発機構(JAXA)理事長などを務めた山之内秀一郎氏(2008年8月8日逝去、75歳)のお別れの会が10月6日、東京千代田区紀尾井町のホテルニューオータニで開かれ、約1500人が祭壇に献花をした=写真。
 山秀さんは、国鉄運転屋のスポークスマンとして「ときわクラブ」と付き合いが深く、交通ペンクラブは特別会員として遇していた。例会の講師として何回か演壇に立っていただいたうえ、会報「交通ペン」の21世紀最初の64号では当時の宇宙開発事業団の理事長としてフロントページをつぶして、宇宙にかける夢を話してくれた。
 昨年暮れの「忘年交通ペンサロン」にフラリと現れた。ことし7月18日の第200回例会は最前列で毎日新聞・岸井成格氏の講演を聞き、終了後は控室で岸井氏らと談笑していた。顔色もよく、元気に見えた。それから3週間後に亡くなるなんて、信じられない気持ちだ。

山之内秀一郎さんを偲ぶ(2)


虹の橋を渡った山之内秀一郎さん

吉澤 眞
 「ここに来るよ」と山秀さんは私の目の前の席にどかんと座った。
 7月18日、日本交通協会、交通協力会、交通ペンクラブ共催の講演会場は「ねじれ国会と福田政権」をテーマに毎日新聞社特別編集委員、岸井成格氏を迎え、会場は満員だった。
 ふらりと現れた山秀さんのところにはあいさつに見える方も多かった。
 私は隣にいたロバートソン黎子夫人を紹介し「山之内さん、名刺ある?」と催促すると、ポケットから引っ張り出して渡してくれた。
 終了後も控室で岸井さんと一緒に山秀さんは元気に話をしていた。同席していたのはペンクラブ代表幹事の曽我健さん(元NHK)、堤哲さん(元毎日新聞)、交通協会の三坂健康会長、前田喜代治理事長、秋山光文協力会会長ら10人ほどはいたかもしれない。
 環境問題で持論を展開し、山秀さんは帰っていった。
 次の週、集中治療室の重症患者となり、8月8日、帰らぬ人になろうとは――。
◇  ◇
 運命は「さよなら」の機会を与えてくれる。
 昨年12月、忘年ペンサロン(4木会)に突然山秀さんが出席してくれた。
 「やっと少しはヒマなご隠居になったのね」とメンバーは喜んだ。
 そこに年末のあいさつを兼ね、JR西日本の山崎正夫社長がみえた。
 とたんに山秀さんは山崎社長を指差して「何だお前は、駄目じゃないかァ」と大声を出した。事故のことであろう。
 JR西日本の幹部が事故の後の対策にいたましいほど努力をしているときにこの一喝である。
 サロンはお酒がまわってそれぞれ勝手な話をしていたので、運転屋の先輩、後輩の学生時代のような一幕は気がつかなかった人もいたと思う。
 一本気な坊ちゃん気質。傍若無人である。
 「山之内さんの最近の随筆はすばらしい」と話題をかえた。「ホント? お世辞?」という
 文章は誰でもそれなりに書けるものだが、山秀さんのこのころの「世界鉄道めぐり」など短いエッセーは絶品といってよい。
 ユニークな視点、文章のリズムと音楽性、的確な表現の背景にある歴史・文化への深い教養。ほめすぎかもしれないが、おいしいコーヒーのような満足感があるエッセーである。
 人生のゆとりが出来てこんな美しい文章が書けるのだ、いいな、羨ましいなと思っていた。
 ところが今年になってから急につまらなくなった。新聞記事か経過報告のように味気ない。何か体調が敏感に反映していたのだろうか。
◇    ◇
 平成14年3月に、やはり交通協会で山秀さんは宇宙開発公団理事長として「国産ロケットが拓く宇宙への夢」と題して講演したが、これから壇上にという直前、立ったまま「目まいがする」と呟いた。近くに控えていた私はメニエル氏病で目まいの経験があったので、冷い水を飲むようにすすめ「大丈夫」と背中をさすってあげた。
 映像をまじえた講演は興味深く成功に終わったが、このときロケットの仕事が山秀さんにとってかなりのストレスになっていることが想像できた。
 新幹線生みの親である島秀雄氏に次いで、鉄道界から二人目の理事長として迎えられた山秀さんである。
 反対の風圧に耐え〝レールを枕に討死する!〟という故十河信二国鉄総裁のもとで島さんが高速鉄道システムを完成させなければ、今日の鉄道経営の基盤はあり得なかった。
 国鉄の分割は列車運行上、大事故のもと、ダイヤも組めず運賃もバランスを欠くと猛反対を展開した民営化反対の意見を山秀さんは「従来もやってきたこと。何も問題ない」と言い切った。
 山秀さんの歴史的発言によって国鉄改革は一気に進むことになる。
 技術者として確固たる信念を貫いてきた2人の鉄道人を日本政府は宇宙開発の難題解決のために起用した。これは最高の栄誉であると同時に、苦痛に満ちた重責である。
 軌道に乗せる、という言葉があるが、島さんは第一段階の、山秀さんは第2段階の基礎づくりにあたった。
 島さんは日米間のあまりの技術格差に、昭和45年、ソーア・デルタロケットの大型第1段のライセンス生産にふみ切り、成功の糸口にする。
 「人間の行っていることは、すべて先人の経験の積み重ねの上に立っている。よく学び、自信を持って開発し、世界の人に報いるべきである」(『新幹線と宇宙開発』島秀雄著)
 山秀さんは関連3機関を統合した宇宙航空研究開発機構の初代理事を務めた。
 〝殿〟の愛称をたてまつられながら、先端技術者の組織集団立て直しに苦心した。
 H―Ⅱロケット6号機の打ち上げは失敗した。人工衛星も失敗した。
 このとき対策の一部として米国航空宇宙局(NASA)の元長官ゴールディン氏を長とした外部調査委員会を設けている。
 「よく学び」。島先輩の教えである。
 山秀さんの理事長室には、島さん時代に『十河信二伝』編集のため、私は何回も訪れていた。
 浜松町のビルを見上げて、国鉄入社時に故一條幸夫氏に可愛いがられて運転を勉強し、いまは島さんの跡継ぎとしてここに居る――どうしているのだろうと案じていた。
 私はロケット成功のための原因追求は、事故が絶対に許されない新幹線安全工学の手法がとられたと思う。
◇  ◇
 実は島さんは心筋梗塞で倒れ、死を覚悟して遺言を書いていた。
 財産のことなどではない。新幹線千人の乗客一人一人の安全を願っての遺書であった。
 山秀さん! あなたも心臓を病んでいたのですね。
 著書『新幹線がなかったら』。このタイトルの一語に、十河伝を手伝った私は心からありがとうと申し上げます。
 ほんとうは、東京駅18番線ホームの端にある誰も顧みない十河信二おじい様の碑のことを相談したかった。
 山秀さん! 早すぎました!
(元交通新聞)

山之内秀一郎さんを偲ぶ(3)

ヤマシュウさんとE電

松浦 和英
 「なに、これ、本気なの。あまりいただけないなあ」。思わずヤマシュウさん(と呼ばせてもらいます)に向かって言ってしまった。昭和62年5月13日、旧JR東日本本社(旧国鉄本館)で行われた記者会見でのことだった。
 JRが発足して首都圏の電車をどう呼ぶか論議になった。僕らにとっては懐かしい省線電車、のちの国電(酷電なんていわれたこともあった)に代わる愛称をつくろうという発想は、新生JRにとっては当然の流れだった。興味本位にいえば、国鉄時代、ヤマノテ線かヤマテ線か、アキハバラかアキバハラかで話題となって以来、久しぶりの呼称に関するニュースだった。
 公募の後の審査。作曲家・小林亜星さんらも加わっての選考結果を発表したのが、当時JR東の副社長だったヤマシュウさんだった。①民電②首都電③東鉄…⑦J電…⑨JR電などの上位を吹っ飛ばし、選ばれたのが20位のE電(イイ電)だった。確かに上位はぱっとしなかったかもしれないけど、20位のE電が躍り出るとは……。この間の説明をヤマシュウさんは一生懸命繰り返したが、われわれはそのころ、お笑い界ではやっていた(E)=カッコイイ=とか、E(イイ)○○などの言い方にあやかった軽薄な呼び名としか映らなかった。ヤマシュウさんは記者の不満そうな表情を憮然たる顔つきでにらんでいた。
 結局、E電はしばらくして沙汰やみとなった。ヤマシュウさんも後年、あれは失敗だったと認めているようだけど、首都圏の電車区間がこうも広がり、ゲタ電などとの区別もない現代にとっては、E電の呼び名は〝一場の夢〟だったのだろう。
 あの時のヤマシュウさんの姿は忘れがたいけど、いつものヤマシュウさんはユーモアがあり、音楽に造詣が深く、プライドを持った鉄道マンだった。だから後年、宇宙開発でも活躍できたのだと思う。
 マーさん(馬渡一眞氏)、ハシゲンさん(橋元雅司氏)、杉浦(喬也)さん……そしてヤマシュウさん。改革を経験した鉄道マンは次々に消えていくけど、列車は未来に向けて走っていく。決して休まずにだ。合掌。
(元産経新聞)

山之内秀一郎さんを偲ぶ(4)

さよなら ヤマシュウさん

大澤 宏海
 ときわクラブに在籍した際の30年前の国鉄は、運賃値上げと交通ストが年中行事化し、国民から悪評を買っていました。そんな中、運転局長だった山之内さんは特に在来線のスピードアップに熱心で、いろんな夢のある、明るい話題を提供してくれました。記者クラブでも〝ヤマシュウ〟さんの愛称で親しまれていたのを記憶しています。最初の印象は使命感の強い、最も元気のいい国鉄マンでした。
 再会したのは寝台特急カシオペアのデビューのときです。小樽までの試乗会に当時、JR担当の論説・解説委員の一員として参加させていただきましたが、地元の歓迎会で熱弁を振るっていた姿を拝見し、「ヤマシュウ健在なり」を再確認しました。
 ただ、山之内さんが宇宙開発事業団の理事長に就任されたときは驚きでしたが、期待もしました。私もロケット開発には少なからず関心を持っていたからです。20年前、南米の仏領ギアナにまで出掛け、日本で最初の商業衛星打ち上げを目にしました。しかし、日本の打ち上げ技術は欧米に遅れを取っており、国産の、しかも大型ロケットの打ち上げは長年の悲願でした。山之内さんの強いリーダーシップでH―Ⅱロケットもようやく軌道に乗り、宇宙開発もいよいよ新たな段階を迎えただけに、突然の訃報は残念でなりません。陸も空も駆け巡った〝ヤマシュウ〟さん。ご冥福をお祈りします。
(元時事通信)

山之内秀一郎さんを偲ぶ(5)

南房総 白浜海岸にて

辻 勝
 今から30年ほど前、私は当時国鉄の「ときわクラブ」にNHK記者として在籍していた。1979年の夏のことだったと思う。当時千葉県・白浜海岸に「南房荘」という国鉄の保養所があり、休暇をとって家族4人で出かけた。その時、海岸を散歩中の山之内ご夫妻とお会いした。ご夫妻は小学生の2人の子どもに、やさしく声をかけてくれた。
 海風が心地よく、砂浜に打ち寄せる波が夕日に染まっていた。波打ち際を歩き、岩に座って、海の遠くを眺めたりしてくつろいでいた山之内さんご夫妻の姿が非常に印象的で、今も「静止画」になって私の頭に強く残っている。夕食の時、賄いのおばさんが「これ、山之内さんからの差し入れです」と貝の造りを運んできてくれた。新鮮でぜい沢な造りに子どもたちも大喜びした。当時、山之内さんは、発表のために記者クラブに時々姿をみせ、私も難しい話を聞きに、時たま席にうかがう程度のお付き合いだった。
 JRから「EAST」という雑誌が送られてくる。私が最初にページを開くのは山之内さんの「世界鉄道めぐり」である。彼自身の写真をそえた散文的で、温もりのある文章。鉄道を基点に、その国やその土地の文化、芸術、歴史の中にどんどんでかけてゆく。もう一度、通しでじっくり読んでみたい。
 お別れ会の会場のボードに紹介されていた「妻とめぐりあった幸福インタビュー」(東京新聞)に山之内さんは次のように語っていた。
 「一番大事なのは家族なんですね。わが人生で一番恵まれたことは、今の家内に巡り会えたことです。仕事は『もうイヤだけど』生まれ変わるとしたら、ぜひ今のかみさんとまた出会いたいと思います。」
 南房総の海のご夫妻の「静止画」が重なり、胸が熱くなった。
 さようなら 山之内さん。
(元NHK)

山之内秀一郎さんを偲ぶ(6)

山之内さんからの手紙

 山之内さんの『JRはなぜ変われたか』(毎日新聞社)は、ことし2月20日に発行された。交通ペンクラブ会員の柳田眞司氏(昭和27年旧国鉄入社)は三軒茶屋の国鉄アパートで4年後輩の山之内さんと隣部屋に住んでいたことがあり、読後の感想を送ったところ、山之内さんから長文の礼状が届いた。その一部を紹介したい。

◇    ◇
 最大の出来事はやはり国鉄改革でありました。あの当時はかなり悩んだこともありましたが、何といいましても一国の総理が政策として打ち出した方向にゆくだろうと思いましたし、労働問題と財政問題の破局的状態から抜け出すためには組織を一度壊さなければ駄目だなと思い、その方向にスタンスを決めました。組合問題で別の道を行くのはつらい決断でしたが、所謂改革組と協調しておりましたので、その立場をひるがえすことは「男がすたる」と思いまして、分割民営化賛成の方向に立場を明確にしました。
 当初は分割民営化に反対すれば役員になれるが、賛成すると排除されると思いましたが、敢えて決断しました。その頃には民営分割が本当に実現し、現在のような順調な経営を実現できるとは夢にも思っておりませんでした。
 JR東日本が発足しました時には国鉄カルチャーをすべて変えようという思いと、事務系幹部支配と労働組合の抵抗のためにやりたくても出来なかったことをやってみようと思い、色々なことに手をつけてやや強引にプロジェクトを進めました。もう早いものでJR発足して二十年経ちましたので、その間の思いと思考過程を記録しておくことがJRの今後の経営に当たる方々にも何らかの形でお役に立つのではないか、自分として振り返ってまとめてみたいと思いまして本書をまとめてみました。(中略)
 何とか出来るうちにと思いまして、昨年は五回ヨーロッパに行きました。ウィーンのニューイヤーコンサート、プラハの春音楽祭、バイロイト音楽祭、ルツェルン音楽祭などに行ってきました。今年は出来ればザルツブルク音楽祭、ベルリン・フィルとベルリンオペラ、ペーザロ音楽祭などに行ってみたいと思っております。
 又お目にかかれる機会があると思いますが、とりあえず御丁寧な御手紙をいただいたことに心から御礼申し上げます。末筆になりますが御健勝をお祈りいたします。
      敬具

    3月3日                               山之内秀一郎