2009年2月1日日曜日

日本の保存鉄道と国際交流

                                                  菅 建彦
 保存鉄道のことを英語でheritage railwayと言い、武骨で実用本位の鉄道にも後世に伝えるべき文化遺産の価値があることを的確に表現しているが、この意味合いを日本語に生かせないのがもどかしい。この点はフランス語やドイツ語でも同様で、heritage railwayの語感を表現できず、観光鉄道と言ったり博物館鉄道と言ったり、日本語と同じ悩みを抱えているようだし、英語圏でもアメリカではtourist railroadと言うらしい。英国のheritage railwayもボランティアの無償奉仕と観光客が払う割高の運賃によって成り立っているわけで、余暇と観光が遺産継承という保存鉄道の高邁な使命を支えていると言える。 
 鉄道保存運動は半世紀前、1950年代初頭に英国で始まった。自動車普及のため経営不振に陥ったウェールズ西部のTalyllyn Railway(ウェールズ語で、タリスリンと読む)という狭軌の小鉄道を救おうと、大勢の鉄道愛好家が立ち上がり、この鉄道を買い取って自分たちの手で運行を始めたのである。この成功を範として、英国をはじめ欧州一円、北米、豪州などに保存鉄道が広がった。欧米以外では、インドのダージリン・ヒマラヤ鉄道、台湾の阿里山森林鉄道、アルゼンチンのパタゴニア鉄道などが知られている。 
 日本の保存鉄道の先駆者は大井川鐵道で、1976年に保存蒸機による列車運行を始め、30年以上を経た。同社の重役を長く務めた白井昭氏は、名鉄時代から古典蒸機の復元と動態保存に尽力されたこの道のパイオニアで、80歳を過ぎた今日も大変お元気である。国鉄は鉄道開業100年を記念して1972年に梅小路蒸気機関車館を開設し、代表的な蒸機の動態保存を始め、1979年にはそのうちの1台を使って山口線で列車運行を始めた。 
 各地に広がり始めた日本の保存鉄道運動をつないで日本鉄道保存協会を発足させたのは日本ナショナルトラストで、驀進する機関車のようにこれを牽引したのが畏友米山淳一君である。その経緯は、拙稿に続いて彼自身に回顧してもらうことにする。3年前に事務局は交通文化振興財団に移り、私も微力をささげることになった。 
 日本鉄道保存協会の加盟団体は現在30、大はJR旅客会社から小は小さな同好者のグループまでさまざまだが、年に1度の総会には大勢のオブザーバーも加わり、賑やかに知識と経験を交換し励まし合う機会としている。小規模ながら線路を保有して保存車両を運行するグループも存在するが、廃線になった営業線を引き取って自主運行するという本格的な保存鉄道は日本にはまだない。日本鉄道保存協会も任意団体に過ぎず、法人化して組織を強化し、社会に広く訴えながら鉄道保存運動を盛り上げる必要がある。 
 2001年9月、英国の国立鉄道博物館とヨーク大学の呼びかけで保存鉄道の国際会議が開かれた。たまたま同館の館長と親しかった私が仲介者となり、急きょ結成された日本代表団(青木栄一教授、白井昭氏、米山君など私を含め総勢6人)がこの会議に参加した。昨年4月、オーストリアのザルツブルクで開かれた欧州保存鉄道連盟(FEDECRAIL)の総会に、日本保存鉄道協会を代表して米山君と私が参加し、大いに得るものがあった。
 欧州保存鉄道連盟の議長は、現在100以上もある英国の保存鉄道を擁するHeritage Railway Associationの会長を務めるデーヴィッド・モーガン氏で、本職は弁護士だが、鉄道だけでなく船舶の保存運動にも熱心である。彼は鉄道保存運動の国際交流にも情熱を燃やし、昨年10月に群馬県で開催した日本保存鉄道協会の総会に、遠路私費で来てくれた。 
 今年は春にルクセンブルクで同連盟の総会が開かれる。会議は1日半で終わるが、その後の現地の保存鉄道見学が1週間近くも続くという豪華番組で、時間と費用の制約からとても全部にはついて行けない。また10月には豪州で世界保存鉄道会議が予定されており、これにも参加して日本の存在をアピールしなければならないと考えている。(交通文化振興財団理事長、元国鉄)