鈴木 隆敏
いま、東京・上野の東京国立博物館で「未来を開く福澤諭吉展」が開かれている(1月10日~3月8日)。昨年創立150年を迎えた慶應義塾の記念事業として開催中のもので、啓蒙家、教育者であり、ジャーナリストでもあった福澤の人と業績、慶應義塾の歴史や門下生の美術コレクションなどが、多彩に展覧されている。
第5部「わかちあう公」は、演説の創始や初の中立言論新聞「時事新報」の発行など、新しいメディアを通した啓蒙、社会教育活動の紹介コーナーだ。時事新報の創刊号(明治15年3月15日発刊)と並んで「福澤諭吉と時事新報社社員たち」(明治20年)という写真が展示されている。キャプションに「山陽鉄道社長に就任が決まった中上川彦次郎の時事新報社退職を記念した社員集合写真。中上川は創刊時の社長で、編集長兼整理部長のような立場」とある。
中上川彦次郎(1854~1901年)は大分県・中津藩士の家に生まれた福澤のただ1人の甥。慶應義塾を卒業し教員となるが、福澤の援助でイギリスに4年間留学した。明治10(1877)年に帰国後、留学中に知己を得た井上馨の紹介で、工務省、外務省に勤務した。14年秋、いわゆる「明治14年の政変」で政府参議、大隈重信は、同伊藤博文、井上馨らと立憲政体導入などを巡って意見が対立して下野。福澤は3参議から「官報のような新聞を作ってほしい」と頼まれ準備をしていたが、計画が宙に浮いてしまったので、そのヒト、カネ、モノで創刊したのが時事新報である。中上川は福澤門下生だった犬養毅(のち総理大臣)、矢野文雄(同郵便報知新聞社長)らとともに、大隈・福澤派とみなされて追放され、創刊時の時事新報社長に就任した。中上川は福澤の信頼が厚く、時事新報の社主兼論説主幹の福澤を助け、編集、販売、広告をすべて切り盛りした。新聞から鉄道へ―の転進は奇異に見えるかもしれないが、福澤は通信・情報伝達のツールという点でともに重視していた。
中上川は20(1887)年4月、関西経済界と三菱グループによって起業された山陽鉄道株式会社社長に選任され、現在のJR西日本・山陽本線の敷設に尽力した。ご承知の方も多いだろうが、山陽鉄道は21年6月、兵庫―明石間着工、同年11月開業。続いて12月、明石―姫路間開通、22年9月神戸―姫路間が全通した。さらに23年10月、姫路―岡山間が開業して、今日の山陽本線の基盤が建設されたのである。
この山陽鉄道の建設、運営には、中上川をはじめ“福澤山脈”といわれる福澤の門下生たちがさまざまなかかわりを持っている。(社)福澤諭吉協会の機関誌『福澤諭吉年鑑』21号(平成6年刊)で、慶應義塾大学名誉教授の増井健一は「山陽鉄道と福澤諭吉」と題し、山陽鉄道における“福澤人脈”の活躍などを紹介している。
まず中上川について「山陽鉄道は中上川社長の徹底した合理主義と果断な運営で、わが国の民営鉄道史上特筆される存在になった」と、次の施策をあげて評価した。
「山陽鉄道の将来を考え、列車の運転単位の増強と速度の向上を目指すこととし、線路の勾配を極力100分の1以下とし、曲線半径も緩やかにした。経費節減のため、大型で欄干をつけない橋梁も導入した。トンネルの掘削を能率化した。イギリスに注文した車両は性能のよいものであり、列車貫通式の真空制動器を備え付けた。明治23年からはボギー客車も導入した。駅前広場造成や複線化のための用地をあらかじめ購入しておくなどの配慮をした」
しかし設備投資の支払いがかさむ中で、24年ごろから関西を中心とした有力株主の間に、中上川の積極経営に対する批判が高まり結局退任となる。
この中上川を社長に推薦したのは、同鉄道の発起人、荘田平五郎(1847~1922年)だった。大分県臼杵生まれで、慶應義塾卒業後、初期の教員、塾長を務め教育と経営の中枢を担った。明治8年、三菱商会に転じ、組織化近代化を進めて東京海上保険、明治生命、日本郵船など三菱グループの発展と事業多角化を果たした。丸ビルなど丸の内オフィス街建設も荘田のアイデアという。
熊本県人の本山彦一(1853~1932年)は慶應卒業後、兵庫県を経て、時事新報の中上川社長の下で会計責任者を務めた。大阪の藤田組・藤田伝三郎に認められて支配人となり、中上川から山陽鉄道社長就任に際して相談を受けた。関西財界の立場から、山陽鉄道常議員を兼ね、のちに大阪毎日新聞社長、貴族院議員となった。
福澤の次男、捨次郎(1865~1926年)も慶應を出たあと米国に留学、ボストン・MITで土木工学を学び、帰国後の22年鉄道技師として山陽鉄道に入社した。しかし24年、中上川の社長辞任とともに退社して時事新報に入社。その後30年間、社長として主宰し「日本一の時事新報」といわれるようになる。
三重県人牛場卓蔵(1851~1922年)は慶應卒業後、内務省から兵庫県に赴任していたが、14年政変で追放され時事新報入社。本山に請われて明治20年、大阪・藤田組に入り、27年山陽鉄道に転じて総支配人となった。牛場は欧米の鉄道を参考に、急行列車、食堂車、寝台車および赤帽システムなど、近代的な旅客サービス制度を相次いで取り入れた。瀬戸内海エリアの船舶と鉄道の連携、本州―四国―九州間の連絡強化を図り、39年に国有化されるまで同社会長(社長)として山陽鉄道の発展に大きく貢献した。
岡山以西はその後、24年11月尾道、25年7月三原がそれぞれ開業。さらに牛場時代に30年9月徳山、33年12月厚狭まで延伸され、34年5月赤間関(下関)開通によって全線が完成した。
一方、中上川はその後三井銀行に転じ、不良債権処理などの改革を断行。三井財閥の工業化路線を推進し、朝吹英二、日比翁助、藤山雷太、池田成彬ら多くの人材を三井グループに招聘した。
三井グループの(財)三井文庫館長、由井常彦は『福澤諭吉年鑑』28号(平成13年刊)に「再考 中上川彦次郎の人物と思想」を寄稿、「山陽鉄道社長として中上川は強力なリーダーシップを発揮、大きな抱負・決断力そして実行力を持って計画を設定し、諸革新を実行した」と評価しているのである。
(敬称略、産経新聞社顧問)