米山 淳一
煙をはいて豪快に走り抜ける蒸気機関車が全国各地で人気だ。一度はその効率の悪さから姿を消したものの、人々の熱いエールに応え、見事に復活したのである。この陰に、鉄道関係者や市民、専門家、多くの皆様のご努力があることを忘れてはならない。
「鉄道は文化財」と信じてキャンペーンを始めたいと財団法人日本ナショナルトラスト(当時・観光資源保護財団)に在職中、上司に相談したら、鉄道が文化財? と一蹴された。今から24年前のことだ。すでに千葉県で小湊鉄道の輸入蒸気機関車が県の文化財に指定されていたので、この事例を根拠とし、鉄道文化財の全国調査を開始した。そのための委員会の席上で、専門家と国鉄関係の委員から鉄道文化財の概念とはなにか? と問いただされ、トイレで考えて苦し紛れにお答えしたのが、歴史。文化的価値の高い鉄道車両、施設、構造物だった。調査は運良く資金にも恵まれ、たくさんのボランティアの手助けを得て報告書をまとめ、その上、シンポジウムまで開催。結果として我が国初の市民参加による歴史的鉄道車両の動態保存「トラストトレイン」計画を実現するに至った。すでに、国鉄SLやまぐち号、大井川鐵道SL川根路号が好評だったところに、さらにトラストトレインが人気を博し、全国各地で蒸気機関車ばかりか歴史的車両の保存は上げ潮の状況にあった。
そこで、同志で力を合わせて動態保存を推進することを目的に設立したのが「日本鉄道保存協会」。モデルは英国保存鉄道協会。平成2年10月のことである。小池滋氏(英文学者)、青木栄一氏(東京学芸大学名誉教授)、松澤正二氏(元交通博物館長)が顧問に就任。今日30団体を数える会員は当初、JR九州、明治村など6団体にすぎなかった。
鉄道文化財は文化庁の推進する近代化遺産(我が国の近代化に貢献した産業、交通、土木遺産)にも含まれ、重要文化財、登録有形文化財でゆうに100件を超えた。隔世の感がある。そして今年度の鉄道保存協会総会でついに英国鉄道保存協会会長を招き、本格的な交流が始まった。昨年4月に菅さん(交通文化振興財団理事長)のお供で参加した欧州鉄道遺産保存会議がきっかけとなったのである。(元日本ナショナルトラスト事務局長)
2009年2月1日日曜日
日本鉄道保存協会はこうして生まれた
ラベル: 第96号
日本の保存鉄道と国際交流
菅 建彦
保存鉄道のことを英語でheritage railwayと言い、武骨で実用本位の鉄道にも後世に伝えるべき文化遺産の価値があることを的確に表現しているが、この意味合いを日本語に生かせないのがもどかしい。この点はフランス語やドイツ語でも同様で、heritage railwayの語感を表現できず、観光鉄道と言ったり博物館鉄道と言ったり、日本語と同じ悩みを抱えているようだし、英語圏でもアメリカではtourist railroadと言うらしい。英国のheritage railwayもボランティアの無償奉仕と観光客が払う割高の運賃によって成り立っているわけで、余暇と観光が遺産継承という保存鉄道の高邁な使命を支えていると言える。
鉄道保存運動は半世紀前、1950年代初頭に英国で始まった。自動車普及のため経営不振に陥ったウェールズ西部のTalyllyn Railway(ウェールズ語で、タリスリンと読む)という狭軌の小鉄道を救おうと、大勢の鉄道愛好家が立ち上がり、この鉄道を買い取って自分たちの手で運行を始めたのである。この成功を範として、英国をはじめ欧州一円、北米、豪州などに保存鉄道が広がった。欧米以外では、インドのダージリン・ヒマラヤ鉄道、台湾の阿里山森林鉄道、アルゼンチンのパタゴニア鉄道などが知られている。
日本の保存鉄道の先駆者は大井川鐵道で、1976年に保存蒸機による列車運行を始め、30年以上を経た。同社の重役を長く務めた白井昭氏は、名鉄時代から古典蒸機の復元と動態保存に尽力されたこの道のパイオニアで、80歳を過ぎた今日も大変お元気である。国鉄は鉄道開業100年を記念して1972年に梅小路蒸気機関車館を開設し、代表的な蒸機の動態保存を始め、1979年にはそのうちの1台を使って山口線で列車運行を始めた。
各地に広がり始めた日本の保存鉄道運動をつないで日本鉄道保存協会を発足させたのは日本ナショナルトラストで、驀進する機関車のようにこれを牽引したのが畏友米山淳一君である。その経緯は、拙稿に続いて彼自身に回顧してもらうことにする。3年前に事務局は交通文化振興財団に移り、私も微力をささげることになった。
日本鉄道保存協会の加盟団体は現在30、大はJR旅客会社から小は小さな同好者のグループまでさまざまだが、年に1度の総会には大勢のオブザーバーも加わり、賑やかに知識と経験を交換し励まし合う機会としている。小規模ながら線路を保有して保存車両を運行するグループも存在するが、廃線になった営業線を引き取って自主運行するという本格的な保存鉄道は日本にはまだない。日本鉄道保存協会も任意団体に過ぎず、法人化して組織を強化し、社会に広く訴えながら鉄道保存運動を盛り上げる必要がある。
2001年9月、英国の国立鉄道博物館とヨーク大学の呼びかけで保存鉄道の国際会議が開かれた。たまたま同館の館長と親しかった私が仲介者となり、急きょ結成された日本代表団(青木栄一教授、白井昭氏、米山君など私を含め総勢6人)がこの会議に参加した。昨年4月、オーストリアのザルツブルクで開かれた欧州保存鉄道連盟(FEDECRAIL)の総会に、日本保存鉄道協会を代表して米山君と私が参加し、大いに得るものがあった。
欧州保存鉄道連盟の議長は、現在100以上もある英国の保存鉄道を擁するHeritage Railway Associationの会長を務めるデーヴィッド・モーガン氏で、本職は弁護士だが、鉄道だけでなく船舶の保存運動にも熱心である。彼は鉄道保存運動の国際交流にも情熱を燃やし、昨年10月に群馬県で開催した日本保存鉄道協会の総会に、遠路私費で来てくれた。
今年は春にルクセンブルクで同連盟の総会が開かれる。会議は1日半で終わるが、その後の現地の保存鉄道見学が1週間近くも続くという豪華番組で、時間と費用の制約からとても全部にはついて行けない。また10月には豪州で世界保存鉄道会議が予定されており、これにも参加して日本の存在をアピールしなければならないと考えている。(交通文化振興財団理事長、元国鉄)
ラベル: 第96号
第三セクター鉄道の現況
平野 雄司
第三セクター鉄道として最初にスターとしたのは、昭和59年4月1日開業の三陸鉄道(岩手県)。それから24年過ぎた現在、第三セクター鉄道等協議会(所在地・東京都墨田区)に加盟しているのは35社で、各社の経営環境は厳しさを増す一方だ。
国鉄の地方ローカル線時代から利用者が少なく、政府、国鉄の手に負えなかった路線ばかり。少子高齢化などの進む昨今、経営環境が一挙に好転するわけがない。昨年4月には三木鉄道(兵庫県)が廃止され、現在の35社になったが、他にも複数の会社が存廃議論の中にある。
それでも平成19年度の36社経営成績(三木鉄道を含む)では、黒字会社があった。鹿島臨海鉄道(茨城県)、北越急行(新潟県)、愛知環状鉄道(愛知県)、伊勢鉄道(三重県)、智頭急行(鳥取県)の5社で、経常利益21億1000万円を計上した。背景には主要都市間を結ぶJR特急の乗り入れやJRと連携する企画きっぷ販売などが大きく貢献しており、多くの場合、その成功例に目を奪われている。
しかし、残る路線は現状維持すら危ういところが目立ってきており、地域の生活を守る鉄道としての役割が問われ続けている。
平成19年度の輸送実績は5587万人、対前年度64万人増(1・1%)だが、21社で輸送人員が減少、3%以上の減少となった会社は10社に達した。 さらに経営成績では、赤字会社31社合計で経常損失32億4000万円を計上しており、利用者の減少に加えて、これ以上に台風、地震などの施設損壊や老朽設備の修繕、燃料費等への出費は耐え難いとしている。
そうした中で国は「地域公共交通の活性化及び再生に関する法律」を施行し、同法を一部改正、鉄道事業に対して公有民営方式による新しい道筋を開いた。内容は、施設等を地方自治体等が保有し、列車運行は鉄道事業者が受け持つもので、これまでの上下分離方式の考え方をより充実させた法律とされている。
これによって鉄道が広い層にわたって国民共有財産として見据えられるようにすることを狙っているが、地方自治体とのつながりが深い第三セクター鉄道各社は、その実効性に大きな期待を寄せている。 (元交通新聞)
ラベル: 第96号
山陽鉄道―福沢諭吉と門下生たちとのかかわり
鈴木 隆敏
いま、東京・上野の東京国立博物館で「未来を開く福澤諭吉展」が開かれている(1月10日~3月8日)。昨年創立150年を迎えた慶應義塾の記念事業として開催中のもので、啓蒙家、教育者であり、ジャーナリストでもあった福澤の人と業績、慶應義塾の歴史や門下生の美術コレクションなどが、多彩に展覧されている。
第5部「わかちあう公」は、演説の創始や初の中立言論新聞「時事新報」の発行など、新しいメディアを通した啓蒙、社会教育活動の紹介コーナーだ。時事新報の創刊号(明治15年3月15日発刊)と並んで「福澤諭吉と時事新報社社員たち」(明治20年)という写真が展示されている。キャプションに「山陽鉄道社長に就任が決まった中上川彦次郎の時事新報社退職を記念した社員集合写真。中上川は創刊時の社長で、編集長兼整理部長のような立場」とある。
中上川彦次郎(1854~1901年)は大分県・中津藩士の家に生まれた福澤のただ1人の甥。慶應義塾を卒業し教員となるが、福澤の援助でイギリスに4年間留学した。明治10(1877)年に帰国後、留学中に知己を得た井上馨の紹介で、工務省、外務省に勤務した。14年秋、いわゆる「明治14年の政変」で政府参議、大隈重信は、同伊藤博文、井上馨らと立憲政体導入などを巡って意見が対立して下野。福澤は3参議から「官報のような新聞を作ってほしい」と頼まれ準備をしていたが、計画が宙に浮いてしまったので、そのヒト、カネ、モノで創刊したのが時事新報である。中上川は福澤門下生だった犬養毅(のち総理大臣)、矢野文雄(同郵便報知新聞社長)らとともに、大隈・福澤派とみなされて追放され、創刊時の時事新報社長に就任した。中上川は福澤の信頼が厚く、時事新報の社主兼論説主幹の福澤を助け、編集、販売、広告をすべて切り盛りした。新聞から鉄道へ―の転進は奇異に見えるかもしれないが、福澤は通信・情報伝達のツールという点でともに重視していた。
中上川は20(1887)年4月、関西経済界と三菱グループによって起業された山陽鉄道株式会社社長に選任され、現在のJR西日本・山陽本線の敷設に尽力した。ご承知の方も多いだろうが、山陽鉄道は21年6月、兵庫―明石間着工、同年11月開業。続いて12月、明石―姫路間開通、22年9月神戸―姫路間が全通した。さらに23年10月、姫路―岡山間が開業して、今日の山陽本線の基盤が建設されたのである。
この山陽鉄道の建設、運営には、中上川をはじめ“福澤山脈”といわれる福澤の門下生たちがさまざまなかかわりを持っている。(社)福澤諭吉協会の機関誌『福澤諭吉年鑑』21号(平成6年刊)で、慶應義塾大学名誉教授の増井健一は「山陽鉄道と福澤諭吉」と題し、山陽鉄道における“福澤人脈”の活躍などを紹介している。
まず中上川について「山陽鉄道は中上川社長の徹底した合理主義と果断な運営で、わが国の民営鉄道史上特筆される存在になった」と、次の施策をあげて評価した。
「山陽鉄道の将来を考え、列車の運転単位の増強と速度の向上を目指すこととし、線路の勾配を極力100分の1以下とし、曲線半径も緩やかにした。経費節減のため、大型で欄干をつけない橋梁も導入した。トンネルの掘削を能率化した。イギリスに注文した車両は性能のよいものであり、列車貫通式の真空制動器を備え付けた。明治23年からはボギー客車も導入した。駅前広場造成や複線化のための用地をあらかじめ購入しておくなどの配慮をした」
しかし設備投資の支払いがかさむ中で、24年ごろから関西を中心とした有力株主の間に、中上川の積極経営に対する批判が高まり結局退任となる。
この中上川を社長に推薦したのは、同鉄道の発起人、荘田平五郎(1847~1922年)だった。大分県臼杵生まれで、慶應義塾卒業後、初期の教員、塾長を務め教育と経営の中枢を担った。明治8年、三菱商会に転じ、組織化近代化を進めて東京海上保険、明治生命、日本郵船など三菱グループの発展と事業多角化を果たした。丸ビルなど丸の内オフィス街建設も荘田のアイデアという。
熊本県人の本山彦一(1853~1932年)は慶應卒業後、兵庫県を経て、時事新報の中上川社長の下で会計責任者を務めた。大阪の藤田組・藤田伝三郎に認められて支配人となり、中上川から山陽鉄道社長就任に際して相談を受けた。関西財界の立場から、山陽鉄道常議員を兼ね、のちに大阪毎日新聞社長、貴族院議員となった。
福澤の次男、捨次郎(1865~1926年)も慶應を出たあと米国に留学、ボストン・MITで土木工学を学び、帰国後の22年鉄道技師として山陽鉄道に入社した。しかし24年、中上川の社長辞任とともに退社して時事新報に入社。その後30年間、社長として主宰し「日本一の時事新報」といわれるようになる。
三重県人牛場卓蔵(1851~1922年)は慶應卒業後、内務省から兵庫県に赴任していたが、14年政変で追放され時事新報入社。本山に請われて明治20年、大阪・藤田組に入り、27年山陽鉄道に転じて総支配人となった。牛場は欧米の鉄道を参考に、急行列車、食堂車、寝台車および赤帽システムなど、近代的な旅客サービス制度を相次いで取り入れた。瀬戸内海エリアの船舶と鉄道の連携、本州―四国―九州間の連絡強化を図り、39年に国有化されるまで同社会長(社長)として山陽鉄道の発展に大きく貢献した。
岡山以西はその後、24年11月尾道、25年7月三原がそれぞれ開業。さらに牛場時代に30年9月徳山、33年12月厚狭まで延伸され、34年5月赤間関(下関)開通によって全線が完成した。
一方、中上川はその後三井銀行に転じ、不良債権処理などの改革を断行。三井財閥の工業化路線を推進し、朝吹英二、日比翁助、藤山雷太、池田成彬ら多くの人材を三井グループに招聘した。
三井グループの(財)三井文庫館長、由井常彦は『福澤諭吉年鑑』28号(平成13年刊)に「再考 中上川彦次郎の人物と思想」を寄稿、「山陽鉄道社長として中上川は強力なリーダーシップを発揮、大きな抱負・決断力そして実行力を持って計画を設定し、諸革新を実行した」と評価しているのである。
(敬称略、産経新聞社顧問)
ラベル: 第96号
出版
フィリピンのセブ島で1945年8月15日の敗戦後も2カ月間「戦闘」を続けた学徒出陣兵・柳井乃武夫さんは、昨年『万死に一生~第一期学徒出陣兵の手記』(徳間文庫)を出版したが、こんどは柳井さんが半世紀近くにわたり、新聞や雑誌、会報などに執筆した中から99編を厳選し、「巴里の街角から」(交通新聞サービス刊=写真右)と題して自費出版した。 第一章の「巴里の街角から」は筆者が少年時代を過ごし、2度の勤務もあるパリを主な舞台にしたもの、第二章の「万死に一生」は戦争体験と戦後の現地の人たちとの交流、そして第三章の「古今東西随筆人生」は歴史、文化、自然など幅広い項目にわたっている。 四六判、300㌻。希望者には頒布価格(送料・消費税込み1千円)で頒布する。申し込みは交通新聞サービス(電話03・5216・3223)へ。
柳井さんは元国鉄旅客局長、常務理事、元日本交通協会会長。むろん当「交通ペンクラブ」会員。
ラベル: 第96号
「忘我の正義」の法要
交通ペンクラブ会員の古林肇道さん(83歳)=元毎日新聞=が住職をしている神奈川県小田原市の城源寺で1月25日(日)、8年前にJR山手線新大久保駅でホームから転落した男性を助けようとして電車にはねられ死亡したカメラマン(当時47歳)と韓国人留学生(26歳)の追善法要と筑前琵琶奏者・田原順子さんの琵琶演奏会を開き、2人の霊を慰めた。01年1月26日の事故以来、毎年命日に合わせて行っているもので、「事故を風化させずに、人の命の大切さを訴え続けたい」と、古林住職は境内に慰霊碑の建立を進め、近く除幕式を行う予定だ。
ラベル: 第96号