第一報は厚生省援護局からだった。昭和47年10月20日朝。「フィリピン・ルバング島で19日朝、警官が元日本兵らしい2人を発見。撃ち合いになり1人を射殺、他の1人は負傷して山中に逃げた。和歌山出身の小野田寛郎元少尉と東京・八王子出身の小塚金七元一等兵らしい」。
終戦から27年もたって、まだ戦い続けている日本兵がいたのだ。私は当時、社会部遊軍のサブキャップ。夕刊の企画原稿を書きながら「現地に生かせて
くれ」と何度もデスクに〝陳情〟した。編集局幹部のOKが出たのは同日夜。社会部の現場取材用リュックに妻に届けさせた下着を詰め込むと、翌朝マニラ行きのNW機に乗った。リュックには非常用の食料や寝袋、懐中電灯、水害用の長靴などが入っている。2、3日の野宿もできる。
現場取材の成否は出足で決まる。1日遅れの出発に私は焦りを感じていた。フィリピンはマルコス政権下、戒厳令が敷かれている時代だった。マニラ到着は土曜日の午後。ルバング島はマニラの南160㌔、南シナ海に浮かぶ孤島である。島には空軍基地が置かれ、チャーター機で着陸するには空軍司令官のサイン入りIDカードが必要になる。すぐにマラカニアン宮殿に駆けつけたが、IDカードの発行は月曜日の午後になるという。丸1日を棒に振ることになる。
プレスアーミー
空がだめなら、海を渡るしかない。マニラから車で2時間。バタンガスまで行けば「スピード・ボート」があるという。翌朝4時、外出禁止令が解けるのを待ってタクシーを走らせた。それは漁業用の小さなエンジン付バンカだった。「波も荒く危険だ」としり込みする漁師に現金を見せて無理やり頼み込み、約6時間かけてルバング島へ。マニラを発つ前、「許可なしで島に渡る。島から送稿手段はない。当面は連絡を絶つ」と電話した。島に上陸して舟を返せばマニラに戻る手段もない。単身、島に渡れば、本社も応援要員を出すだろう、との読みもあった。
ルバング島に着くと、砂浜に銃を手に警官が待ち構えていた。「お前も日本のプレスアーミーか」。簡単な事情聴取が終わると、苦笑いしながら日本救出派遣団のベースキャンプまで同行してくれた。柏井秋久団長ら派遣団はその日から数班に分かれてジャングルに入り、小野田さんの捜索をするという。私は柏井団長に捜索隊に同行させてくれるよう頼みこんだ。1日遅れのルバング到着で、宿泊できる民家はすべて他社に押さえられている。東京から応援が来ない限りマニラに戻る手段もない。海水を浴びた服装のままの私に同情をしてくれたのか、捜索隊8人の中に私も加えてくれることになったのである。
夕方、比空軍のヘリでベースキャンプから南西約8㌔、小高い丘の「小野田作戦Aポイント」と名付けられた地点に飛んだ。小野田さんが射撃戦をして逃亡した地点から直線で約1㌔のジャングルの中。小野田さんの兄、敏郎さんも一緒である。
私たちは丘の中央に日の丸を立て、手分けして枯れ木を集めた。かん木を掻き分けて沢に下り、水をくんだ。夕日が沈むと枯れ木に火をつけた。交代で携帯マイクを握り、ジャングルに向かって呼びかけることになった。まず兄の敏郎さん。「兄さんだ。寛郎、聞こえるか」と切々と訴える。敏郎さんは思い出したように小野田さんが好きだったという詩吟を詠じた。
私の番が回ってきた。「小野田さん、日本経済新聞の牧です。太平洋戦争は終わりました」。話し始めた途端、柏
井団長から待ったがかかった。「小野田さんは日本経済新聞を知らないのではないか。彼が戦ってきたのは太平洋戦争ではない。大東亜戦争ですよ」。昭和16年生まれの私は、終戦時4歳。小学校の時から「太平洋戦争」と教わってきた。戦前の日経は「中外商業新報」だった。私はジャングルに向かって「お詫びと訂正」をした。そして、戦後の日本は高度成長を経て経済大国となり、東京・大阪間には東海道新幹線が開通、3時間で結ばれていることなどを大声で話した。
声を合わせて「炭坑節」
一順すると、古い歌を1曲ずつ歌うことになった。私は音痴な上に、戦前の歌も知らない。思いついたのは「炭坑節」だった。その夜は満月。山の端に大きな月が輝いていた。歌い始めたが、音程はずれに同情してくれたのか、全員が手拍子を打ちながら、声を合わせてくれたのである。「炭坑節」は満月が照らすジャングルに吸い込まれていった。
翌日昼過ぎ、私は柏井団長にベースキャンプに戻りたいと申し出た。連絡を絶ったままの私を本社は心配しているだろう。なんとか東京と連絡を取らねばならない。だが、ベースキャンプまで、1人で歩いて山を降りなければ、捜索隊に迷惑をかける。柏井団長は連絡役という名目で若い現地人ガイドを私につけてくれた。道もないジャングルを約8㌔、4時間ほどかけてベースキャンプにたどり着く。東京から応援に来た吉野光久記者が心配そうに待っていた。彼は私のIDカードも取得してくれていた。
恥ずかしながらの〝自供〟
その直後のことである。比空軍の捜索隊から「小野田少尉の靴、発見」という無線連絡が日本派遣団本部に入る。空軍はヘリでその靴を運んでくるという。脱ぎ捨てた靴の近くには、新しい脱糞もあり、その周辺に小野田さんがいると見て、捜索範囲を狭めている、というのである。間もなく靴と糞がビニール袋で運ばれてきた。カメラマンが一斉にシャッターを切る。
発表を聞くと、発見場所は私が下山してきた道筋ではないか。下山途中、東京から履いてきた古めかしい靴の底が抜け、歩けなくなった。靴は海水も吸い込んでおり、確かにボロボロだった。リュックの中に長靴が入っていたことを思い出し履き替えた。その時、便意を催し、ブッシュの陰で脱糞した。恥ずかしながら、私は会見後、その事実を〝自供〟せざるを得なかった。だが、数社のカメラマンはすでにチャーター機でマニラへ。翌朝の数紙に「小野田さんの靴、発見?」が写真付で掲載されてしまったのである。
ベトナム空爆を誤解か?
それから約1カ月、吉野記者と私は交代でルバング島へチャーター機で飛び、野宿することになった。救出派遣団は小野田さんの生活の痕跡さえ発見できない。陸軍中野学校出身の「残置諜者」は島の隅々まで知り尽くしていた。私は、島の木陰で青い空を見上げているうちに、小野田さんは当分、出て来ないだろう、と思い始めた。沖縄の基地を飛び立った米軍のB52爆撃機が毎日、定期的に南シナ海を南下していく。ベトナム戦争が最も激化していたころである。小野田さんはベトナム戦争を知らないはずだ。米軍は仏領インドシナや蘭領インドネシアに侵攻した日本軍と戦っている、と思っているに違いない。
こんな結論を出すと、年末まで捜索を続けるという派遣団を後に、私たちはルバング島を引き揚げた。小野田さんが24歳の日本人青年と遭遇し、生還するのは1年半後の昭和49年3月のことである。小野田さんは帰国後、戦争がまだ続いている、と思った根拠の一つとして、次のように書いている。
「朝6時と夕方6時、定期便のような米軍の飛行が目撃された。どうやらルバング島のレーダーサイトをチェックポイントとして飛んでいる。方角、時間から計算して仏印だ。米軍がこれほどの戦力を投入するのは、仏印方面で日本軍が再度、猛反撃に出たのだ、と私は確信した」(『たった一人の30年戦争』)。出足は遅れたが、引き際の判断は隠れた特ダネだった、と思っている。40年近くも昔の話である。 (「日本記者クラブ会報」から転載)