2008年2月24日日曜日

100年を隔てた二つの鉄道を見る 台湾高速鉄路と阿里山森林鉄道の旅

台湾新幹線700T(左営駅で)

隈部 紀生     

 2007年11月18日から22日にかけて、かねて会員から希望が出ていた台湾高速鉄路(新幹線)と台湾の名物になっている登山鉄道に乗るツアーが実施され、15人が参加してたいへん実りある愉快な旅を楽しんだ。

 オレンジと濃紺の線が入った真新しい700T型列車に乗り込んで、19日午前7時ちょうど台北駅の地下ホームを後にした。民間会社の台湾高速鉄路が日本やヨーロッパなどの技術を取り入れて建設し、2007年1月に開業した高速鉄道(新幹線)だ。しばらく地下を走った後、視界が広く開けた。全線の72%が高架になっていて、はるか遠くまで沿線の風景が眺められる。亜熱帯らしく11月の半ばを過ぎても緑の豊かな田園地帯に住宅や中小の工場がゆったりとした感じで広がる。線路はほとんどまっすぐだ。最小曲率半径は6250メートルで日本の東海道新幹線の2500メートルと大幅に違う。スピードを上げ、最高時速の300キロになる。車体の揺れは少なく、乗り心地は非常によい。日本の700系車両をもとにしただけのことはある。

 時刻表では高雄の左営駅まで345キロを1時間36分で走ることになっていた。ところが途中でただ一カ所止まることになっていた台中駅に着く大分手前で減速し始め、一時停車してまたゆっくり動き出した。原因は一つ前の列車で運転士が乗り込むときに使う手すりががたがたしたので取り外し、この影響で後続列車も遅れたもので、終点の左営駅には34分遅れて着いた。

 改札口で記念に乗車券をもらって喜んでいると、せっかくの切符を回収された。実は30分以上遅れると料金の半額を返し、1時間以上遅れると全額払い戻すことになっているのだという。私たちは1420元の料金の半額700元を戻してもらった。日本では2時間以上遅れると特急料金だけ返すのと比べて、ずいぶん気前のいい制度だ。

 台湾の高速鉄道計画はおよそ20年前に立てられ、民間会社の台湾高鉄が建設や運用、沿線開発を政府から任された。一時はヨーロッパの技術を主体につくる計画だったが、その後、日本の新幹線の技術が信号、運転、電気、機械などの中核システムで使われるようになった。東海道・山陽新幹線を走っている700系の車両を一部台湾向けに改造した700T系の車両が、12両1編成で30編成輸出された。

 2007年1月に、1日19往復で営業を始め、今では下り(南行)57本、上り(北行)56本が運行している。当初は全員ヨーロッパから来た運転士だったが、今では50%が台湾の人になったという。将来は120~130人の運転士全員を台湾の人にし、女性の運転士も養成するという。

 在来線では、台北から高雄まで4時間半かかっていたが、台湾高鉄で1時間半になって、台湾全土が一挙に日帰り圏になったとされる。これによって国内航空はかなり乗客を奪われ、1月には客席の利用率が20~30%ほど下がったという。あわてて国内航空は料金を値下げし、条件によっては、台北―高雄の料金を台湾高鉄と同額まで引き下げた。これをみた台湾高鉄は開業以来全席指定席だったのを一部自由席にして、実質20%値下げして対抗し、激しい競争が続いている。

 台湾高鉄の現在の利用者は1日4~5万人ぐらいで座席の埋まる率は50%ぐらいだ。台湾は人口が2300万人で、高速大量輸送にとって決して大きな市場とはいえない。台湾高鉄の顧問で、日本の新幹線の功労者、島秀雄さんのご子息である島隆さんは私たちにいろいろ説明をしてくださって「もっとビジネス客が増えないと」と話しておられた。

阿里山森林鉄道の始発駅・嘉義駅

 熱帯の高雄からバスで北回帰線を通り、亜熱帯に入った私たちは、嘉義駅に近い北門駅から阿里山森林鉄道に乗って阿里山に登った。阿里山森林鉄道は、台湾が日本の植民地だった1906年に、日本がひのきなどの木材を運び出すために建設を始め、1914年に全線開通し、20年に旅客輸送も始めた。2007年に開業したばかりの台湾高鉄の「新幹線」に乗った私たちは、同じ11月19日におよそ100年前に営業を始めた阿里山森林鉄道に乗ったのだった。このすばらしい組み合わせを考えてくれたのは、今回の旅の副団長を務めてくださった会員の菅建彦さんだ。

 列車は白い車体に赤い線の入った客車を、逆に赤い車体に白の線があるディーゼル機関車が押して進む。北門駅を出てしばらくは平地だ。ヤシやバナナ、パイナップル、パパイアなど、熱帯や亜熱帯の果樹が多く見られ、列車にも冷房が入っていた。サトイモ畑や竹の林も多く、里山を行く感じだった。あちこちに「按時限十二公里」という表示があり、最高速度が12キロであることを示していた。線路は細く、かなり揺れるがゆっくり走るので不安は感じない。 樟脳駅を過ぎて列車は独立山という山をらせん式に巻きながら、三重のループで登った。下方の同じ集落が3回見えた。1000メートルを超えるあたりから、山腹に阿里山茶と呼ばれる高級ウーロン茶の畑とひのきや杉の林が見え始めた。冷房はとっくに止まっているが、足元から少し冷えてきた。中間駅で最大の奮起湖駅に着く。標高は1400メートルを超えている。ここの車庫に今では使われなくなったシェイ型蒸気機関車の29号があった。今でも動態保存されているらしい。

 奮起湖駅を出ると窓が曇ってきた。外気の温度が下がって中の水蒸気が水滴になったらしい。ひのきの大木が多いが、下枝がきれいに落とされていた。今では森林鉄道でひのき材を運搬しなくなったが、自動車道もあり、林業で暮らしを立てている人が多いのだろう。1534メートルの十文字駅に着いた。ここから先は、2007年の台風で線路が被害を受けて不通になっていた。この区間で、山を登るもう一つの鉄道技術、スイッチバック方式が使われている。私たちはバスに乗り継いで阿里山のホテルに着いた。ふもとから車で来れば、森林鉄道より早く登れるが、森林鉄道で揺られながら少しずつ高度や寒さに慣れ、熱帯や亜熱帯から温帯の山地まで植生の変化を眺めるのは楽しく、翌朝、日の出を見るための儀式のようでもあった。

  翌20日6時前に阿里山森林鉄道の支線に乗って終点の祝山駅に着き、すぐ前の広い階段を登ると、東側の展望が開けた広場に出た。目の前の谷には薄いもやがたなびき、阿里山系の山並みが玉山(昔日本で新高山といった台湾の最高峰)を中心に長く連なっている。まだ太陽は見えないが、すでに日が昇った下界の明るさが少し届いて、山の輪郭は見える。日の出といっても、平地の地平線から日が昇るときのように、闇から一転して明るくなるのとは違う。6時40分ごろ玉山の右の山の切れ目が少し明るさを増した。「来るな」と思ったら、一筋の光線が輝き、あっという間に日が昇った。待っていた観光客の顔が輝き、歓声が上がった。

祝山から玉山のご来光を仰ぐ

 バスで山を降りて嘉義から在来線の特急で苗栗駅に着き、駅に隣接している「苗栗鉄道文物展示館」で、私たちは阿里山森林鉄道を昔走っていたシェイ式蒸気機関車とゆっくり対面することができた。とにかく変わった形をしている。まず機関車の真正面から見て、煙突が中央にない。右にかなり寄っている。左側にはタンクがあり、その後ろにシリンダーが3つあって上下に動く。この上下の運動を歯車でいったん線路と水平な軸が回る運動に変え、もう一度傘の形をした歯車で機関車の車輪の回転に変えて列車を動かす。駆動関係の機器は右側にはまったくない。左右対称でなくずいぶん複雑な車輪の動かし方で、安定性が気になるほどだが、この複雑な回転の伝え方が山を登るときに滑り止めの役割をし、登る力が強くなるらしい。

苗栗鉄道文物展示館のシェイ式蒸気機関車

 もともとアメリカ製で、台湾では1910年に導入され、あわせて20台が阿里山のひのきなど豊富な木材の運搬と、その後は乗客の輸送にも使われた。シェイ式機関車はアメリカを始め世界各地の登山列車にかなり多く使われたというが、阿里山森林鉄道では一番遅い1984年まで活躍して、ディーゼル機関車と交代した。今でも鉄道ファンにはよく知られており、ただ一両29号だけが運転可能な状態で奮起湖駅に動態保存されている。奇妙な形の機関車が実際動くのをいつか見たいものだ。

 今回の旅は会員の菅建彦さんの広い知識と豊富なご経験によって綿密に計画され、台湾では台湾高鉄の方々、特に島隆さんやフランス国鉄から派遣されているゴンドさん、阿里山森林鉄道の幹部の方々のたいへん親切なご説明のおかげで実り豊かな、楽しい旅になった。深く謝意を表したい。 (元NHK)

 旅の参加者(15人)曽我健、菅建彦、堤哲、岩本龍人、大澤栄作、岡本禮子、住田俊介、牧久、ロバートソン黎子、トーマス・リー・ロバートソン、照井英之、萩原健二、飯山泰博、隈部紀生、吉澤眞

2008年2月17日日曜日

199回例会「日本映画の昨日と今日」


2008年6月20日(金) 寺脇研氏 ( 元文部省審議官、文化庁文化部長、京都造形芸術大学教授、映画評論家 )

2008年2月1日金曜日

2025年のリニア・新幹線開業に向け、ことしは出帆の年

台湾新幹線の左営車両基地で参加者たち

JR東海の葛西敬之会長、松本正之社長は1月4日の年頭あいさつで決意を表明した。世界最速時速500キロメートルの超電導磁気浮上式鉄道の実用化に踏み切り、東海道新幹線のバイパスとして中央新幹線を建設。2025年をメドに首都圏―中京圏で営業運転する。建設費5兆1千億円は全額自己負担だ。

年頭あいさつは名古屋のJRセントラルタワーズ31階の大会議室で行われ、東京本社、各支社支店にはテレビ会議システムで同時中継した。葛西会長は「21世紀に時速500キロメートルの交通手段の新大陸を目指す」と語り、「社員全員の不動の確信こそが計画完遂の十分条件である」と強調した。

国家プロジェクトに相当する大事業を完全民営化したJR東海が取り組もうという決断で、暮れの記者会見で松本社長は「国の整備を待っていたら先が見えない」と説明している。

今後、直面する課題は少なくないと思われるが、自らの財源で建設を進めることで、JR東海は「夢のリニア」の実現に向けて走り出した。