2010年2月1日月曜日

インターネット・オークション

出した、売れた、新幹線特急券

                    諸岡達一
 
 鉄道狂時代の最中、世の中の不況なんのその、オモシロ報告致しましょう。 
 インターネット・オークションに昔の硬券キップを売りに出したら、これが高値? で売れたんであります。ファン垂涎の《上等硬券》に高値がつくのは認識していましたが、それほどでもない硬券でも「欲しいキップ狂」がいるんです。 
 挿絵写真をご覧あれ。この10枚、何人ものキップ狂が入札した結果、最終的に「1万5000円」で落札されたのであります。 
 この硬券は、国鉄時代のいわゆる「D型券」(3㌢×8・7㌢)で、1968(昭和43)年3月20日の日付パンチ入り東海道新幹線「ひかり13号」の特急券10枚です。 
 東京8時20分発→新大阪までの座席指定券。それぞれ手書きで「12号車6番A」「12号車6番B」……といった按配に「6番A、B、C、D、E席、7番A、B、C、D、E席」の連番であるところがミソだったのでしょう。12号車というのは当時の2等車。    
 裏面は英文。東京渋谷の日本交通公社発行で1枚1600円と記されています。汚れ、しみ、破損などほとんどありません。キップ保存アルバムに大事に保管していたものです。誰もが見覚えのある懐かしいキップです。      
 ◆ 
 インターネット・オークションは規則・やり方など多少ややこしい。ネット取引用のネット銀行に口座を開いて、落札者が簡単に代金を入金出来る仕掛け(お金やりとりのシステム)など準備を完璧にしておきます。 
 キップをきれいに並べてスキャナで取り込み、いかにも「素晴らしい珍品」であるか如き説明文(これは得意中の特技)を書き、オークションに出品します。期間は何日でもいいのですが、まあ、4日くらいが目安。最初の値段は自ら「0円」と設定して入札を待ちます。 
 2日くらいは「0円」のまま。「こりゃ、駄目か」。3日目になると第一番目の入札あり! 
 これが「1300円」。すると間もなく「1550円」と吊り上がり、「3800円」→「6900円」→「8700円」……どんどん上がる上がる……翌日、制限時間いっぱいが近くなって「10000円」を突破、残り3分で「12500円」、すると、昨日「8700円」を入札した人が「13100円」、対抗している人が「14050円」、ぎりぎり30秒で「15000円」。決定。入金を確認したら厳重丁寧に包装、感謝を込めて「書留」で落札者へキップ10枚お送り申し上げた次第です。      
 ◆ 
 面白がって引き続き「営団地下鉄の10円キップ20枚」も「4500円」で落札した奴がおるんです。引き続き……。 
 しっかしね、コレ疲れます。もうヤメタ。とても面倒臭い。まだ硬券は沢山持っているのですが、他のことが何も出来ンのじゃ! 
                 (交通ペンクラブ会員、元毎日新聞)

旭山動物園のこと

旭山動物園のこと            
   吉澤 眞

 昨年亡くなった夫、吉澤曻の思い出をしたい。 
 吉澤は40年ほど前の国鉄時代、旭川鉄道管理局長に赴任した。見習いを札幌でしたので北海道とは縁がある。 
 それにしても旭川駅前はガランと広くてどうもさびしい。そのときアイヌのおばさんが母熊からはぐれた仔熊を飼っているという話をきき、これだ!と思った。開成中学に通っていた吉澤は上野の森はわが庭と心得て、図書館、美術館、博物館、動物園で学校帰り2時間は遊んでいたという。 
 旭川駅前にヒグマの赤ちゃん2頭の小動物公園ができた。アイヌのおばさんが世話役で、暑いとき水浴びをさせると仔熊たちは大喜び。そのぬいぐるみのような愛らしい姿は大人気。駅前にはたくさんの人が集まるようになったという。 
 熊の成長は早く、管理局事務方は「危険なので局長、もうやめて下さい」という。吉澤がなかなか「うん」といわないので、とうとう警察を通して廃止ということになってしまった。 仔熊の人気を見ていたのが当時の旭川市長、五十嵐広三氏である。 
 「それなら私が動物園の立派なものをつくる」とそれまでの小さな旭山動物園拡張計画をスタートさせた。五十嵐市長は市民に信頼されるスケールの大きい政治家で、3期11年の市長の後、衆議院議員となり、村山内閣の官房長官を務めた。 
 ところで吉澤がしばらくして旭山動物園を見に行ったところ、上野動物園とはスケールが違うとしてもあまりにもしょぼくれている。「これは経営的に無理なのではないか」と吉澤が言うと、市長は「もう少し続けてみよう」と粘っていた。 
 こうして誕生した動物園はいまどうなっているか。すばらしい人材を得て、スタッフの動物への愛情の日々の努力で日本一の動物園となり、各国の専門家が視察する国際的にも評価の高い動物園に開花した。 
 北海道、日本の宝物になったのだ。 がんと分かり、私は晩年の吉澤と2日間、旭山動物園で過ごした。 
 五十嵐広三氏は84歳。まだお元気で旭川の「株式会社ほくみん」会長を務めていらっしゃる。  (元交通新聞)

山手線にホーム柵

島さんの訴えが実現

 JR東日本は、2010年度中に山手線恵比寿駅と目黒駅のホームに「可動式ホーム柵」を設置する。ホームから乗客の転落事故を防ぐ、安全・安心の確保が目的だ。「やっと私の提案を採用してくれた」と一番喜んでいるのは、東海道新幹線生みの親、故島秀雄さんだと思う。 
 プラットホームに欄干を、という提言を島さんがしたのは、1983年の『学士会報』Ⅲ号だった。翌84年1月には当時の仁杉国鉄総裁に「ホームの安全柵」設置を求める手紙を出している。 
 島さんは書いている。〈私にはプラットホームは「荒波逆巻く岸辺に突き出した桟橋」のように、「急流に渡した一本橋」のように、イヤそれ以上に危ない場所に見える〉 
 戦前、従弟の慶大生が神戸駅で、入ってきた客車に乗ろうとする乗客に押されて線路上に転落、轢死した。鷹取工場の機関車係長をしていた島さんは病院に駆けつけたが、従弟の最後の言葉は「汽車は危ないから気を付けなさいよ」だった。 
 以来、島さんはホーム上にランカン柵の設置を訴えてきたが、「お金がかかる」などの理由で「とてもできない相談」と見向きもされなかった。それがやっと実現されることになったのだ。すでに都営地下鉄や東京メトロ南北線、丸の内線など、ゆりかもめ、JR東日本でも長野新幹線や東北新幹線の一部駅で設置されているが、在来線は初めてである。 
 まず恵比寿駅と目黒駅に取り付け、その結果を見ながら、山手線全29駅で、おおむね10年後には設置完了する予定だ。 
 この可動式ホーム柵の新設は、JR東日本が「グループ経営ビジョン2020―挑む―」で示した、グループ全体で取り組む「挑戦」という位置づけになっている。 
 山手線のピーク時1時間当たりの輸送量は2008年度、外回り上野―御徒町間で8万3200人、内回り新大久保―新宿間で6万4560人。列車本数は外回り25本(2分20秒ヘッド)、内回り24本(2分30秒ヘッド)。世界でも類のない超過密線区である。          (編集部・堤哲)

忘年ペンサロンひと言集

 2009年12月24日、クリスマスイブの忘年ペンサロン。日本交通協会ラウンジはこれまで最高の23人で大にぎわい=写真左手前から、敬称略。 

 野沢太三「民主党政権になって、何かと手間がかかっていますが、整備新幹線の予算だけは全額すんなり付きました。よかったと思います」 

 阿部 恂「民主党政権になって、年金がメチャメチャになってしまった」 

 岡田 宏「海外鉄道技術協力協会の非常勤顧問として、主に中国の仕事をしています」 

 斎藤雅男「台湾新幹線は残念ながらお客が減っているが、コンサルタントとして今でも隔月、台北に行っている」 

 曽我 健「会員の皆さんのお蔭で交通ペンクラブは無事存続しています」 

 牧  久「12月13日ホノルルマラソンを5時間44分36秒で完走しました。順位はちょうど半分くらい。最高齢は89歳でした」 

 松浦和英「化石人。世間とのかかわりが少なくなってきている」 

 柏 靖博「昭和50年のスト権ストのとき、ときわクラブにいた。最近、交通ペンクラブの行事は、ほぼ皆勤です」 

 岩崎雄一「国鉄OB会の会員は21万人。元気がいいのは女性。出身は問いません。OB会に入ってください」 

 竹田正興「交通協力会の会長になりました。昭和38年国鉄入社で、24年間いて、そのあと日本食堂(現日本レストランエンタプライズ)に16年。運輸審議委員会の会長からです。交通ペンクラブの例会などで出るカレーライスの味をつくったのは私なんです」 

 堤  哲「会報は次号が100号。原稿をお願いします。99号の8㌻すべてを私1人で書きました」 

 菅 建彦「7月で交通文化振興財団理事長を退任、常勤の仕事が楽になりましたが、団地の役員や本づくり、鉄道保存協会の国際会議出席などで結構忙しくやっています」 

 上地啓理「交通新聞サービスは6月で退任、7月からジェイアール貨物リサーチセンターの常勤顧問をしています」 

 鈴木隆敏「人畜無害の生活ですが、豊かです。これまでがどれだけ空しかったか」 

 吉沢 眞「主人が亡くなってポカッとしています。創建時再建が進められている東京駅は実際誰が造ったのかをキチンと記録してもらいたい、とJR東日本に申し入れています」 

 隈部紀生「73歳になりました。例会の出席率は一番よいと思う。政権交代でメディアは一喜一憂している感じだ」 

 竹内哲夫「大東文化大学、交通文化振興財団の役職を退いた。フィリピンでは40万人の戦争犠牲者が出た。子どもたちへの奨学資金を直接学校に届くように贈っている」 

 山本佳志「東のOB会の会員は現在6万人。平均年齢は80歳近い。国鉄では広報部長も務めたが、広報で見習いの時、よく新聞社の社旗のついた車で自宅まで送ってもらった」 

 三坂健康「十河総裁の最後の秘書。三河島事故で犠牲者宅を1軒1軒謝って歩いたのが印象に残っている。その後、NY事務所長のとき、米議会で新幹線が取り上げられ、ミスター・ソゴウの名前が出た。国威発揚になった」 

 大沢宏海「定年前に胃がんの手術をしました。ソフトテニスで小中学生の育成指導をしています」 

 河合茂美「日本交通協会の図書館長として週2回、火・木曜日に出ています」 

 水野弥彦「河合さんのあとの交通新聞編集局長。64歳でやめて、現在は交通道徳協会の会報づくりのお手伝い。鉄道少年団は全国に55団、2千人の団員がいる。作文コンクールには400編の応募があり、一次審査はすべて1人でやりました」

賛助会員

財団法人運輸調査局(福眞峰穂理事長)が賛助会員として09年12月に加入。 
〒160―0016 新宿区信濃町34 
電話03・5363・3101

会員消息

◇ロバートソン黎子さんが米ワシントンのナショナルプレスクラブに入会。 

◇(財)交通協力会の会長に竹田正興氏、会長を兼務していた菅建彦氏は理事長に(12月7日付)

例会

◇第210回2月19日(金)「三菱1号館美術館開館記念展『マネとモダンパリ』について」
 同美術館初代館長・高橋明也氏。 

◇第211回3月19日(金)
 千葉商科大学教授・宮崎緑氏。 

◇2010年度の例会予定日=4月16日、6月18日、7月16日、9月17日、11月19日、2011年2月18日、3月18日。
いずれも金曜日。正午~1時半、日本交通協会大会議室。

交通ペンサロン

◇2月25日(木)午後5時から日本交通協会ラウンジ、会費1千円。

自分を褒めてやりたい

68歳 ホノルルマラソン完走記

      牧 久(元日経)






 「人生はマラソンである」といわれる。サラリーマン人生にピリオドを打つことになった昨年初夏、何故かフルマラソンに挑戦してみたい、と思った。会社生活45年余。42・195㌔を走りぬくことは、自分の人生を再発見し、終着駅を見つけることになるのではないか。そんな思いがあったことも確かである。 
 退社した6月ごろから毎日、少しずつ走り始めた。「走る」といえば聞こえはよいが、「歩く」ことに毛の生えたレベルである。それでも最初はすぐ苦しくなった。長い間、運動といえばゴルフくらい。それもカートに乗ることが多かった。3、4㌔の練習を毎日、続けるうちに苦しさは消え、走行距離は次第に伸びた。10㌔を1時間半前後で走れるようになったのである。 
 しかし、フルマラソンというのはズブの素人の私にとって、とてつもなく長い距離である。秋口には何とか20㌔は走れた。「ヤメタ方がいいよ。プロでも30㌔を過ぎると〝ガス欠〟でダウンする人もいる。君の歳での初挑戦、もつわけがない」。友人の多くは冷ややかだった。 
 東京マラソン出場を狙っていたのだが、これには7時間という制限時間がある。やはり無理かな、と思った。石塚正孝さん(元JR東海副社長、㈱ジェイアール東海エージェンシー社長、ちなみに66歳=編集部注)にそんな話をした。彼は還暦を迎えた6年前、ホノルルマラソンに挑戦、5時間台で完走したという。「ホノルルには時間制限がありませんからね、もう一度、走ってもよいと思っているんです。一緒に走りますか」。私の次女も5年前、完走している。「よし、初挑戦はホノルルだ」と決めた。 
 昨年12月13日の第37回ホノルルマラソン。登録したのは2万3248人。10㌔走もあり、その参加者も含めると3万人を超える。6割が日本人だという。クリスマス前の閑散期に観光客を集めることを狙った〝商魂〟マラソンでもある。数日前からJALのチャーター便が続々と到着、街はランニング姿の日本人で溢れかえった。 
 常夏のハワイでは太陽があがると、この季節でもすぐに気温は20度を超える。涼しいうちにという配慮からだろう、スタートは午前5時。午前3時過ぎには、スタート地点のアラモアナ公園付近はランナーたちで埋まった。未明の真っ暗な空に一斉に花火が。スタートの合図である。完走目標が「5時間半~6時間」の表示地点にいた私たちは花火を見上げながらゾロゾロと歩き始めた。スタート地点にたどり着くまで10分以上。靴にはあらかじめ小さなチップを装着、スタート板を踏んだ瞬間から計時がはじまる。10㌔、中間点、30㌔、40㌔、ゴールの計時が自動的に本部に入り、誰がどこを走っているかが瞬時にわかり、本部前に表示されるシステムだ。 
 スタートすると西に約2㌔、ダウンタウンに向かう。夜明け前のビジネス街にはクリスマス用の様々なイルミネーションが点灯され、目を楽しませてくれる。ダウンタウンを回り込むとワイキキのホテル街へ。沿道は観光客や地元の応援団で埋め尽くされている。潮騒を耳にしながら、ワイキキ海岸を通り抜けると、ダイヤモンドヘッド脇の上り坂にかかる。「心臓破り」といわれるこの坂道、なだらかな上りが約2㌔続く。このあたりから人波がばらけ始めた。 
 スタートから約1時間半。前方の水平線上に真っ赤な太陽が顔を出した。様々な仮装の人が走っている。豚や牛のぬいぐるみ。ピエロの格好をした中年の男。若者たちはファッショナブルでカッコいい。色とりどりのランニングシャツに帽子。菅笠に白装束の遍路姿の老人、紋付はかまに高下駄の若者。イタリア人のグループが国旗を先頭に走る。「徳島大学マラソン連」のプラカードを持った学生の一群も。まるでお祭りである。 
 ダイヤモンドヘッドを左に回るとカラニアナオレ・ハイウエーへ。この日は全8車線の片側4車線を完全に止めた。東に向かう2車線が往路、半分が復路である。直線で7㌔半。早くも復路をゴールに向かうランナーが続々走ってくる。〝解放〟されたハイウエーは歩行者天国ならぬマラソン天国である。普段は「クルマ道」であるハイウエーが「人の道」となった。みんな道いっぱいに広がり楽しそうだ。道路は人が「歩き」、人が「走る」ためのものだったことを実感する。 
 ハイウエーを抜けると、オアフ島の東端、ハワイカイに出る。小さな入り江がいくつもあり、朝日を反射してまぶしい。付近の高級住宅にはそれぞれ専用のボート桟橋があるという。ハワイカイの小高い丘を一回りして海岸線に出ると、再びハイウエーに戻る。中間地点だ。「スタートから3時間」の表示が見えた。「このまま走れば6時間を切れるかも」。希望がわいてきた。 復路のハイウエーを下りると、ワイアラエ・ビーチ方向へ左折。カハラの高級住宅街に入る。豪邸は咲き誇るブーゲンビリアやハイビスカスの生垣に包まれている。どの家も門前にテーブルや椅子を持ち出し、ビール片手の観戦だ。ケーキやアメ、バナナ、パイナップルなどを用意し、ランナーに振舞う家も多い。四国遍路の〝ご接待〟を大掛かりにしたようなものだ。明るい声援に重い足も自然に動き出す。 
 再びダイヤモンドヘッドにかかる40㌔付近で、すぐ前を石塚さんが走っているのに気がついた。彼も気づいたようだが、お互いに声を交わす余裕はない。それからは「抜きつ、抜かれつ」のデッドヒート、と言いたいところだが、人目にはヨタヨタ、フラフラの状態だっただろう。2人は5時間44分36秒の同着でゴールにたどり着いた。 〝談合の結果〟でないことは別表のラップタイムをみれば明らかだ。ちなみに私の次女は4時間30分44秒。1時間以上も前にゴールしていた。 
 この日の完走者は2万316人。トップはケニアのイブチ(招待選手)で、2時間12分14秒。私たち2人は1万1149位。60歳代のランナーは1413人いたがうち705位。最高齢者は89歳で、80歳台のトップは5時間で完走した。最後の走者は12時間58分6秒。日が沈んだ後からのゴールだった。 
 日本は今、マラソンブームといわれる。各地でフルマラソンの大会が開かれ、今春の東京マラソンには27万人の申し込みがあったという。健康志向もあるだろう。だが、走り終えて感じたことは「苦しさの先にある何か」を人々は求めているのではないか、ということだ。戦後の高度成長で、日本人は苦しさを忘れ、贅沢な飽食の時代が続いた。そんな時代が挫折した日本。マラソンはお金も技術も要らない。必要なのは自分の意志と忍耐力である。自然回帰願望がマラソンブームの底にあるのではないか、と思えてならない。 
 マラソンには2時間で走る超特急もあれば、急行、鈍行もある。上り坂、下り坂、時には〝まさか〟のハプニングもある。「もう止めよう」と思うこともしばしばだ。「苦しくなった時、休んではいけません。休むとイヤになってしまいます。苦しいときは屈伸運動を数回してゆっくり走り続けなさい。それが完走の秘訣です」。前日のコース下見のガイドの言葉である。私の人生も特急には乗れなかったかもしれないが、休むこともなく、それほど組織に迎合することもなく、そこそこ中庸な人生を走り終えることができたのではないか。マラソンの結果と同じだったような気がした。

2009年11月20日金曜日


第209回=11月20日(金)
「週刊誌から見た政権交代」  


サンデー毎日編集長(毎日新聞元政治部記者)

山田道子氏

2009年11月1日日曜日

0系車両が鉄道博物館に

開業当初を懐かしむ
 

 だんご鼻の0系車両が10月21日、さいたま市の鉄道博物館で展示・公開された。1964(昭和39)年10月1日開業に合わせて作られた東海道新幹線の新大阪方の先頭車。JR西日本から譲り受けた。
長さ25・15㍍、幅3・38㍍、高さ3・975㍍。重さ57・6㌧。車内はもとより、床下機器、台車なども見られるように展示されている。 
 
 オープニングセレモニーで、東日本鉄道文化財団理事長の大塚陸毅JR東日本会長が「東海道新幹線が開業した昭和39年10月1日は世界の鉄道を変えた歴史的な日だった。0系は鉄道の高速時代を切り開いた。斜陽だった鉄道を世界中で復権させた」とあいさつ。覆っていた白布を清野智JR東日本社長、清水勇人さいたま市長、関根徹館長が引き、大塚理事長がくす玉を割って、ピカピカに磨き上げられたアイボリーホワイトの先頭車両を披露した。 午後4時15分から一般公開。鉄道マニアが列をつくり、開業当初の東京―新大阪4時間運転時代を懐かしんだ。










★次号は100号記念号 会報「交通ペン」が来年2月1日発行の次号で100号を迎えます。創刊号は1982年1月22日ですから、28年で到達したことになります。 2010年の新年会で盛大なお祝いをして、楽しい100号記念号にしたいと思います。ご支援・ご協力をお願いします。

再現 新幹線出発式

 0系新幹線先頭車の展示に伴って、1964(昭和39)年10月1日午前6時発の一番列車を前に、東京駅で行われた出発式の情景が再現された。45年前のこの出発式に列席していた交通ペンクラブ会員がいた。 
 モノクロ写真を見てください。テープカットしている石田礼助国鉄総裁の左後ろの髪黒々の若者は岩崎雄一氏(1955年国鉄入社)。31歳。石田総裁の秘書をしていた。
 「石田さんは十河さんがテープカットをすべきだと言っていました」と岩崎氏は証言するが、その十河信二前総裁も島秀雄前技師長も出発式に招待されなかった。 
 岩崎氏の左は藤井松太郎技師長で、その後に顔が見えるのが建設局長・仁杉巖氏(1938年運輸省入省)、当時49歳。「名古屋と東京の幹線工事局長で東海道新幹線を建設した。よく出来たな。間に合ってよかったという気持ちだった」と仁杉氏。 
 もう一人、写真には写っていないが、三坂健康氏(1953年国鉄入社)、当時35歳。 
 「旅客課の総括補佐で、前日から徹夜作業でした」。三坂氏は十河総裁の秘書をしており、翌日代々木のマンションを訪ねると、十河は「テレビで見たよ。(東海道新幹線が)出来ればいいんですよ」と話した。しかし、さすがに寂しそうだったという。 
 このモノクロ写真は、岩崎氏が会長をしている(社)全国鉄道広告振興協会に飾ってあったのをコピー機でスキャニングしてもらった。「一列目で存命は私ひとりではないですか」と岩崎氏は感慨深げだった。

新幹線・リニアを売り込もう

在日大使館員らを招きシンポジウム  JR東海が11月16日

アメリカをはじめブラジル、ベトナムなど世界中で高速鉄道の建設計画が持ち上がっている。1964年に開業以来、死亡事故ゼロを続ける東海道新幹線の運営会社・JR東海は、在日大使館員らを招いて高速鉄道シンポジウムを開く。新幹線N700系の性能や、開発中のマグレブ(超電導リニア)を知ってもらい、海外に売り込もうという作戦だ。 

 シンポジウムは11月16日、名古屋マリオットアソシアホテルで開く。葛西敬之会長もレクチャラーとして、国際仕様「N700―I Bullet」を紹介するなど、東海道新幹線システムの高速性、安全性と正確性、エネルギー効率性などをアピールする。終了後の深夜に米原―京都間を通常走行の速度を上回る時速330㌔で走らせ、参加者に体験乗車してもらうことにしている。 


 ちなみに東海道新幹線の営業車両による従来の最高速度は、91年に300系車両が同区間で記録した時速325・7㌔。営業車両による国内最高速度は、03年にJR東日本のE2系1000番台が上越新幹線の浦佐―新潟間下り線で記録した362㌔。 


 超電導リニアによる中央新幹線について、JR東海は南アルプスをトンネルで抜ける最短距離の南アルプスルートの場合、東京―大阪間438㌔、所要時間67分、工事費8兆4400億円で、2045年開業を想定。 


 このデータはJR東海が10月13日に発表したもので、木曽谷ルート(486㌔、所要73分)、伊那谷ルート(496㌔、所要74分)と比較して南アルプスルートの優位性を強調している。 


 リニア中央新幹線は、2025年に東京―名古屋間290㌔で開業、所要時間は40分を予定している。投資額は5兆1千億円。

「特急“燕”とその時代」展

「燕」のスピードアップ秘話  鉄道記者が焚き付けた

 1930年10月1日午前9時、東京駅を発車した特急「燕」は大阪駅に午後5時20分に到着した。所要時間8時間20分。それまでの特急「富士」が10時間52分かかっていたのを一挙に2時間半も短縮した。 
 旧新橋停車場鉄道歴史展示室で11月23日まで 「特急“燕”とその時代」展が開催されている。「燕」の発案者は、当時鉄道省運転課長の結城弘毅(1878―1956年)だったが、結城課長にスピードアップを焚きつけたのは鉄道記者の先輩・青木槐三さん(写真・1897―1977年)だ、と「誕生のエピソード」にあった。 
 青木の書著『国鉄』(64年刊、新潮社)によるとその経緯はつぎのようだ。1929(昭和4)年夏、結城が大阪から運転課長に転任してきた。「外国に比較して日本列車のスピードがノロイことを挙げて、スピードアップを提唱した」 
 これに対し結城は、現在の蒸気機関車C51を使い、東京―大阪間をノンストップで飛ばせば8時間に短縮できる、と答えた。 
 「新聞に書いてもいいか」「差し支えない」 
 東京日日新聞(現毎日新聞)の特ダネとなった。 
 SLは1㌔走るのに100㍑の水を使うといわれ、一番の問題は給水だったが、30㌧積みの水槽車を新造して連結、箱根の山を越すときは補助機関車をつけた。乗務員の交代も炭水車(テンダー)と水槽車に渡り板と手すりをつけて、走りながらだった。 
 最高時速95㌔、表定速度68・2㌔。試運転のときは、EF50形電気機関車の牽引で最高時速102㌔を出した。評定速度は、それまで最速の特急「富士」より16・6㌔もアップした。 
 同展の図録には、鉄道記者・青木の功績として、鉄道博物館に保存されている重要文化財「1号機関車」が九州の島原鉄道に払い下げられているのを知って、これを国鉄に里帰りさせるために動いたことが記されている。「彼はその後も交通ジャーナリストとして活動し、鉄道界に理解と協力を惜しまなかった人物である」と書かれているが、東海道新幹線実現のために、十河信二総裁と島秀雄技師長の「応援団」として大活躍したことも付記したい。




2010年 有楽町駅 開業100年

 有楽町駅が来年開業100年を迎える。「交通ペン」25周年記念号(2007年7月発行)に、元毎日新聞・諸岡達一会員の「有楽町界隈 新聞街のバラード」を掲載したが、改めて開業時を振り返ってみたい。

 有楽町停車場の開業は、1910(明治43)年6月25日だった。 
 「日本帝國鐵道史は今六月廿五日高架線鳥森有楽町(報知社裏)間の開通によって新に價値ある頁を加へた、新線路は短い、然し其長蛇の様な煉瓦壁上を轟ッと走る汽車の響は正に現代新文明が擧げた雄々しい勝鬨である」 
 これは「報知新聞」6月25日付1面の記事である。 
 1面の真ん中に山ノ手線々路図(上図)を載せ、東海道線新橋(現在の汐留貨物駅)―浜松町駅間から枝分かれして、烏森(現新橋駅)―有楽町まで延びたかを示している。 
 社会面には煉瓦アーチづくりの有楽町駅のイラストが載っている(左ページ)。通行人の服装を除けば、現在と全く変わっていないように思う。 
 新橋―上野間を高架鉄道で繋げて山手線を環状線として完成させること、その間に中央停車場(現東京駅)を建設することになり、ベルリンの高架鉄道にならって1900(明治33)年に着工した。日露戦争(04年開戦)のため工事は一時中断した。煉瓦を積み上げたアーチづくり。終点有楽町駅は、駅長室や事務室はアーチの下にあって面積約40坪(132平方㍍)。ホームは「梯子段を上った高い所にあって、濱松町のと同じ長さ三百尺である」。 
 実は、開業時のホームの原形が今も残っているのである。有楽町駅の1・2番線ホーム。京浜東北線の北行と、山手線の内回りホームだが、その5号車から9号車にあたる5両分、長さはちょうど100㍍。ここに12本の鉄桁がホームをまたいで渡してあるが、これが使い古しのレールなのである。現在のレールと比べるとかなり細い。明治5年の鉄道開業時に使われていたものではないか、と専門家は言っている。 
 有楽町駅も空襲で被害を受けた。1945(昭和20)年1月27日、疎開をするための乗車券を求める列に爆弾が落ち、客87人と駅員9人が死亡した。駅舎も燃えたはずである。しかし、ホームの鉄骨は残ったのだ。 
 報知新聞の社屋は、現在「ビックカメラ有楽町店」(読売会館)になっている。その通りを隔てて西側に、銀座から引っ越してきたのが「東京日日新聞」(現在の「毎日新聞」)。有楽町駅開業の前年、1909(明治42)年だった。1927(昭和2)年に朝日新聞が現在の「マリオン」のところにやってきて、「有楽町新聞街」が形成されたのである。 
 当時、報知新聞は首都3大紙の一つに数えられていた。あとの2紙は福沢諭吉の「時事新報」と徳富蘇峰の「国民新聞」である 。「読売新聞」に吸収された報知の題字は「スポーツ報知」 として残るが、残り2紙の題字は消えている。栄枯盛衰である。 
 さて、開業のにぎわいをもう少し追いたい。報知新聞の記事には〈千燭光の大アーク灯と数千の紅い提灯に火が入り「晝を欺く電飾」、「明煌々の本社裏」〉とある。    
 一番列車の模様は「東京日日新聞」が詳しい。「午前五時四十分有楽町発九十人乗りボーギー車を以て第一とし同車は運転手土棚倉蔵、車掌久保野久四郎にて十八哩八分なる線路を走りて上野停車場に向かひ以下十五分毎に発車して予定の如く終日七十三回運転したるが、是より先午前四時頃より第一号の乗車券を獲(え)んとして停車場前に詰懸けたる物好きも見受けたり」 
 いつの時代にも鉄ちゃんはいたのだ。上野まで18?余りは約30㌔の計算だが、大崎から渋谷・新宿・池袋・田端・上野だから間違いない。「烏森まで三銭、品川まで九銭で乗り試ししたり、二銭で入場券を買ってホームにあがるものあり」「八時から九時までの一時間に乗客三千二百人、降客三千人で、一車の定員九十人に百四十~五十人も押し込み、泣くやら怒鳴るやら、車中押潰さる程の満員なり」ともある。 
 もう一度「報知新聞」に戻る。中央停車場は3年内に完成とある。3階建て総坪数2900余。中央は皇室専用、南口は乗客、北口は降客専用で「本年秋ごろには現場の中空には鉄柱の聳ゆるを望み得る」としている。高架鉄道は工事費が高い。「銅貨を積んだ一大長壁」とも解説している。これまでに使った資材は3500万個以上、松材3万本、石材10万切で、工事費はすでに5百万円以上かかっている。用地費を合わせ高架線1尺をつくる費用が400円から420円、1寸が60円と計算している。 
 この批判に対し、野村龍太郎鉄道院技監・副総裁代理の談話が載っている。「交通機関の発達につれて高架鉄道の要求されるのは自然の勢いである」「(高架線が)上野迄達すると幹線の連絡が出来、交通上非常に便利となる。其時、中央停車場は市街の中心点となって高架線は実際の活用をなし、交通機関は一段の完成を告げる次第である」 
 中央停車場の開業が1914(大正3)年。その先、神田―秋葉原―御徒町が完成して山手線がぐるり1周の環状運転を始めたのは1925(大正14)年11月だった。「それまでは東京駅から上野駅へ行く交通手段は市電の乗り継ぎしかなかった」と諸岡原稿にある。          (編集部)

十河信二さんの思い出 故高橋久雄氏の寄稿から

 9月23日に亡くなった高橋久雄氏(元東京新聞社会部長)は、交通ペンクラブ創設からの会員で、東海道新幹線をつくった十河信二国鉄総裁の最後の記者会見に出ている。その模様を「交通ペン」創刊号(82年1月22日)と『十河信二(別冊)』(88年6月刊、十河信二傳刊行会)に書き残している。東海道新幹線0系車両が鉄道博物館で公開されたこともあり、一部を再録した。

 「老兵の消えてあとなき夏野かな」 
 これはさる(昭和)三十八年五月十七日午後、総裁最後の記者会見で国鉄を去る心境を問われた十河さんが披露した一句である。ちょっと寂びし過ぎるかな、ともう一句「二万㌔、鉄路伝いに春の雷」と詠んでみせたが、これはかなり以前の作ではないか。俗の俗の私には、俳句の出来栄えなぞ到底分からぬが、「老兵の消えて……」にはズキン、と胸を刺された。 
 十河さんはこの一カ月ほど前からカゼをこじらせて休んでいた。アレルギーと下痢に悩まされたというが、お別れ会見に顔を見せた十河さんにはさすがにやつれが目立った。私はこの時ほど十河さんに老いを感じたことはない。 
 十河さんは療養中、職務を果たせず申し訳ないと当時の綾部健太郎運輸相に電話で詫びている。これがスッパ抜かれると、世間では任期切れを前にした辞意表明と受け取られ、退陣のうわさだけが一人歩きを始めた。そして休養中から早々と後任総裁の下馬評へと発展してゆく。 
 二期八年の総裁の座を下りて国鉄本社玄関を離れたのは、会見から二日後の十九日夕刻近かったが、新聞が長い間「夢の超特急」と呼んだ東海道新幹線の開業は五カ月後に迫っていた。せめてテープカットまで再任を、との一部の声は膨らむこともなく、大海にのまれてしまった。総裁在任中、〝国鉄は私の恋人〟といってはばからなかった十河さんにとって「老兵の消えて……」は無念の一句だろう。 
 あのチョビひげにチョボぐち、拡大鏡のように強いメガネの奥の閉じかかった眼、ぼう洋とした十河さんの面影をたどると、いつもこのお別れ会見のシーンが鮮明によみがえってきて、心が重くなる。 
 心の重い思い出はもうひとつある。それから三カ月たった八月二十四日朝、国鉄は新幹線の開業に備えて東京―新大阪間に営業ダイヤによる初の試運転列車を走らせた。招かれた十河さんは車中で記者団から感想を求められると、「遠足に出かける小学生みたいだねェ」とポツリ口を開いて笑いかけた。しかし笑いにはならなかった。 
 やがて列車がスピードをあげると、記者の輪ができたのは後任総裁の石田礼助さんだけで、十河さんはただ一人、ぼんやり窓外をみつめていた。いったい、どんな感慨なのだろう。飛んでゆく田園風景と、開業を待たず追われるように引退した十河さんの胸の内がオーバーラップして、いいようのない寂しさに打たれた。(中略) 
 東京駅新幹線ホームに十河さんのレリーフが飾られたいきさつを私はよく知らない。しかし開業以来無事故の新幹線発着を見守るレリーフの表情は、開業を一日千秋の思いで待っていた総裁時代と少しも変わらぬではないか。レリーフに見入ると、いつもそんな感慨にひたっている。                           (『十河信二(別冊)』)      
◇ 高橋さんは十河さんの「千駄ヶ谷のマンションはいつもフリーパスだった」と夜討ち取材の思い出や、国鉄の広報体制を確立したのは十河さんだったことも書いている。「交通ペン」には「私の手もとには為書きしてもらった十河さんの書が二つある」とも記している。レリーフは国鉄百年を記念して、1972年10月14日建立された。

あと2年半

 2011年度末の完成を目指して創建時に戻す再建工事が進められている東京駅。丸の内側の板囲いは1914(大正3)年に中央停車場ができるまでをパネルで詳細に解説しているが、最近、オランダのアムステルダム中央駅の写真が掲示された=写真下。隣に現在の東京駅の写真を並べているが、雰囲気がそっくりだ。これでは「アムス駅を模した」といわれても致し方ないところ。両駅は2006年4月に姉妹提携、友好を深めているのだ。

親子会員

 交通ペンクラブで初の親子会員が誕生した。齋籐雅男(1946年運輸省入省、90歳)・雅之(68年国鉄入社、63歳)父子=写真。ジェーアールバス関東(株)会長となった雅之氏が個人会員として入会して誕生した。ともに運転屋さんで、父親は東海道新幹線直後の65年に新幹線支社運転車両部長となり、初期故障の続発に連日のように「ときわクラブ」でレクチャーするとともに、「常習的に起きている故障を一覧表にして番号をつけ、わかりやすい説明も付け加えた」マニュアルをつくって配布したという(同氏の『驀進』から)。 

 その息子雅之氏は広報部報道担当の補佐として「ときわクラブ」の記者に対応。02年JR東日本常務から東京モノレール社長となり、今年ジェーアールバス関東に移った。

鉄ちゃん

 10月14日は「鉄道の日」。新橋―横浜間に初めて鉄道が開業した明治5年9月12日(陰暦)にちなむが、前原誠司国土交通大臣は都内で開かれた記念祝賀会で「日本には300万人の鉄道ファンがいるといわれるが、私自身もそのひとり」と鉄ちゃんであることを表明。さらに「国会議員で最も鉄道好きなのは自分だと思っている。それなのに『高速道路無料化とは何事か』とお叱りを受けそうだが、もちろん実行に当たっては鉄道業界への影響も十分に精査して慎重に判断する」とあいさつした(交通新聞)。 
 一方、旧国鉄のOBたちは「第137回鉄道記念日の集い」を日本交通協会大会議室で開いた。

訃報

高橋久雄氏(元中日新聞)は9月23日逝去。85歳だった

ゴルフ会

 第11回交通ペンクラブ懇親ゴルフ会は10月22日、若洲ゴルフリンクスで6人が参加して行われ、元日経の牧久氏がネット75(グロス101、ハンデ26)で初優勝した。準優勝は柏靖博(元産経)3位は大澤栄作(元毎日)各氏だった。

例会

◇第209回=11月20日(金)「週刊誌から見た政権交代」
  サンデー毎日編集長(毎日新聞元政治部記者)山田道子氏 

◇第210回=2010年2月19日(金)三菱1号館美術館館長・高橋明也氏 

◇第211回=3月19日(金)千葉商科大学政策情報学部教授・宮崎緑氏

ペンサロン

◇毎月第4木曜日の午後5~7時、日本交通協会ラウンジで開いている交通ペンサロンは次回11月26日(木)。12月はクリスマスイブの24日(木)に忘年ペンサロン。会費1千円。

2009年10月1日木曜日

第208回例会 ヤンキース復活の秘密―最新大リーグ事情


元北海道日本ハムファイターズ球団社長

小嶋武士氏

2009年8月1日土曜日

交通協会に「ふるさとの駅」寄贈



 曽我代表幹事、思い出の詩

 

2009年度交通ペンクラブの総会が七夕の7月7日午後5時から日本交通協会大会議室で開かれた。席上、曽我健代表幹事が長年、お世話になったお礼として、日本交通協会の三坂健康会長に詩人、鈴木比呂志さんの「ふるさとの駅」の扁額を贈った。
  

   ふるさとの駅 
   ふるさとの駅には 
   やさしい 母の匂いがする 
   旅から 帰ってくると 
   その ふところに 抱かれたくなる
 

 この詩の作者で、書家でもある鈴木比呂志さんが、NHKニュースキャスター時代の曽我健さんに贈った作品。群馬県富岡市の上信電鉄上州一ノ宮駅が最寄り駅の鈴木さんは1959(昭和34)年から、待合室に駅長がつくった「詩の壁」という展示空間に、模造紙に毛筆で詩を書いて貼り出し、乗客の心を慰めた。 
 朝日新聞の「天声人語」や曽我さんの番組でも紹介された。その詩碑が上州一ノ宮駅のホームに建っている。 鈴木さんは1921(大正10)年生まれ。NHKラジオ歌謡のレギュラー詩人として活躍。作曲家の山田耕筰氏らとともに「松井田高校」をはじめ500を超える校歌や抒情詩を数多く作詞した。古典にも造詣が深く、源氏物語の現代詩訳『源氏その愛と憂愁』『光源氏と王朝の女人たち』(いずれも講談社刊)を出版している。 
 交通ペンクラブの「ふるさとの駅」は、かつては旧国鉄本社のときわクラブ、今は日本交通協会。額は「交通ペンサロン」が開かれるラウンジの壁に飾られることになっている。

七夕総会にぎやかに

 七夕総会の参加者は47人。最長老は元読売新聞の魚住明氏で7月30日に91歳の誕生日を迎えた。昨年度に著作を出された会員が4人。「やっとペンクラブらしくなりましたね」とある会員からいわれた。ロバートソン黎子夫妻がワシントンに戻られる歓送会も兼ね、JTBの女性広報室長も初参加して、にぎやかな一足早い暑気払いとなった。 


4人の会員作家が誕生 


 曽我健代表幹事がまず収支報告。次いで4人の作家が誕生したことを報告した。元NHKの古屋成正(ペンネーム・松原誠)氏が『碧眼の叛逆児天草四郎』(日本放送出版協会刊)、元日本交通協会会長の柳井乃武夫氏が『巴里の街角から』(交通新聞サービス刊)、元産経新聞の鈴木隆敏氏が『新聞人福澤諭吉に学ぶ――現代に生きる「時事新報」』(産経出版刊)、元日本経済新聞の牧久氏が『サイゴンの火焔樹』(ウェッジ刊)をそれぞれ出版した。 


 次いで2011年に東京駅が創建時の姿に復元開業するのに合わせ「交通ペンクラブ解散」を改めて宣言。来年の総会でフェードアウトの具体策を提案する。 

 来賓のあいさつはJR東日本副会長で、UIC(国際鉄道連合)会長の石田義雄氏。「せっかくの交通ペンクラブをあわてて解散しなくてもよいのでは」と話した後、世界が新幹線時代に入ったことに触れ「UICの会長に昨年なりました。日本の新幹線を世界に売り込めといわれますが、そう簡単なことではない。フランス国鉄の幹部が視察に来て、一番欲しいものはといったら『JR東日本の社員を輸出してくれないか』といわれた。よりレベルの高い鉄道事業の運営を目指します。引き続きよろしくお願いします」とあいさつをした。 

 続いて元JR西日本会長の井手正敬氏がやはり「解散は時期尚早」と、交通ペンクラブの存続を訴えて乾杯の音頭を取った。 

 しばらく歓談のあと、4人の作家が壇上に。作家の松原誠氏は「宝塚の舞台にもふさわしいと思って宝塚に3冊送りました。NHKFMでも放送しました」。柳井氏は「国鉄広報部長の経験者で一番の年長になります。思い出話が尽きません」、鈴木氏は「慶應義塾150周年の展覧会が8月から横浜で開かれます。招待券を差し上げますので、会場で本をお買い上げいただければ幸いです」、牧氏は「日経を辞めて、恥ずかしながらジャーナリストという肩書の名刺をつくりました。どうしてもあの続編を取材しなくてはと思っています」と、それぞれが著作への思い入れを語った。






ワシントンで新幹線の売り込みを 

 引き続きロバートソン黎子、トーマス・ロバートソン夫妻が壇上に。「ワシントンに帰るといっても、航空券は片道だと40何万円もするので、往復のチケットを買って行き来することになります。また例会に出席するかも知れません。きょう七夕は結婚記念日。お誘いをありがたくお受けしました。オバマ大統領が新幹線の建設をいっています。ワシントンのプレスクラブに入って、日本の新幹線の売り込みが出来たらと思います」と黎子さん。ロバートソンさんは「台湾の新幹線を乗りに行ったツアーが大変印象深かった。ワシントン―ニューヨーク間に新幹線ができたらいいですね」と語った。 

 そこに飛び込んできたのが、JTB初の女性広報室長、波潟郁代さん。「すいません、会議が長引いたものですから」。昭和63年入社というから国鉄が分割民営化した後の入社だ。早速先輩たちが取り囲み記念撮影。岩本龍人(元取締役東北本部長)、岩崎雄一(元代表取締役専務・元副会長)、柳井乃武夫(元広報担当常務)の各氏。代表幹事の曽我健氏は大学(新潟大学)の先輩にあたる。さらに男社会の「交通ペンクラブ」で女性の会員が3人も集まったのは史上初? と吉沢眞先輩を真ん中に写真を撮ろうとしたら、脇にいた男性陣も加わったのが上の写真だ。若い女性がひとり参加すると、この騒ぎだ。歓談は午後7時半過ぎまで続いた。

30年前の戦いの意味を問う

 元日経新聞の牧久さんの『サイゴンの火焔樹 もうひとつのベトナム戦争』(ウェッジ刊)の出版記念パーティーが6月22日、東京・内幸町の日本記者クラブで開かれた。交通ペンクラブの面々を含め350人にものぼる出席者で、発起人が壇上に勢ぞろいした開会時は、入口から人があふれるほどだった。 交通ペンクラブの曽我健代表幹事が2番目にあいさつして、牧さんがときわクラブにいた駆け出し記者時代の思い出を語り、続いて「諸君!」編集長の斎藤禎日本経済新聞出版社会長が「ベトナム戦争終結10年の企画でサイゴン陥落後の各紙の記事を縮刷版で読み比べましたが、牧特派員電が一番よく実態を報告していた」と、「諸君!」85年6月号の「サイゴン1975.4.30 (サイゴン陥落10年)」を牧さんに執筆依頼した経緯を話した。 会場には、日経の鶴田卓彦元会長、杉田亮毅会長らも詰めかけ、さながら日経のOB会。中川秀直・自民党元幹事長は「社会部のとき、牧さんに厳しく鍛えられました」とあいさつした。 
最後の最後にお礼を述べた牧さん。「きょうで日経新聞をやめました。45年の日経生活でした」と、爆弾発言。東京五輪の64年に入社して副社長からテレビ大阪会長となり、07年から日経の顧問になっていた。「30年ぶりにベトナムを再訪して、当時の助手らと再会。スパイ容疑がかけられたり、国外に脱出したりで、あの革命は何だったのだろう、というのがこの本を書くきっかけでした」。 
 当時毎日新聞のサイゴン特派員だった古森義久氏(産経新聞ワシントン駐在編集特別委員)は産経新聞の書評(6月28日)で「闘争の主役だったはずの南ベトナムの革命勢力が勝利後に圧殺された事実や、旧政権側に生きた市民たちが新社会では排され、削(そ)がれていった事実をも具体的な事例を重ねて告げていく。その結果、ベトナム戦争全体の実像が立体的に姿を現す」とつづった。 日経社会部の後輩で月刊「ファクタ」の阿部重夫編集長は「頑としてサイゴンに居残り続け」「身の危険を顧みない記事にはタブーのはずの臨時政府批判もあって生々しかった」と、牧特派員の記事を評価、この本については「フトマキさん(社会部時代の愛称)、あなたは『ベトナムの敗者』の証人だったのですね」とブログに書いている。

”日本一”だった新聞を紹介


 鈴木隆敏さんの『新聞人福澤諭吉に学ぶ─現代に生きる「時事新報」』(産経新聞出版)の出版記念パーティーが6月17日東京・銀座の交詢社で開かれた。 昨年11月から12月にかけ産経新聞に24回にわたった連載をまとめたものだが、連載のきっかけとなったのは、鈴木さんが日本新聞協会機関誌『新聞研究』2008年4月号に「時事新報は生きている─現代の新聞に与える示唆」を書いたことによる。福澤諭吉が1882(明治15)年に創刊した「時事新報」の題字は消えているが、会社はまだ生きていて、産経新聞社会長の清原武彦氏が代表取締役、鈴木さんは監査役で、年に1度株主総会も開かれていると意外な事実を発表した。 


 それが連載につながったもので、パーティーには福澤諭吉の曾孫にあたる三菱地所相談役の福澤武さんや、安西祐一郎・前慶応義塾塾長、交詢社理事長の鳥居泰彦・元塾長らが出席。交通ペンクラブからは山岡通太郎、日本交通協会理事長の前田喜代治両氏が顔を見せ、JR東日本の薬師晃広報部次長が大塚会長、清野社長からの花束を贈呈した。意外なところでは旧国鉄63年入社の入山映・元笹川平和財団理事長の姿も。 


 鈴木さんと慶大同期の清原会長は「せっかくだから本紙に連載したらと持ちかけた」とあいさつ。鈴木さんの妻宏子さんは「一日中パソコンの前に座っていたこともある」と原稿を書くのに悪戦苦闘していたことを暴露。鈴木さんも「連載を始めてすぐ体調を崩して3日間入院しました」と明かした。連載がストレスになっている、と主治医に指摘されたという。 


 鈴木さんによると、「時事新報」は発行部数とともに、その内容と言論性の高さによって日本一の新聞だった。創業5年目の1886(明治19)年、第1面に広告を満載し、「日本一の時事新報に広告するものは日本一の商売上手である」という広告のコピーまでつくった。 


 事業面も活発で、初めて美人コンテストを行い、現在毎日新聞に継承されている大相撲の優勝掲額やクラシック音楽の登竜門・日本音楽コンクールなども時事新報が始めたものだ。