出した、売れた、新幹線特急券
→新大阪までの座席指定券。それぞれ手書きで「12号車6番A」「12号車6番B」……といった按配に「6番A、B、C、D、E席、7番A、B、C、D、E席」の連番であるところがミソだったのでしょう。12号車というのは当時の2等車。 出した、売れた、新幹線特急券
→新大阪までの座席指定券。それぞれ手書きで「12号車6番A」「12号車6番B」……といった按配に「6番A、B、C、D、E席、7番A、B、C、D、E席」の連番であるところがミソだったのでしょう。12号車というのは当時の2等車。 ラベル: 100号
旭山動物園のこと
吉澤 眞
昨年亡くなった夫、吉澤曻の思い出をしたい。
吉澤は40年ほど前の国鉄時代、旭川鉄道管理局長に赴任した。見習いを札幌でしたので北海道とは縁がある。
それにしても旭川駅前はガランと広くてどうもさびしい。そのときアイヌのおばさんが母熊からはぐれた仔熊を飼っているという話をきき、これだ!と思った。開成中学に通っていた吉澤は上野の森はわが庭と心得て、図書館、美術館、博物館、動物園で学校帰り2時間は遊んでいたという。
旭川駅前にヒグマの赤ちゃん2頭の小動物公園ができた。アイヌのおばさんが世話役で、暑いとき水浴びをさせると仔熊たちは大喜び。そのぬいぐるみのような愛らしい姿は大人気。駅前にはたくさんの人が集まるようになったという。
熊の成長は早く、管理局事務方は「危険なので局長、もうやめて下さい」という。吉澤がなかなか「うん」といわないので、とうとう警察を通して廃止ということになってしまった。 仔熊の人気を見ていたのが当時の旭川市長、五十嵐広三氏である。
「それなら私が動物園の立派なものをつくる」とそれまでの小さな旭山動物園拡張計画をスタートさせた。五十嵐市長は市民に信頼されるスケールの大きい政治家で、3期11年の市長の後、衆議院議員となり、村山内閣の官房長官を務めた。
ところで吉澤がしばらくして旭山動物園を見に行ったところ、上野動物園とはスケールが違うとしてもあまりにもしょぼくれている。「これは経営的に無理なのではないか」と吉澤が言うと、市長は「もう少し続けてみよう」と粘っていた。
こうして誕生した動物園はいまどうなっているか。すばらしい人材を得て、スタッフの動物への愛情の日々の努力で日本一の動物園となり、各国の専門家が視察する国際的にも評価の高い動物園に開花した。
北海道、日本の宝物になったのだ。 がんと分かり、私は晩年の吉澤と2日間、旭山動物園で過ごした。
五十嵐広三氏は84歳。まだお元気で旭川の「株式会社ほくみん」会長を務めていらっしゃる。 (元交通新聞)
ラベル: 100号
島さんの訴えが実現
JR東日本は、2010年度中に山手線恵比寿駅と目黒駅のホームに「可動式ホーム柵」を設置する。ホームから乗客の転落事故を防ぐ、安全・安心の確保が目的だ。「やっと私の提案を採用してくれた」と一番喜んでいるのは、東海道新幹線生みの親、故島秀雄さんだと思う。
プラットホームに欄干を、という提言を島さんがしたのは、1983年の『学士会報』Ⅲ号だった。翌84年1月には当時の仁杉国鉄総裁に「ホームの安全柵」設置を求める手紙を出している。
島さんは書いている。〈私にはプラットホームは「荒波逆巻く岸辺に突き出した桟橋」のように、「急流に渡した一本橋」のように、イヤそれ以上に危ない場所に見える〉
戦前、従弟の慶大生が神戸駅で、入ってきた客車に乗ろうとする乗客に押されて線路上に転落、轢死した。鷹取工場の機関車係長をしていた島さんは病院に駆けつけたが、従弟の最後の言葉は「汽車は危ないから気を付けなさいよ」だった。
以来、島さんはホーム上にランカン柵の設置を訴えてきたが、「お金がかかる」などの理由で「とてもできない相談」と見向きもされなかった。それがやっと実現されることになったのだ。すでに都営地下鉄や東京メトロ南北線、丸の内線など、ゆりかもめ、JR東日本でも長野新幹線や東北新幹線の一部駅で設置されているが、在来線は初めてである。
まず恵比寿駅と目黒駅に取り付け、その結果を見ながら、山手線全29駅で、おおむね10年後には設置完了する予定だ。
この可動式ホーム柵の新設は、JR東日本が「グループ経営ビジョン2020―挑む―」で示した、グループ全体で取り組む「挑戦」という位置づけになっている。
山手線のピーク時1時間当たりの輸送量は2008年度、外回り上野―御徒町間で8万3200人、内回り新大久保―新宿間で6万4560人。列車本数は外回り25本(2分20秒ヘッド)、内回り24本(2分30秒ヘッド)。世界でも類のない超過密線区である。 (編集部・堤哲)
ラベル: 100号
2009年12月24日、クリスマスイブの忘年ペンサロン。日本交通協会ラウンジはこれまで最高の23人で大にぎわい=写真左手前から、敬称略。
野沢太三「民主党政権になって、何かと手間がかかっていますが、整備新幹線の予算だけは全額すんなり付きました。よかったと思います」
阿部 恂「民主党政権になって、年金がメチャメチャになってしまった」
岡田 宏「海外鉄道技術協力協会の非常勤顧問として、主に中国の仕事をしています」
斎藤雅男「台湾新幹線は残念ながらお客が減っているが、コンサルタントとして今でも隔月、台北に行っている」
曽我 健「会員の皆さんのお蔭で交通ペンクラブは無事存続しています」
牧 久「12月13日ホノルルマラソンを5時間44分36秒で完走しました。順位はちょうど半分くらい。最高齢は89歳でした」
松浦和英「化石人。世間とのかかわりが少なくなってきている」
柏 靖博「昭和50年のスト権ストのとき、ときわクラブにいた。最近、交通ペンクラブの行事は、ほぼ皆勤です」
岩崎雄一「国鉄OB会の会員は21万人。元気がいいのは女性。出身は問いません。OB会に入ってください」
竹田正興「交通協力会の会長になりました。昭和38年国鉄入社で、24年間いて、そのあと日本食堂(現日本レストランエンタプライズ)に16年。運輸審議委員会の会長からです。交通ペンクラブの例会などで出るカレーライスの味をつくったのは私なんです」
堤 哲「会報は次号が100号。原稿をお願いします。99号の8㌻すべてを私1人で書きました」
菅 建彦「7月で交通文化振興財団理事長を退任、常勤の仕事が楽になりましたが、団地の役員や本づくり、鉄道保存協会の国際会議出席などで結構忙しくやっています」
上地啓理「交通新聞サービスは6月で退任、7月からジェイアール貨物リサーチセンターの常勤顧問をしています」
鈴木隆敏「人畜無害の生活ですが、豊かです。これまでがどれだけ空しかったか」
吉沢 眞「主人が亡くなってポカッとしています。創建時再建が進められている東京駅は実際誰が造ったのかをキチンと記録してもらいたい、とJR東日本に申し入れています」
隈部紀生「73歳になりました。例会の出席率は一番よいと思う。政権交代でメディアは一喜一憂している感じだ」
竹内哲夫「大東文化大学、交通文化振興財団の役職を退いた。フィリピンでは40万人の戦争犠牲者が出た。子どもたちへの奨学資金を直接学校に届くように贈っている」
山本佳志「東のOB会の会員は現在6万人。平均年齢は80歳近い。国鉄では広報部長も務めたが、広報で見習いの時、よく新聞社の社旗のついた車で自宅まで送ってもらった」
三坂健康「十河総裁の最後の秘書。三河島事故で犠牲者宅を1軒1軒謝って歩いたのが印象に残っている。その後、NY事務所長のとき、米議会で新幹線が取り上げられ、ミスター・ソゴウの名前が出た。国威発揚になった」
大沢宏海「定年前に胃がんの手術をしました。ソフトテニスで小中学生の育成指導をしています」
河合茂美「日本交通協会の図書館長として週2回、火・木曜日に出ています」
水野弥彦「河合さんのあとの交通新聞編集局長。64歳でやめて、現在は交通道徳協会の会報づくりのお手伝い。鉄道少年団は全国に55団、2千人の団員がいる。作文コンクールには400編の応募があり、一次審査はすべて1人でやりました」
ラベル: 100号
68歳 ホノルルマラソン完走記


東京マラソン出場を狙っていたのだが、これには7時間という制限時間がある。やはり無理かな、と思った。石塚正孝さん(元JR東海副社長、㈱ジェイアール東海エージェンシー社長、ちなみに66歳=編集部注)にそんな話をした。彼は還暦を迎えた6年前、ホノルルマラソンに挑戦、5時間台で完走したという。「ホノルルには時間制限がありませんからね、もう一度、走ってもよいと思っているんです。一緒に走りますか」。私の次女も5年前、完走している。「よし、初挑戦はホノルルだ」と決めた。
狙った〝商魂〟マラソンでもある。数日前からJALのチャーター便が続々と到着、街はランニング姿の日本人で溢れかえった。
すぐに気温は20度を超える。涼しいうちにという配慮からだろう、スタートは午前5時。午前3時過ぎには、スタート地点のアラモアナ公園付近はランナーたちで埋まった。未明の真っ暗な空に一斉に花火が。スタートの合図である。完走目標が「5時間半~6時間」の表示地点にいた私たちは花火を見上げながらゾロゾロと歩き始めた。スタート地点にたどり着くまで10分以上。靴にはあらかじめ小さなチップを装着、スタート板を踏んだ瞬間から計時がはじまる。10㌔、中間点、30㌔、40㌔、ゴールの計時が自動的に本部に入り、誰がどこを走っているかが瞬時にわかり、本部前に表示されるシステムだ。
を通り抜けると、ダイヤモンドヘッド脇の上り坂にかかる。「心臓破り」といわれるこの坂道、なだらかな上りが約2㌔続く。このあたりから人波がばらけ始めた。 ラベル: 100号
示されている。 

ラベル: 第99号
0系新幹線先頭車の展示に伴って、1964(昭和39)年10月1日午前6時発の一番列車を前に、東京駅で行われた出発式の情景が再現された。45年前のこの出発式に列席していた交通ペンクラブ会員がいた。 
モノクロ写真を見てください。テープカットしている石田礼助国鉄総裁の左後ろの髪黒々の若者は岩崎雄一氏(1955年国鉄入社)。31歳。石田総裁の秘書をしていた。
「石田さんは十河さんがテープカットをすべきだと言っていました」と岩崎氏は証言するが、その十河信二前総裁も島秀雄前技師長も出発式に招待されなかった。
岩崎氏の左は藤井松太郎技師長で、その後に顔が見えるのが建設局長・仁杉巖氏(1938年運輸省入省)、当時49歳。「名古屋と東京の幹線工事局長で東海道新幹線を建設した。よく出来たな。間に合ってよかったという気持ちだった」と仁杉氏。 
もう一人、写真には写っていないが、三坂健康氏(1953年国鉄入社)、当時35歳。
「旅客課の総括補佐で、前日から徹夜作業でした」。三坂氏は十河総裁の秘書をしており、翌日代々木のマンションを訪ねると、十河は「テレビで見たよ。(東海道新幹線が)出来ればいいんですよ」と話した。しかし、さすがに寂しそうだったという。
このモノクロ写真は、岩崎氏が会長をしている(社)全国鉄道広告振興協会に飾ってあったのをコピー機でスキャニングしてもらった。「一列目で存命は私ひとりではないですか」と岩崎氏は感慨深げだった。
ラベル: 第99号
在日大使館員らを招きシンポジウム JR東海が11月16日
アメリカをはじめブラジル、ベトナムなど世界中で高速鉄道の建設計画が持ち上がっている。1964年に開業以来、死亡事故ゼロを続ける東海道新幹線の運営会社・JR東海は、在日大使館員らを招いて高速鉄道シンポジウムを開く。新幹線N700系の性能や、開発中のマグレブ(超電導リニア)を知ってもらい、海外に売り込もうという作戦だ。

ラベル: 第99号
「燕」のスピードアップ秘話 鉄道記者が焚き付けた
「外国に比較して日本列車のスピードがノロイことを挙げて、スピードアップを提唱した」
ながらだった。 ラベル: 第99号
有楽町駅が来年開業100年を迎える。「交通ペン」25周年記念号(2007年7月発行)に、元毎日新聞・諸岡達一会員の「有楽町界隈 新聞街のバラード」を掲載したが、改めて開業時を振り返ってみたい。
い、然し其長蛇の様な煉瓦壁上を轟ッと走る汽車の響は正に現代新文明が擧げた雄々しい勝鬨である」
在の「マリオン」のところにやってきて、「有楽町新聞街」が形成されたのである。 ラベル: 第99号
9月23日に亡くなった高橋久雄氏(元東京新聞社会部長)は、交通ペンクラブ創設からの会員で、東海道新幹線をつくった十河信二国鉄総裁の最後の記者会見に出ている。その模様を「交通ペン」創刊号(82年1月22日)と『十河信二(別冊)』(88年6月刊、十河信二傳刊行会)に書き残している。東海道新幹線0系車両が鉄道博物館で公開されたこともあり、一部を再録した。
者団から感想を求められると、「遠足に出かける小学生みたいだねェ」とポツリ口を開いて笑いかけた。しかし笑いにはならなかった。 ラベル: 第99号
交通ペンクラブで初の親子会員が誕生した。齋籐雅男(1946年運輸省入省、90歳)・雅之(68年国鉄入社、63歳)父子=写真。ジェーアールバス関東(株)会長となった雅之氏が個人会員として入会して誕生した。ともに運転屋さんで、父親は東海道新幹線直後の65年に新幹線支社運転車両部長となり、初期故障の続発に連日のように「ときわクラブ」でレクチャーするとともに、「常習的に起きている故障を一覧表にして番号をつけ、わかりやすい説明も付け加えた」マニュアルをつくって配布したという(同氏の『驀進』から)。
ラベル: 第99号
ラベル: 98号
七夕総会の参加者は47人。最長老は元読売新聞の魚住明氏で7月30日に91歳の誕生日を迎えた。昨年度に著作を出された会員が4人。「やっとペンクラブらしくなりましたね」とある会員からいわれた。ロバートソン黎子夫妻がワシントンに戻られる歓送会も兼ね、JTBの女性広報室長も初参加して、にぎやかな一足早い暑気払いとなった。
古屋成正(ペンネーム・松原誠)氏が『碧眼の叛逆児天草四郎』(日本放送出版協会刊)、元日本交通協会会長の柳井乃武夫氏が『巴里の街角から』(交通新聞サービス刊)、元産経新聞の鈴木隆敏氏が『新聞人福澤諭吉に学ぶ――現代に生きる「時事新報」』(産経出版刊)、元日本経済新聞の牧久氏が『サイゴンの火焔樹』(ウェッジ刊)をそれぞれ出版した。
合)会長の石田義雄氏。「せっかくの交通ペンクラブをあわてて解散しなくてもよいのでは」と話した後、世界が新幹線時代に入ったことに触れ「UICの会長に昨年なりました。日本の新幹線を世界に売り込めといわれますが、そう簡単なことではない。フランス国鉄の幹部が視察に来て、一番欲しいものはといったら『JR東日本の社員を輸出してくれないか』といわれた。よりレベルの高い鉄道事業の運営を目指します。引き続きよろしくお願いします」とあいさつをした。 
で本をお買い上げいただけ
れば幸いです」、牧氏は「日経を辞めて、恥ずかしながらジャーナリストという肩書の名刺をつくりました。どうしてもあの続編を取材しなくてはと思っています」と、それぞれが著作への思い入れを語った。
とになります。また例会に出席するかも知れません。きょう七夕は結婚記念日。お誘
いをありがたくお受けしました。オバマ大統領が新幹線の建設をいっています。ワ
シントンのプレスクラブに入って、日本の新幹線の売り込みが出来たらと思います」と黎子さん。ロバートソンさんは「台湾の新幹線を乗りに行ったツアーが大変印象深かった。ワシントン―ニューヨーク間に新幹線ができたらいいですね」と語った。 ラベル: 98号
元日経新聞の牧久さんの『サイゴンの火焔樹 もうひとつのベトナム戦争』(ウェッジ刊)の出版記念パーティーが6月22日、東京・内幸町の日本記者クラブで開かれた。交通ペンクラブの面々を含め350人にものぼる出席者で、発起人が壇上に勢ぞろいした開会時は、入口から人があふれるほどだった。 交通ペンクラブの曽我健代表幹事が2番目にあいさつして、牧さんがときわクラブにいた駆け出し記者時代の思い出を語り、続いて「諸君!」編集長の斎藤禎日本経済新聞出版社会長が「ベトナム戦争終結10年の企画でサイゴン陥落後の各紙の記事を縮刷版で読み比べましたが、牧特派員電が一番よく実態を報告していた」と、「諸君!」85年6月号の「サイゴン1975.4.30 (サイゴン陥落10年)」を牧さんに執筆依頼した経緯を話した。 会場には、日経の鶴田卓彦元会長、杉田亮毅会長らも詰めか
け、さながら日経のOB会。中川秀直・自民党元幹事長は「社会部のとき、牧さんに厳しく鍛えられました」とあいさつした。
で日経新聞をやめました。45年の日経生活でした」と、爆弾発言。東京五輪の64年に入社して副社長からテレビ大阪会長となり、07年から日経の顧問になっていた。「30年ぶりにベトナムを再訪して、当時の助手らと再会。スパイ容疑がかけられたり、国外に脱出したりで、あの革命は何だったのだろう、というのがこの本を書くきっかけでした」。
とつ
づった。 日経社会部の後輩で月刊「ファクタ」の阿部重夫編集長は「頑としてサイゴンに居残り続け」「身の危険を顧みない記事にはタブーのはずの臨時政府批判もあって生々しかった」と、牧特派員の記事を評価、この本については「フトマキさん(社会部時代の愛称)、あなたは『ベトナムの敗者』の証人だったのですね」とブログに書いている。ラベル: 98号

ラベル: 98号
交通ペンクラブは1981( 昭和56 )年6月に発足しました。交通問題のオピニオンリーダーとして内外に情報発信しようと、旧国鉄ときわクラブに所属していたマスコミ各社の記者をはじめ、旧運輸省交通政策研究会、航空記者会の記者を中心につくられました。
旧国鉄、旧運輸省、JAL、JTB関係者なども会員に入り、現在、個人正会員 145人、特別会員10人、法人の賛助会員45社・団体となっています。(2004年7月現在)
会報「交通ペン」を年4回発行、財団法人交通協力会、社団法人日本交通協会とともに年7回例会( 講演会 )を開催、毎年6月に総会を開いています。