2009年11月1日日曜日

「特急“燕”とその時代」展

「燕」のスピードアップ秘話  鉄道記者が焚き付けた

 1930年10月1日午前9時、東京駅を発車した特急「燕」は大阪駅に午後5時20分に到着した。所要時間8時間20分。それまでの特急「富士」が10時間52分かかっていたのを一挙に2時間半も短縮した。 
 旧新橋停車場鉄道歴史展示室で11月23日まで 「特急“燕”とその時代」展が開催されている。「燕」の発案者は、当時鉄道省運転課長の結城弘毅(1878―1956年)だったが、結城課長にスピードアップを焚きつけたのは鉄道記者の先輩・青木槐三さん(写真・1897―1977年)だ、と「誕生のエピソード」にあった。 
 青木の書著『国鉄』(64年刊、新潮社)によるとその経緯はつぎのようだ。1929(昭和4)年夏、結城が大阪から運転課長に転任してきた。「外国に比較して日本列車のスピードがノロイことを挙げて、スピードアップを提唱した」 
 これに対し結城は、現在の蒸気機関車C51を使い、東京―大阪間をノンストップで飛ばせば8時間に短縮できる、と答えた。 
 「新聞に書いてもいいか」「差し支えない」 
 東京日日新聞(現毎日新聞)の特ダネとなった。 
 SLは1㌔走るのに100㍑の水を使うといわれ、一番の問題は給水だったが、30㌧積みの水槽車を新造して連結、箱根の山を越すときは補助機関車をつけた。乗務員の交代も炭水車(テンダー)と水槽車に渡り板と手すりをつけて、走りながらだった。 
 最高時速95㌔、表定速度68・2㌔。試運転のときは、EF50形電気機関車の牽引で最高時速102㌔を出した。評定速度は、それまで最速の特急「富士」より16・6㌔もアップした。 
 同展の図録には、鉄道記者・青木の功績として、鉄道博物館に保存されている重要文化財「1号機関車」が九州の島原鉄道に払い下げられているのを知って、これを国鉄に里帰りさせるために動いたことが記されている。「彼はその後も交通ジャーナリストとして活動し、鉄道界に理解と協力を惜しまなかった人物である」と書かれているが、東海道新幹線実現のために、十河信二総裁と島秀雄技師長の「応援団」として大活躍したことも付記したい。