牧久さんが『サイゴンの火焔樹―もうひとつのべトナム戦争』(ウェッジ社刊)を出版された。さすがに社会部出身のプロだけあり、外報部、政治部をも通して紙面をにぎわせた筆致は見事だ。30年前の南ベトナム崩壊事情を正確に裏表から記述している。サイゴン陥落の最後の日にも現地にとどまって、命がけで取材に送稿に奮闘した記者魂は読者の胸を打つ。これは史実そのもので、後世に残すべき好著といえる。 興奮して読み終わった私は、現地で航空交渉を行っていた当時のことを回想した。それはテト攻勢のさなかのことだった。昭和43年(1968)1月30日のテト(旧正月)を期してベトコン(越共)武装勢力がグエン・バンチュー(阮文紹)大統領統治下の南ベトナム各地で攻撃を開始したのだった。北ベトナムとの境界線の北緯17度線に近い古都ユエも不意打ちされて観光客が立ち往生したり、サイゴンでも米大使館が一時占拠されたりもした。
その直前の12月に岸信介元総理が外遊の途次サイゴンに立ち寄られ、ルオン・テシユウ運輸大臣兼ベトナム航空会長と会談された。その席上、ベトナム航空を東京に乗り入れさせるよう要請を受けた。これは3年来の要求だが一向に実現しないと言われた。先方は日本航空と商務協定を結べばよいと思ったようだが、航空協定は政府マターなのだ。 2月18日、第二次ベトコン攻勢が始まった。翌3月15日には突如「日航のベトナム上空通過を認めない」とわが運輸省航空局に入電があった。澤雄次航空局長は中曽根康弘運輸大臣に報告し、外務省は駐日ベ卜ナム大使を招致して通過許可を要請した。日航機はそれまでのダナンでのベトナム横断ができず、沖合を南下してマレーのコタバルで北上してバンコクに迂回せざるを得なくなった。 昭和14年にも日泰航空協定による大日本航空のバンコク便に対して当時の仏印当局が上空通過を禁止したことがあったが、翌年には日本軍の仏印進駐があって自然解決した。しかし、これは前例にはならない。今度は命により航空局国際課長の私が運輸事務官兼外務事務官として、戦火のベトナムに乗り込むことになった。砲声や銃声を耳にするのは、レイテ戦以来23年ぶりのことだったが、私は1968年3月28日にサイゴンの新山一(タンソンニュット)国際空港に降り立った。 牧さんの著書にも登場するマジェスティック・ホテルの404号室に落ち着くと、白服の年配のボーイさんがあいさつに来た。フランス語で「この部屋は寺内将軍の部屋でした」という。南方総軍の寺内寿一元帥がマニラからサイゴンに移ったのが1944年11月17日で、米軍のレイテ上陸直後のことだった。当時一兵士に過ぎなかった私が、わが最高司令官の居室に滞在するとは光栄なこと。往時を偲び、目を窓外に転じると、そこはサイゴン川の埠頭の広場で、輸送艦が物資の荷揚げ中。私の所属した陸軍船舶兵暁部隊の作業と重なって見えた。 テト攻勢下のサイゴン市では1、2、3区だけが政府治下にあるといわれていた。夜間は外出禁止令(カーフュー)が発令されており、窓外の対岸では信号弾、ロケット弾、曳光弾が飛び交うのが花火のようだ。銃声や砲声も聞こえ、着弾にともなって停電も頻繁にあった。ホテルでは室内はもとより、最上階のレストランや廊下にも蝋燭を並べており、停電になるとすぐ誰かが飛んできて、火をつけてくれる。そのサービスは良いのだが、蝋燭ではエレベーターもクーラーも動かない。暑さには閉口した。 ホテル前のグエン・フエ通りを行くと、すぐレ・ロイ大路に出る。繁華街の中心だ。休業中の中央停車場の前には運輸省もあるし、正面奥には大統領官邸、右にはエア・フランス、エア・ベトナム、キャラベル・ホテル、コンティネンタル・パレスなどがあって地の利を得ている。しかし便利だから安全とは限らない。この数か月後に、私のホテルのそばのグエン・フエ・ビルにロケット砲弾が打ち込まれて、日経支局長の酒井辰男氏が殉職されたことを私は牧さんの著書で初めて知った。遅まきながら、深く哀悼の意を表してペンの戦士のご冥福を祈る次第だ。 昼間の市内は、右を見ても左を見てもホンダのバイクで溢れていた。ホンダの発電機はべトコンも愛用しており、目下せっせとサイゴン包囲網の地下道掘りに使っていると消息通はいう。情報は北も南もツーツーで、噂として耳に入るが、誰がどちらを向いているかはわからない。どちらの側も、上層部は不思議とフランス語に親近感を示すが、華僑に対する不信と反感には根強いものがあり、一般には英語が浸透していた。 さて航空交渉の件は、紆余曲折を経たが、一定の成果を上げることができた。上空通過禁止は撤回され、エア・ベトナム機も羽田に乗り入れる可能性を得た。合意文書にはルオン運輸大臣と私が署名した。一段と弾着音の大きくなった4月22日、空港閉鎖前最後の便と言われて、私はベトナム航空のプロペラ機でバンコクに向かった。この間の経緯は日本航空の元法務部長で、関東学院大教授、坂本昭雄氏の著書『甦れ、日本の翼』(有信堂刊)の第2章「心に残る航空交渉」に詳しい。私なりに苦労した末、戦火のサイゴンから帰国した私を待っていたのは、5月1日付で国鉄に転勤異動の内命だった。(交通ペンクラブ会員・前日本交通協会会長)
【編集部注】『甦れ、日本の翼』でこの航空交渉の日本側代表だった柳井さんについて、筆者の坂本昭雄さんは「これまで一緒に働いた数多い役人の中で、柳井氏は最も教えられることの多い人だった。運輸省のエリート官僚でありながら、外国生まれの外国育ちだけあって、練達な外国語と気配りとユーモアに富んだ人物で、一方、戦争中の厳しい経験から胆力が据わっていて、国際交渉に相応しい判断力と剛胆さとを備えた人でもあった」と絶賛している。
2009年8月1日土曜日
戦火のサイゴンで航空交渉 ~柳井 乃武夫~
ラベル: 98号
遺骨収集の野口さんと対談
柳井乃武夫さんとアルピニスト野口健さんの対談が、7月下旬に発売された月刊誌「問題小説」8月号(徳間書店発行)に掲載された。 野口さんは、ヒマラヤ登山の「マイナス30度の強風の吹きすさぶテントの中で」生きて帰れたら、遺骨収集にあたろうと決心する。生死の間で、祖父から聞いた太平洋戦争末期の南洋の島で戦死していった兵士の話を思い出したのだ。 昨年3月、フィリピン・セブ島に渡って、遺骨収集作業を行った。そして柳井さんの著書『万死に一生~第一期学徒出陣兵の隊手記』(徳間文庫)に出合った。ことし3月、3回目のフィリピンへ。柳井さんたちの戦闘現場、セブ島、レイテ島、ポロ島で1406体の遺骨を収集し、遺骨とともに帰国した。 つい最近まで民間団体による「遺骨収集」は許可されていなかった。「灼熱地獄のジャングルをさ迷い、必死の思
いでご遺骨を発見してもどうにもすることができなかった」と野口さんは口惜しい思いをブログに書いている。これを読んだNPO法人「空援隊」(本部・京都、倉田宇山代表)が協力を申し出た。この団体は「何が何でも遺骨
を祖国に
還す」とセブ島に現地事務所まで作って遺骨収集をしているのだ。今では厚生労働省もこの空援隊の情報をもとに政府の収集団を派遣しているという。 対談の内容は、雑誌が発売前なので不明である。野口さんから拝借した写真を掲載したい。
ラベル: 98号
高橋浩二さんと新幹線
高橋浩二さんは中国の青島に生まれ、旧制第五高等学校を経て昭和20年9月、東京帝国大学第二工学部土木工学科を卒業した。東大第二工学部は戦時体制下の技術者逼迫を見越して、西千葉駅近くの広大な敷地に設立されたもので、学生の多くは寮生活を余儀なくされ、戦争末期の甚だしい食糧不足に悩まされていた。高橋さんは若くして牢名主のような存在で、近くの畑から芋を失敬する切込隊の指揮官であったと聞く。
ラベル: 98号
故藤田湘子会員の全句集
『藤田湘子全句集』が角川書店から4月に刊行された。遺句集「てんてん」までの11句集を集大成。「交通ペン」に掲載された句も入っている。湘子さん=写真=の俳誌『鷹』主宰の小川軽舟さんが毎日新聞5月31日付で紹介したその代表作――。
・愛されずして沖遠く泳ぐなり
・うすらひは深山へかへる花の如
・芋の葉の大きな露の割れにけり
・真青な中より実梅落ちにけり
・湯豆腐や死後に褒められようと思ふ
・あめんぼと雨とあめんぼと雨と
ラベル: 98号
メトロポリタンプラザ21世紀会
JR池袋駅西口にメトロポリタンプラザビル(地上22階)が92年6月に開業して今年で17年。ホテルメトロポリタン、東京芸術劇場と西口開発の「3点セット」といわれたが、ダサイといわれた池袋が新宿・渋谷に並ぶ副都心に成長、豊島区が文化庁長官からことし「文化芸術創造都市」の表彰を受けた。
「メトロポリタンプラザ21世紀会」は7月10日発足。会長は当時の池袋ターミナルビル社長・竹内哲夫氏、名誉会長に中島二三夫現社長。発起人が吉村雅司氏らで、会員に毎日新聞OBの大澤栄作、堤哲両氏ら50人ほど。「開業に合わせ『毎日グラフ』で池袋を特集、2千人にお渡しした」と大澤氏。
ラベル: 98号
2009年7月17日金曜日
2009年6月22日月曜日
2009年6月15日月曜日
2009年5月1日金曜日
日本ナショナルトラストが設立40周年
ともかく知名度アップを
大塚会長 観光立国の追い風受けて
(財)日本ナショナルトラスト(JNT)の設立40周年記念の式典とシンポジウムが4月20日、東京上野の東京国立博物館平成館大講堂で開かれた。明治百年の1968(昭和43)年に設立、自然景観の保護や地域遺産を観光資源として利活用するなど地道な活動をしてきたが、お手本とした英国のナショナルトラストは遥かに遠い存在。観光立国をめざして昨年10月には観光庁が新設され、「ナショナルトラスト運動の推進」が施策のひとつにあげられている。JNTに追い風が吹き始めた。
大塚陸毅会長(JR東日本会長)は「財団の社会的役割はますます重要になっている。ともかく知名度をアップして、会員を増やそう」と呼びかけた。
ラベル: 第97号
自慢の長鼻ちょっと短く

山梨リニア実験線に新しい試験車両がお目見えし、4月3日から試験走行が始まった。実用化に向け先頭車両の先頭部の長さを23㍍から15㍍に短縮するのと同時に、車体の形状も円形から角形に改良した。JR東海は昨年5月に実験線を42・8㌔へ延ばす工事を始めた。完成する2013年度末から12両編成による時速500㌔での長距離走行実験を続ける。
ラベル: 第97号
JNT 「飛躍の予感ある」
シンポジウム 厳しいが温かい指摘
篪庵(ちいおり)と名づけて住めるように改装、屋根もふき替えた。現在では株式会社「庵」を設立して、京都の町家を宿泊施設などに再生させている。四国でジェイアール四国アーキテクツ(東矢英二社長)が展開している事業と同じだと思っていたら、「提携しています」と話した。
、1935年は現在の日本の会員と変らないだった。創設から60年以上経って一気にテイクオフした。くじけないで会員増をめざしてほしい」と話した。 ラベル: 第97号
前途洋々 「第3の柱」
4,000万枚突破した「suica」と「PASMO」
「Suica」と「PASMO」の発売枚数が4月5日で4000万枚を突破した。JR東日本は、このスイカ事業を本来の鉄道事業、駅と鉄道に関連した生活サービス事業に次いで「第3の柱」と位置づけている。「改札」の変革から思わぬ発展へ、である。
スイカのサービスが始まったのは、2001年11月18日だった。新宿駅南口でオープニングセレモニーが行われ、東京圏424駅で一斉に導入された。
その後、04年3月22日に電子マネーサービスを始め、07年3月18日からは「PASMO」が登場し、首都圏ではカード1枚でJRも私鉄も都営も改札が「タッチ・アンド・ゴー」となって、便利になった。
で、08年1月に「Suica」と「PASMO」の発売枚数が3000万枚を超えた。その伸びはさらに加速して、4月5日現在で4003万枚(Suica2812万枚、PASMO1191万枚)となっている。
「改札」の変革から思わぬ発展へ、という表現は2月2日、交通協力会が主催した交通シンポジウム「鉄道の将来展望―技術と経営はどうあるべきか」の中で、JR東日本の大和田徹常務のスライドにあった。
改札係の駅員がカチャカチャと芸術的な音を響かせながら乗客の切符を切っていたのは、そう昔ではない。そういえば切符を乗客に持たせたまま入鋏する、改札係の「持たせ切り」が問題になったこともあった。
自動改札は私鉄が先行していて「国鉄のような広いネットワークを持つ鉄道では自動改札は無理だ」というのが常識になっていた。山之内秀一郎著『JRはなぜ変われたか』によると、自動改札の導入はキセル防止になるのではないか、その損失額を年間300億円、売上にすると6000億円を失っていると試算。「自動改札は採算のあう設備投資」となったというのだ。
JR東日本が始めたのは90年。しかし、定期券の乗客はいちいちケースから出さなくてはならない、今から思えば大変不便なものだった。むろんすでにスイカの開発は進められていた。その功労者は三木彬生(現神奈川臨海鉄道㈱特別顧問)、椎橋章夫(JR東日本執行役員IT・Suica事業本部副本部長)氏らだが、詳しくはJR東日本のHPの研究開発ストーリー「Suica誕生」をお読みいただきたい。
香港では97年9月からオクトパスを導入していた。カードにICチップが内蔵されていて、地下鉄もバスも自動改札装置にかざすだけで通過できるうえ、ショッピングにも利用されていた。今のスイカと同じ機能を持っていたのである。
香港に負けてはいられないというものの、ICカードは磁気券と比べ一桁高かったという。実用化に向け弾みがついたのは「1枚500円のデポジットをお預かりする」というアイデアにあったと、山之内さんは書いている。
大和田常務の発表によると、スイカ事業は「グループ経営ビジョン2020―挑む―」で経営の第3の柱として確立させる、とある。スイカは乗車券の機能や、駅ナカで買物をするときの電子マネー機能、クレジットカードや携帯電話との一体化のほか、個別認証機能を持つことからオフィスビルへの入退館、商店のサービスポイント制などにも活用できる。そのうえチップにはまだ他に機能を載せる「空き」があり、「さらなるビジネス展開」も可能という。
駅の券売機もそうたくさん必要なくなり、駅構内のスペースの再編で新たなサービスを提供することが可能だ。将来的には駅空間全体がモデルチェンジされる。
そして「ライフスタイルに革命」をもたらし、「Suicaシステム」が社会インフラ化される、と大和田常務は胸を張った。
ラベル: 第97号
常世田三郎さんを偲んで
格闘家集団の中の心優しきレスラー 吉村 俊作
「『もはや戦後ではない』という流行語があったが、裏を返せば盛り場のあちこちに未だ戦後が残っていた。道の真ん中にドラム缶を持ち出し焚き火をしているヤクザ風がいてサラリーマンがこわごわ通っているから『おい、危ないから消しなさい』と注意したら、一瞬ジロリとこっちを見たが、歩が悪いと思ったのか黙ってバケツの水をザブリ。武勇伝なんていうほどじゃないがね」 ラベル: 第97号
「トコちゃん」と「フルさん」
常世田さんの告別式にて 曽我健
ところがあった。その辺でも僧籍の「フルさん」と気持ちが通じていたのかもしれない。 究竟大乗浄土門 諸行往生称名勝 我閣万行選仏名 往生浄土見尊体
ラベル: 第97号
大盛況です「大鉄道展」

浦鉄道など地域の鉄道史や車両、施設などの魅力を余すことなく紹介している。特に東京への道と題したブルートレインコーナーは人気。その豪華さから動くホテルと呼ばれ、九州の人々にとって大切な列車だった。長崎県民は「さくら」に今も熱い思いを寄せる。このほか、特急「つばめ」に使用された1等展望車の実物大複製。つばめ・はとガール、旅客車の設計者・星晃氏コーナー、模型ジオラマなどの巡回展示物が花を添える。また、JR九州の主要駅長の町づくりや観光宣伝の出前トークもあり、盛りだくさんだ。 ラベル: 第97号
大統領と会見
交通ペンクラブ会員で文教大学大学院教授の中村恭一氏(66歳、元毎日新聞)は、独立1周年を迎えたコソボ共和国の大統領府に招かれ、3月24日ファティミール・セイデュー大統領と会見した=写真。
ラベル: 第97号
会員消息
◇JR東日本相談役・日本野球連盟会長の松田昌士氏(73歳)は、3月10日、母校の北海道大学から名誉博士号を授与された。国際文化交流その他の活動を通じ、北大の教育・研究の進展に寄与した功績が顕著だったこと。 松田氏は1959年法学部卒、大学院に進んで61年、法学研究科を修了して旧国鉄に入社した。北大では懇話会委員、運営諮問会議委員、経営協議会委員を務め、観光に関する大学院組織の設置を提言したほか、工学研究科及び観光学高等研究センターの寄附講座を設置、連合同窓会の初代会長を務めた。
◇JR東日本副会長の石田義雄氏は、4月1日付で国際鉄道連合(UIC、本部パリ)の会長に就任した。UICは1922年に発足した最大の国際鉄道機関。日本人の会長は初めて。石田氏は1967年東工大機械を卒業して、旧国鉄に入社した運転屋さん。
ラベル: 第97号






